ドゥミ、リヴェット、レネ、ゴダール、ロメール、シャブロル、そしてトリュフォー……。「新しい波」から60年、映画と演劇の交錯を問い直し、これまでにないヌーヴェル・ヴァーグ像を描き出す画期的評論、『ヌーヴェルヴァーグの世界劇場──映画作家たちはいかに演劇を通して映画を再生したか』 。
今回の「ためし読み」では、著者・矢橋透による「初めに」の部分を公開いたします。
初めに
本書は、文芸誌『文學界』(文藝春秋)に、2015年から18年にかけシリーズ的に掲載された、六つのフランス・ヌーヴェル・ヴァーグ映画作家論に、この短い「初めに」と、(冒頭にフランソワ・トリュフォーの『終電車』論を補論的に収めた)「終章」を加えたものである。章立ては、思考の発展の痕跡が辿れるようにするためにも、雑誌掲載の順序を踏襲している。そして、それらの論考はいずれも、作家たちの作品創造を、演劇性(テアトラリテ)──この場合の演劇とは、実際的意味での演劇と、(メタ)演劇的テーマないしは演劇的世界観の両方を指す──という観点から再考しようとしたものである。
知られているように、映画と演劇の関係は伝統的に良好なものではなかった。ある時代までは、映画にたいし「演劇的」と言う評価がなされることは、まさに否定的意味でしかなかったのだ。そしてこうした傾向は、映画批評・研究にも反映され、映画と演劇の関係を本格的に考察する機会を奪ってきたように思われる(もちろん、アンドレ・バザンのようないくつかの重要な例外はあるにせよ)。しかし、ここに採りあげられた6人の映画作家たち(そしてそこに、限定的なかたちではあれトリュフォーの名も加えてよいかもしれない)は、いずれも演劇への愛・関心を語ってやまない人たちであり、実際の創作活動においても──これから見ていくように──演劇への参照を通じて、まさに伝統的映画にたいするオルタナティヴ的な作品世界を切り開いてきたのである。そうした営為を辿ることで、幾分とも新しいヌーヴェル・ヴァーグ像を見出すことができると考える。近年映画史研究においてもやっと、映画を、演劇など他の芸術ジャンル・メディアとの関係において再考しようとする傾向が顕著になってきているように思われるが、本書のように、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家の作品世界を、集中的に演劇との関係から論じた例は、管見のかぎりでは存在していないのである。
序章を閉じるまえに、本論で何度となく言及される「世界劇場」というテーマに関し、簡単に説明を加えておこう。エルンスト・クルツィウスが論じたように*1、それは、ヨーロッパの思想・文芸において、古代ギリシャ=ローマ的伝統にも中世キリスト教的伝統にも存在し、その世界観形成においてきわめて重要な役割を果たしたと考えられるトポスであるが、元来は(当然ながら)、人は神の操り人形であり、世界はそうした人形=俳優が蠢く劇場にすぎないとする、受動的宗教的ニュアンスの強いものであった。ところが「世界劇場」イメージは、近代初めの社会転換期において、その意味を変じながら、ふたたび活気を帯び、近代的世界観の形成にも大きな寄与をなすことになる。ジャン=クリストフ・アグニューは、16世紀から18世紀の英米の思想・文学において、資本主義経済の本格化により流動化した社会を解釈するのに、劇場・演劇のイメージが頻用され、そのさい世界劇場のイメージも、伝統的な世界=劇場=夢という宗教的ニュアンスの強いものから、世界=劇場=市場という、人間の能動性・主体性を表象する、経済的なものにドラスティックに変化したことを喝破している*2。このように、「世界劇場」は、古代から近代にかけてのヨーロッパの世界観をつなぎつつ断ち切るような、きわめて重要な働きをなしたと考えられるのだ。そして、そうしたテーマが、これから見るヌーヴェル・ヴァーグ映画にも幾度となくも立ち現れてくることになるわけだが、そのさいそれは、意外にも、能動的=近代的というよりは、むしろ受動的=古代中世的ニュアンスを感じさせるものになっているのが目撃されるであろう。そのことに関する考察は今後順次加えていくとして、本書が、前節で見た(演劇性〔テアトラリテ〕という観点を中心としたフランス・ヌーヴェル・ヴァーグ映画の再考という)映画史的関心と、こうした精神史的関心を併せ持っていることを、お含みおき願えれば幸甚である。
註
1 E・R・クルツィウス、『ヨーロッパ文学とラテン中世』、南大路振一・中村義也・岸本通夫訳、みすず書房、1971年、200―210頁。
2 ジャン=クリストフ・アグニュー、『市場と劇場──資本主義・文化・表象の危機1550-1750』、中里壽明訳、平凡社、1995年。また、同時代の文学や周辺的テクストの分析から、近代的人間の「自己成型」において「(能動的)演技」がいかに決定的な役割を果たしたかを明らかにした、新歴史主義の泰斗スティーヴン・グリーンブラットの以下の有名な書も、同方向の事実を指摘していると言える。 Cf. スティーヴン・グリーンブラット、『ルネサンスの自己成型──モアからシェイクスピアまで』、高田茂樹訳、みすず書房、1992年。さらには、私自身、メタ演劇的テーマが頻出する、17世紀中庸という時代のフランス演劇のテクストにおいて、その内実が、「受動的演戯」から(能動的な)「欺きの演戯」へと、ラジカルな転換を遂げていることを指摘した。Cf. 矢橋透、『演戯の精神史──バロックからヌーヴェルヴァーグまで』、水声社、2008年、第1、2章。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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