『文学効能事典 あなたの悩みに効く小説』 | かみのたね
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『文学効能事典 あなたの悩みに効く小説』

ためし読み / エラ・バーサド/スーザン・エルダキン, 石田文子, 金原瑞人

はじめに

この本は、体や心の具合が悪いと感じたときに開いて、その対処法を知るために参考にしてほしい――といっても、いわゆる健康本や医学解説書とはちがう。

どこがちがうかというと、まず、取り上げている症状や悩みの種類がバラエティに富んでいる。体の痛みも心の痛みも区別することなく取り上げているので、この本を開けば、「腰が痛いとき」や「歯が痛いとき」と同様に、「恋人と別れたとき」の対処法もみつかる。また「ホームシックのとき」や「飛行機がこわいとき」など、よくあるストレスを感じやすい状況も取り上げているし、「結婚相手をまちがえたとき」や「職を失ったとき」など、人生の深刻な危機も心身の不調をもたらす悩みとして取り上げている。さらに「二日酔いのとき」や「深く関わるのがこわいとき」、「ユーモアがわからないとき」などのささいな症状や悩みも、ケアの必要な疾患とみなしている。

そしてもうひとつ、ふつうの健康本や医学解説書とちがうのは、症状の改善のためにすすめる薬が薬局ではなく書店や図書館にある点だ。場合によっては、ネットショップから手持ちの端末にダウンロードすることもできる。つまり私たちは「読書療法士」(ビブリオセラピスト)であり[*]、治療に使うのは本だ。取り揃えている薬は、ヘミングウェイ、トルストイ、サラマーゴ、ペレック、メルヴィルなど、さまざまな種類があるが、それらを用意するために、古くは2 世紀の作家アープレーイユスの『黄金の驢馬』から、現代の強壮剤ともいうべきジョナサン・フランゼンの作品まで、2000年に及ぶ文学史のなかから、最高の知性にあふれ、もっとも心身の回復効果が期待できる小説を集めた。

読ビブリオセラピー書療法は、ここ数十年間、ノンフィクション系の自己啓発本という形で普及してきた。しかし、文学愛好家は、意識してかどうかは別として、大昔から小説を軟膏のように使って傷をいやしてきた。だから、元気を回復させたいとか、不安定な感情をなんとかしたいと思うことがあれば、ぜひ小説を手に取ってほしい。というのも、小説は読書療法の薬として、もっとも純粋で信用できるうえ、その効能はひじょうに高いからだ。私たちはそれに関して、クライアントから直接話を聞くほか、数多くの事例を直接間接に見聞きしてきた。ときには小説のプロットが魔法のような効果を発揮するし、散文のリズムが心を鎮めたり刺激したりするのに役立つ。また、自分と同じような苦境にある登場人物の考えや態度が、よい影響をもたらすこともある。いずれにしても、小説には読む者を別の存在に移し替え、違う視点から世界をながめさせる力がある。小説を読むことに没頭しているとき、読者は登場人物が見ているものを見て、さわっているものをさわり、学んでいるものを学ぶ。体は自宅のリビングのソファに座っていても、思考や感覚や精神など、自分にとって重要な部分は、完全に別の場所に存在するのだ。「私にとって、ある作家の作品を読むことは、たんにその作家が書いていることを理解することではなく、一緒に旅に出るようなものだ」 アンドレ・ジッドはそういっている。そんな旅に出たら、だれでも人生が変わるはずだ。

体や心のどんな不調に対しても、この本が提示する処方箋はシンプルだ。1 冊(ときには2、3 冊)の小説を、一定の期間内に読むこと。それで完全に不調が治る場合もあれば、自分はひとりじゃないとわかって慰められるだけの場合もあるだろう。しかし、いずれにせよ、たとえいっときでも、症状は緩和されるはずだ。小説には気を紛らわせ、我を忘れさせる力があるからだ。オーディオブックを使うのが効果的な場合もあるし、友人と一緒に朗読するのがいい場合もある。普通の薬と同じように、処方された本は最後まで読み切るのが、いちばんいい結果につながる。この本では、読書療法による疾患の治療法、対処法のほかに、忙しすぎて本が読めないとか、眠れないときに何を読んでいいかわからないといった読書の悩みに対するアドバイスや、年代別におすすめの小説のリストも載せている。

心身の不調を改善する薬として本書でおすすめする小説を、読者の皆さんが十分に楽しんでくれることを願っている。それによって、いま以上の健康と、幸福と、より多くの知恵を手に入れてほしい。

* 読書療法とは、一般に神経症などの治療のために本を使って行う心理療法だが、私たちは心身の不調や人生の悩みに対して適切な小説を処方することと定義している。

 

死ぬのがこわいとき

『ホワイト・ノイズ』ドン・デリーロ著 集英社

こんな風に思ったことはあるだろうか。自分はいつこの世から消えてもおかしくない存在なんだ、そうと知りながら、平気で生活していられるわけないじゃないか。あるいは、こんな経験はないだろうか。夜中にふと目覚め、自分の存在が永遠になくなる瞬間が迫っているという恐ろしい予感がして、冷や汗をかき、ベッドの上で身動きできなくなる。

きっとだれにでもあることだろう。死を意識することは、我々人間を動物と隔てている特徴だ。だが、死に対してどのように対処するか─神と死後の世界を信じることにするか、無になることを受け入れるか、そもそも死について考えることをやめるか─それは、人それぞれだ。

『ホワイト・ノイズ』の主人公はアメリカ中西部の大学でヒトラー学の教授を務めるジャック・グラドニーだ。彼はつねに激しい死の恐怖を感じている。いつ自分が死ぬのか、自分と妻のバベットのどちらが先に死ぬのか(できれば妻が先に死んでほしいとひそかに願っている)。そんなことが頭から離れず、妻が死んだあとの人生の時空に出現する“穴、深淵、裂け目”の大きさについて、いつも考えている。ある日ジャックはバベットが自分と同じくらい死を恐れていることを発見する。それまで、ジャックにとって、ブロンドで豊満な妻は“陽光と濃密な人生”の象徴で、自分と自分の恐怖のあいだに立ちはだかってくれる存在だった。その発見に、ジャックの魂は揺さぶられる─そして、それまで幸せだった結婚生活の土台も揺れる。

ジャックは死の恐怖を克服するために、あらゆる論理や哲学を探究する。そのなかには、防御物となる群衆のなかに身を置くことから、霊魂の再来説まで含まれていた(あるフレンドリーなエホバの証人の信者は、長い週末の過ごし方を尋ねるかのように「復活したら、どんな風に過ごすつもりなんだい?」と尋ねてきた)。結局、彼の気持ちを落ち着かせる(死の恐怖から気を紛らわせる)のにもっとも有効な方法は、子供の寝顔をじっくりと見ることだった。そうしていると、自分が“献身的な聖霊の世界の一部”になったような気がしてくるのだ。これは、寝ている子供が身近にいる幸運な人々とっては、死の恐怖だけでなく、あらゆる恐怖
をいやす薬としてたしかに有効な方法だろう。

もしかしたら、ジャックが探究した論理や哲学のどれかが、読者には効くかもしれない。もしそうでなくても『ホワイト・ノイズ』を読めば、死を考えることと笑いが紙一重だということに気づくだろう。デリーロはユーモアのある作家で、たとえばジャックがドイツ語の単語を発音しようとするときのようすなど、小説の一節として最高におもしろい部類に入るだろう。死の恐怖に襲われた夜は、ぜひこの本を手にとり、恐怖が笑いに変身するのを体験しよう。

もうひとつ、ベッドのそばに置いておきたい薬は、『百年の孤独』だ。この小説はマコンドという村のブエンディア家の物語で、何度でも読むことができる。なぜなら、さまざまな出来事が永遠の輪廻のように起こり、それぞれがとても緻密に描かれているため、読むたびに新しい発見があるからだ。題名のとおり、100年に及ぶ物語なので、死はしょっちゅう、あたりまえのように起こり、登場人物は自分の死を自然の摂理として受け入れる。その態度は、やがて、読者のなかにも刷りこまれていくかもしれない。

たとえそうならなくても、何度も何度も、繰り返し読み続けよう。するとある夜─たぶん、ようやく最後のページにたどり着き、また最初から読み始めたとき─どんなすばらしいことでも、いつかは終わりがきてほしいと思うようになるだろう。

 

読書の悩みを解決!

【読書の悩み】 分厚い本を読む気がしない
【処 方 箋】 1冊の本をいくつかに切り分けよう

レンガのように厚みのある本を見て、そのサイズだけで怖気づいてしまったとしたら、この世でもっともすばらしい本を読む機会を逃すことになるだろう(以下の「おすすめの大長編小説」参照)。精神的な障壁を打ち破るために、その本をもっと扱いやすいサイズに切り分けよう。単行本なら、本をまっすぐに立てて上から見下ろすと、ページが“ 折丁”と呼ばれる単位に分かれていて、それをたくさんまとめて綴じてあることがわかるだろう。本を切り分けるときには、折丁と折丁のあいだで切るようにしよう。ペーパーバックの場合はページが背表紙に糊付けされているから、もっと自由に切り分けることができるが、ページがバラバラにならないように洗濯ばさみ等ではさまないといけない。これで、巨大な長編が、あっという間にいくつもの薄い小冊子に変身する。どれもちょっと長めの短編小説くらいのサイズなので、もうちっともこわくない。ところで、バラバラになった本のことはあまり気にしなくていい。読み終わったら捨ててしまえばいい。疾走する列車の窓から本のページを1 枚ずつ上の空で飛ばしていくなんて、考えるだけですてきだ(そんなごみのポイ捨てをすすめるのは不謹慎だろうが)。いずれにせよ、読み進むにつれて本が薄くなると気持ちも楽になる。大長編小説は、頭のなかに所有するほうが、手つかずのままドアストッパーとして使用するようになるよりよっぽどいい。

 

おすすめの大長編小説

『ラナーク─四巻からなる伝記』 アラスター・グレイ
『豊饒の海』 三島由紀夫
『失われた時を求めて』 マルセル・プルースト
『重力の虹』 トマス・ピンチョン
『虚栄の市』 ウィリアム・メイクピース・サッカリー
『戦争と平和』 トルストイ
『花嫁の冠』 シグリ・ウンセット

文学効能事典
あなたの悩みに効く小説

エラ・バーサド/スーザン・エルダキン=著|金原瑞人/石田文子=訳

発売日:2017年06月26日

四六変型・並製|424頁|本体 2,000+税|ISBN 978-4-8459-1620-7