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NYの「食べる」を支える人々

ためし読み / アイナ・イエロフ, 石原薫

ニューヨークの食の世界を支える「人」にスポットを当てたノンフィクション作品『NYの「食べる」を支える人々』を2017年9月末に刊行いたします。
食べることにかけては「世界級」と自称する調査報道ジャーナリストのアイナ・イエロフが、比類なきニューヨークという街の食の物語を紡いでいる人々の人生を描きます。
今回の「ためし読み」では、スシナカザワを運営するアレッサンドロ・ボルゴニョンと中澤大祐という二人の物語をご紹介します。
銀座の高級寿司屋「すきやばし次郎」で11年修業をしていた中澤大祐さんはなぜアメリカへと渡ることになったのでしょうか、そしてどのようにしてアレックスと出会ったのでしょうか。奇跡的な二人の出会いに注目です。

 

SUSHI NAKAZAWA
Alessandro Borgognone and Daisuke Nakazawa
スシナカザワ
アレッサンドロ・ボルゴニョンと中澤大祐

男性2人、どちらも30代前半だが、1人は北アメリカ大陸、1人はアジア大陸で生まれ育った。1人はアイデア、もう1人は夢を抱え、一方は大胆で向こう見ず、もう一方は静かで控えめ。組み合わさらないはずの2つのピースが、「グーグル翻訳」の少しの助けと、大きな確信によって組み合わさった。最初の顔合わせから1年、誰もが羨む4つ星を獲得した小さなお店のパートナー同士。これをニューヨーク物語と言わずして何と言う。

冬のように寒いある木曜の午後3時。早口で自信に満ちたアレックス・ボルゴニョンは、まだ真新しさの残るお店をくまなく見て回っている。同時進行でスタッフの相談にのり、床に落ちている紙切れに気づいて拾い上げ、携帯電話の会話を終える。ようやく深い息をついて、眩ゆいほど白い大理石のカウンターで待つ私のところへやってくる。そのカウンターは、「ここで披露する鮨という本物の芸術」の背景として彼が特別にデザインしたという。

アレックスと私が話している間、中澤大祐は、階下の厨房で夜の営業の準備をしている。働き蜂たちが忙しなく動き回るこのフロアと違って、そこには静寂が流れている。BGMも話し声もない。彼のアシスタントたちは、タコの下ごしらえやウニの準備に没頭している。私がアレックスとの話を終えると、大祐が階下から上ってきた。

2人でダイニングルームの奥にあるテーブルへ向かう。部屋の反対側では、スタッフ数人が集まって話をしている。中澤の英語は、本人が認めるとおり、未だにかなりたどたどしい。かたや私の日本語はそもそも存在しない。そのため、話している途中で彼も私も時おり相手の言っていることが理解できなくなる。そのときは、2人で部屋の反対側に座っている人たちに救いを求める。彼らが助けになるときもあるが、ほとんどの場合、ただ笑ってお手上げの仕草をしている。

アレッサンドロ・ボルゴニョン

1993年、親父が初めてレストランを買ったんです。ブロンクスの小さなピザレストランで、母の名前をとって「パトリシアズ」と名づけて。僕は料理学校を出たんですが、親父の店を手伝うことになったとき、接客をやることにしたんです。だって料理人は大変ですし、厨房にいる間、誰にも会えませんからね。それより、いい格好をしてお客さんと接するほうがいいと思ったんです。

僕らは小さなピッツェリーアだったパトリシアズを、おいしい料理を出す地元の小さなイタリアンレストランに育てました。店は繁盛してすぐに手狭になったので、隣のビルを買う話が持ち上がったとき、迷わず買ったんです。でも新しいパトリシアズは、それまでの地元密着店より高級な店でしたので、以前の常連客が来づらくなり、お客さんを半分失ってしまいました。それを取り戻すために懸命に働かないといけなかったので、毎晩帰るのが夜中でした。

ある晩、午前1時に帰宅すると、僕の言い訳に嫌気がさしていた妻が「私も子どもたちもほったらかしじゃないの!」と怒ったので、いつもの手で、「愛してるよ。一緒に映画でも観ながら話そう」となだめて、2人でネットフリックスの番組の中から「二郎は鮨の夢を見る」という字幕付きのドキュメンタリーを選んだんです。

それは、日本の国宝とされる歳の鮨職人、小野二郎のドキュメンタリーでした。東京・銀座の地下鉄駅そばにある、10席しかない、いつも予約でいっぱいの彼の鮨店を取り上げてたんです。二郎とその息子、3人の弟子たちの1日を追っているんですが、僕はその中の1人の弟子のエピソードに目を奪われたんです。彼は11年間、師匠がほとんど目もくれない場所で、コツコツと仕事をしてきました。「たまご」を200回以上も作ってきたんですが、まだ二郎に「よし」と言ってもらえない。ようやく認められたとき、彼は文字どおり泣き崩れるんです。カメラがそれを一部始終とらえていて、すごく感動的で――そして心が躍りました。

外食ビジネスに携わっている1人として、そしてじっと座っているのが苦手な人間として、僕はいつも次の手を考えてます。だからこれを観たとき、「そうだ!  この中の誰かを中心にして鮨屋を開いたらいいんじゃないか」とひらめいたんです。妻には「変なこと思いつくのはやめて」と言われましたが、僕はもうその抜群のアイデアに夢中で、二郎とその息子をアメリカに来させるのは無理だろうけど、この卵焼きを作った弟子なら、うんと言うかもしれないと思って、映画をもう一度再生して、エンドロールで弟子の名前がナカザワダイスケだということを確認しました。

翌朝さっそくフェイスブックで調べると、ナカザワという苗字の人はたくさんいましたが、名前がダイスケの人は1人だけで、プロフィール写真は小さな子どもたちでした。一か八か、メールをすることにしました。自分は何者で、何をしたいと思っているのか。電話番号も添えて、「グーグル翻訳」で日本語に変換し、送りました。

2週間後、市外局番が「206」の電話番号から電話がかかってきました。シアトルです。正直、自分が書いたメールのことはその瞬間まで忘れてたんですが、ナカザワからでした。今シアトルに住んでいて、知人の加柴司郎の店で鮨を握っている、と片言の英語で説明されました。僕が、「次郎に近いがアメリカ人向けにひねりを加えた店」をニューヨークでやりたいと必死に伝えると、彼は同じことを考えていて、それが彼の夢だと言ったんです。

彼に声をかけようと思った人が他にいなかったことに驚きましたが、実際そうでした。僕的にはお膳立てが揃っていて、これ以上のタイミングはなかった。そこで、彼にニューヨーク行きのチケットを送り、通訳の助けを借りながら、3日間かけてお互いのことを知りました。それからの数カ月、メールを通してやりとりし、2013年のバレンタインデーに再び彼を呼びました。今回は、具体的な話を進めるために。

この2回目の訪問で、計画のほとんどが立ちました。100平米の物件を見て、そこに店を開くことにしました。以前は美容院で、とんでもないボロ屋でしたが、環境が静かで趣があって気に入ったんです。ウェストビレッジの街中で並木道は珍しいので、決めました。3カ月で店ができるよ、とナカザワに言うと、彼は「そんなことはないでしょ」と言って笑ってましたが、その後も、ダイスケは気づくといつも笑ってるんです。

僕の予想どおり、店の工事は3〜4カ月かかりましたが、ほんとうに時間がかかったのは、それ以外のありとあらゆることです。スタッフ、料理、そして2人が思い描いていたコンセプトを作り上げるという一番重要なこと。イタリア人と日本人、文化も違う、意思疎通もままならないけど、尊敬し合う2人が共有していた目標は、ニューヨークで一番うまい鮨を食べさせ、どの店とも違う鮨店を作ることでした。

それを実現したんです。僕らが他と違うところは、僕らが「演出」と呼んでいる、ちょっとしたパフォーマンスを毎晩見せることで、これは中澤の役目です。生きたままのエビを出されたこと、ありますか? そういうのが意外性、演出です。彼が出すウニはまだ繭を被ってますし、イタヤ貝はまだピクピク動いてる。そこがぜんぜん違うんですよ。その過程が他の店にはない空気を生みだしているんです。お客さんのほとんどは、そこまでチャレンジャーじゃないですけど、目の前に置かれて、中澤がニコニコして見てたら、もう食べるしかないですよね。

ダイスケはいつもニコニコしてます。鮨店の大将ってだいたい愛想がないですよね。「マサ」の大将も、お客さんに二言も話しませんよ。僕はそれがダメなんです。食べにいった店が高いのは構わないんですが、楽しく過ごしたいんですよね。でも堅い人もいます。そこへいくと、中澤は、お客さんが店に入ってきた瞬間に満面の笑みで迎えますよ。仕事をしながらお客さんの相手もするから、お客さんが喜ぶんです。彼も楽しそうです。自分から話しかけたり、お客さんの自撮りに入ったりもしますし。お客さんは大喜びです。

スシナカザワは、2013年8月22日に開業しました。しばらくは慣れるまで静かにしていましたが、その後、「ニューヨークタイムズ」と、食関連の最新情報を配信している2大グルメブログ「イーター」と「グラブストリート」に、開店を知らせるメールを送りました。たった1行、「小野二郎の弟子、中澤がコマースストリート23番地に出店」と。

僕らのウェブサイトもすでに作ってあり、予約の電話やメールをくれた人をもとに、メーリングリストを作り、それから宣伝を始めようと考えていたんですが、イーターやグラブストリートにその一言が載って1日も経たないうちに、それを見た人たちから予約の電話やメールが殺到したんです。ゆうに2000件は超えてました。インターネットの力、あの映画の力はすごいですね!  ほぼ全員が名前と電話番号、メールアドレス、予約人数を言い残してくれて、あれから1年経ちましたが、ずっと予約でいっぱいです。

成功の要因はいくつかありますね。タイミングの良さは言うまでもないですが、中澤を捕まえて、ここに引っ張ってきて、2人の店を作ったのは、まあ僕の功績でしょう。他ですか?  他は全部、才能溢れるダイスケのおかげです。

それとピート・ウェルズ。

「ニューヨークタイムズ」のレビュー記事がすべて伝えてくれました。いずれ見にくるだろうとは思ってました。少なくとも期待はしてましたよ。それに、来るとしたらピート・ウェルズだと思ってました。でもわかってるのはそこまでで、彼は自分の名前では予約しませんし、いつ来店するかもわかりません。彼が書いたレビューによると、ダイニングルームにもカウンター席にも座ったとありましたが、僕も誰も気づきませんでした。僕らは、新聞社から電話があって初めて彼が来たことを知ったんです。いくつか確認の質問をされたので、もうすぐレビューが載るんだなと。でもある朝目覚めたら、ピート・ウェルズが僕らの店に4つ星をつけてたんですよ?  このときの気持ちは、とてもじゃないけど、言葉にできないです。

そのレビューがなかったら、僕らはたぶん「ただの店」だったと思います。星をいくつつけるかは彼の胸ひとつです。2つだったら並、3つだったらいい店。でも4つは、極上ってことです。つまり、今ニューヨークで他に5店しかない4つ星の店と肩を並べたってことなんです。ルベルナルダン、ジャンジョルジュ、イレブンマディソンパーク、デルポスト、パーセと。

「パトリシアズ」で学んだことをこの店に生かしてますよ。小さなイタリアピザの店も4つ星の鮨屋も、変わりません。どんな店でも、お客さんは最高のサービスを求めているんです。居心地のいい店とリピート客を作るという同じ信念でこの店もやってます。スシナカザワでは、何にも増してサービスが一番大事なんです。日本料理店で、サービスがいいと思える店がいくつありますか。行くまでもないです。この店の接客スタッフは全部僕が自分で選びました。本当を言うと、僕が気に入ってる数店から盗んだんですけど。その上で一人一人の力を最大限に引き出す努力をしました。それが接客の責任者としての僕の仕事なんです。スタッ、自分、店のサービスに気を配ること。それに邁進することです。今の僕の目標は、アメリカで一番の鮨店の座を守ること。それに尽きますね。

中澤大祐

12 年前、23歳のとき、小野二郎さんが東京新聞にのせた求人広告を偶然見つけました。「すきやばし次郎」が見習いを募集してたんです。もちろん二郎さんのことは知ってました。東京の人なら誰でも知ってますよ。地下鉄銀座駅近くの地下に10席だけの鮨店を持つ、日本一の鮨を握る職人です。この広告が出たときも有名でしたけど、今ほどではなかったです。今じゃ映画スターですからね。世界的有名人です。僕は応募して、見習いとして雇われました。二郎さんには弟子が3人いて、1人が職人、2人が見習いです。その日はすごく幸せな1日でした。

弟子は、鮨の握り方は教わりますが、実際には握りません。握るのは二郎さんだけです。それと息子さんと。弟子は厨房で材料を仕込みます。二郎さんが仕事をできるように下準備をするんです。僕は最初の3カ月間、言われたことすべてに「はい」と答えて、言われたとおりに材料を洗いました。鮨屋で師匠に言い返すことは絶対にしません。二郎さんに言い返すなんて絶対に絶対にあり得ないんです。数年して、魚を触らせてもらえるようになり、はらわたや鱗を取る作業をしました。でもカウンターに立って二郎さんと息子さんを手伝わせてもらえるようになったのは、そのさらに数年後です。それでもまだ手伝うだけで、握りません。

お店は小さくて、カウンターしかありません。カウンターの中は2人立てばもういっぱいです。残りの僕たちは、裏で酢飯を作ったり、海苔を炙ったり、二郎さんが必要なものを何でも用意します。二郎さんは完璧主義者なんです。米一粒一粒、海苔一枚一枚が毎日完璧じゃないとダメなんです。

ある日、二郎さんの映画の撮影隊がやって来て、店内にカメラをセットしました。その日、僕は「たまご焼き」を作ってました。食事の最後に出す、甘く焼いた卵料理です。もう何カ月も何カ月も作ってましたが、二郎さんの納得のいくものが作れませんでした。僕の望みは、二郎さんに「うん」と言ってもらうことだけなんです。そのためだけに仕事をしてるんです。でも200回続けてやり直し。カメラの入ったその日、ようやく二郎さんが「よし」と言ってくれたんです。やっと二郎さんに僕のたまごを認めてもらえて、ほんとうに嬉しくて泣きました。その涙が映画に使われました。

僕は二郎さんの下で11年働きましたが、2011年に日本は地震と津波に襲われ、僕は家族が日本で暮らすことに不安を覚えました。当時、子どもが3人いて――今は4人です――子どもたちと妻のことが心配でした。二郎さんにアメリカに行きたいと言ったら許してくれました。僕は十分に力をつけたから、「職人」つまり鮨を握る人になれる、そう言って送り出してくれたんです。アメリカに知っている人は加柴司郎さんしかいませんでした。二郎さんの弟子だった人で、シアトルで自分のお店をやってました。毎年夏になると東京に帰ってきて、二郎さんに挨拶しに来てたんです。そこで、僕を覚えているかどうかと、雇ってもらえないかどうかを彼に書き送りました。司郎さんは今70代です。僕のことを覚えていて、雇ってくれると言ってくれました。

シアトルへ行って、英語を少し喋れるようになり、西洋の魚を鮨のネタとして使うことを覚えました。司郎さんのところで働きはじめて2年経ったころ、おかしな日本語のメールが届きました。二郎さんの映画で僕のことを見た人が、僕を大将にしてニューヨークで鮨屋を開きたいというような。独りでは内容が理解できなかったので、2週間、返事しなかったんです。ようやく何を言っているのかがわかったときには、この人はおかしいんじゃないか、なぜ僕なのか、僕のことを知りもしないのに、と思いました。真面目に言ってるとは思いませんでしたが、助けを借りて彼に電話しました。その後も互いにグーグルで相手の言語に変換しながらメールをやりとりしてたら、会って考えを聞いてほしいといって、彼がニューヨーク行きのチケットを送ってきたんです。僕も、ニューヨークで自分の店を持ちたいとずっと思っていたので、行くことにしました。

ニューヨークでアレックスに会い、彼が同い年くらいで、ブロンクスに自分の店を持っていることを知りました。ニューヨークを一緒に見て回り、鮨店のことを話し合いました。いい話でしたし、彼もすごくいいやつでしたが、どこまで真剣なのかまだ読めませんでした。最後に彼は、もし僕がその気になってくれるなら、店を「スシナカザワ」と呼ぼうと言ったんです。僕の名前のついた店! それが決め手でしたね。

2回目にニューヨークに来たとき、彼が選んだ場所を一緒に見て、計画を立てて、そこで初めて本当にやるんだと実感が持てました。2月に賃貸契約を結んでからは、それが僕にとって大きな決断だったことがわかりました。人生最大のチャンスだと思いましたね。

店は8月にオープンしたときからずっと満席です。最高ですね。お客さんに会うことも、カウンターに立って何でも好きなことができることも。僕は大将でもあり、師匠でもある。この店のお鮨で、二郎さんのお鮨に近いのは1割だけです。二郎さんに教わった技はたくさん使ってますが、今はアメリカ人のために握ってるので、アレンジして使ってるんです。アメリカ人と日本人とは好みが違います。

うちでは20貫を「おまかせ」で出しています。つまり、その日出すものを僕が毎日決めてるということです。アメリカ産と外国産の魚を仕入れてますので、その日の仕入れで何を作るかを決めるんです。鰆(ワシントン州フッド運河産)だったり、甘エビだったり。紅鮭が手に入ったら、藁を敷いてスモークします。メイン州から新鮮なホタテを仕入れて、生きたまま出します。それだけ新鮮だということです。うちの大トロ(手巻き)は、東京湾産の海苔で巻いてます。

店での1日はいつも同じです。午前11時半ごろに出勤して、地下の厨房で3人の助手と一緒に晩の準備をします。下はすごく静かです。誰も喋らないし電話もないし、ひたすら仕事をするだけです。

最初に、届いた魚を確認します。今日は180キロのマグロがあるので、大トロ、中トロ、赤身に切り分けます。あとはウニの殻を剥いたり、たたいたカツオを切ったり、タコの皮を剥いだり、たまごを作ったりします。6時には準備を終えて、営業開始です。

今度は僕がスシナカザワで弟子に教える番です。僕も二郎さんのように仕事には厳しいですが、教え方はぜんぜん違います。僕はいつもスタッフに「グッジョブ」と言うんです。二郎さんもときどきは言うかもしれませんが、それを言われるためには、ものすごい努力が必要なんです。ものすごいプレッシャーです。もう1つ違うところは、いつも真面目で笑わない二郎さんと違って、僕は楽しいほうが好きです。日本人はお鮨がおいしければそれだけでいいんですけど、アメリカでは、おいしい上にエンタテインメント性も求められるんです。

二郎さんはどうかわかりませんが、僕はしょっちゅう二郎さんのことを思い出します。僕がこっちでどんなことをしているかを手紙に書いて送ってるんです。まだ一度も返事をもらってませんが、それでも構わないんです。二郎さんはもうすぐ90になりますが、たぶん今でも鮨を握ってると思うので、忙しくて返事を書く暇がないんだと思います。

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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NYの「食べる」を支える人々
アイナ・イエロフ=著|石原薫=訳
発売日:2017年09月25日
四六判|448頁|定価:2,300+税|ISBN 978-4-8459-1621-4
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参考動画

【著者のアイナ・イエロフさんに関する動画】

【スシナカザワに関する動画】

プロフィール
アイナ・イエロフIna Yalof

ニューヨーク在住。調査報道ジャーナリスト、ノンフィクション作家。30年以上にわたり、医療、科学、宗教、幸福など多岐にわたるテーマについて本や記事を執筆。主な著書に、オーラルヒストリー(聞き書き)として高く評価されている『Life and Death : The Stor y of a Hospital(生と死ーある病院の物語)』、『What I t Means to Be Jewish(ユダヤ人であることの意味)』、『How I Write(私の書き方)』(ジャネット・イヴァノビッチとの共著)、『What Happy Women Know(幸せな女性が知っていること)』などがある。雑誌は『GQ』『Harper’s Bazaar 』『New York』などに寄稿。本作は単著・共著含め14 冊目の著書。米ダートマス大学の生涯学習プログラムILEADでライティングを教える。

Photograph of the author © Ashley Moore

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プロフィール
石原薫いしはら・かおる

翻訳家。主な訳書に『シビックエコノミー 世界に学ぶ小さな経済のつくり方』、『We Own The City 世界に学ぶ「ボトムアップ型の都市」のつくり方』、『HELLO WORLD「デザイン」が私たちに必要な理由』(以上フィルムアート社)、『デザイン思考の教科書』(日経BP 社)、『ピクサー流創造するちから』、『よい製品とは何か』(以上ダイヤモンド社)、『未来をつくる資本主義』(英治出版)、『SustainableDesign』(ビー・エヌ・エヌ新社)などがある。

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