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オーテマティック 大寺聡作品集
第4章 interVIEW インタビュー

ためし読み / 井原慶一郎, 大寺聡

東京都国立市出身で、鹿児島県在住のイラストレーター大寺聡さんが、初の作品集である『オーテマティック 大寺聡作品集』を上梓しました。本書は「霧島アートの森」(鹿児島県)で現在開催されている大寺聡展「オーテマティック 2018(ニイゼロイチハチ)」の公式ガイドブックもかねています。

今回の「ためし読み」では、父祖の郷里で21世紀型の小さな暮らしを営みながら、最新のデジタル技術と豊かな自然との接点をテーマに創作活動を続ける大寺さんの思考に深く迫る「第4章 interVIEW インタビュー」の一部を特別に公開いたします。

 

ロング・インタビュー

21世紀型の小さな暮らしを模索する

(聞き手・井原慶一郎)

武蔵野美術大学に入学してからの4年間はどのようにして過ごされていましたか。

大寺 最初の2年間で一般教養の単位は全部取って、残りの2年間は、実技の授業以外はひたすら営業活動をしてましたね。雑誌「POPEYE」に持ち込みに行って、その場で採用してもらって載せてもらったこともあります(1989年9月20日号)。

当時は、社会側が学生を大事にしてくれていた時代でした。学生にもチャンスを与えてくれて。この頃の大人には今でも感謝しています。

この時期の作風について説明していただけますか。

大寺 アメリカン・コミックの影響を受けたようなイラストが中心でした。

この頃は「使いやすいイラスト」というのを大前提にしていました。一発屋というよりも、誰が見てもいいと感じてくれるようなイラストをたくさん作りたいという意識が強かったですね。とんがった絵というよりは、汎用性が高い絵を意識していました。

1990 sketch book

1990年のスケッチ帳には大寺さんの分身のキャラクターであるマティックくん(“キャプテン・ロバート”)やデンワ犬のドギーくん(“ドギー・ザ・テレフォン”)も登場していますね。このキャラクターが誕生したきっかけを教えてください。

大寺 実は誕生したきっかけはよく覚えていないんですよ。ただ、「FromA」という当時リクルートから出ていたアルバイト情報誌があって、そのキャラクターコンテストに応募して賞をもらったことをきっかけに、ずっと描いていこうという意識が出てきたんですね。

学生時代に影響を受けた憧れのイラストレーターは誰ですか。

大寺 海外作家も含めいろんな人がいますが、日比野克彦さんは外せないですね。あとはペーター佐藤さん、鈴木英人さん、佐々木悟郎さん。日比野さんは例外ですが、かたちがしっかりした人が好きでしたね。

1990 卒業制作「個性と発展」

卒業制作では、将来のインターネット環境を予見したかのような作品(「個性と発展」)を制作されていますね。こうした発想の元はどこにあったのでしょうか。

大寺 ビデオの登場が大きかったのですが、当時はメディアアートが流行っていて、キャンバスと美術館という組み合わせが時代遅れになったとみんなが感じていた時期だったんですね。

作品を外に出すためにはどうすればよいか、言い方を変えると、物質から解放されて何かできるんじゃないか――と、誰もが模索していた時期だったので、自分もどうにかしたいという気持ちであの作品を制作しました。タイトルは、ギル・エヴァンスのジャズ・アルバム(1964年)から取りました。

1989年の大晦日にお父様が亡くなられて(享年57歳)大変なショックだったと思います。この出来事が大寺さんの人生に与えた影響はやはり大きかったですか。

大寺 大きかったですね。父の死は卒業制作をしている最中でした。くも膜下出血で突然だったので、もう少し話をしておけばよかったと悔やまれます。父は、翌年、早期退職して借家を出て、鹿児島に家を建てる計画だったんです。公務員でしたが、本当は絵が描きたかったようです。その意味では、父の遺志を受け継いだという気持ちはあります。

父から言われたことはないですが、祖父からは「お前はここに帰ってくる人間だ」と繰り返し言われてました。「孫戻し」という言葉がありますが、そんな感覚で言ってたのかもしれませんね。

大学を卒業してから、イラストレーターとして一本立ちするまでの修行時代のような時期はありましたか。

大寺 デザイン事務所で誰かの下で働いたことはありませんが、20歳から28歳までフジテレビで文字打ちのアルバイトをしていましたから、それまでが修行時代と言えるかもしれません。

フジテレビのアルバイトは夜の8時から朝の8時まで(休憩時間を含む)というように時間で上がれたんですね。残った時間はすべてイラスト制作にあてることができました。最初はバイトの収入が9割だったのを徐々に減らしていって、イラストの割合を増やしていきました。

ついに職業イラストレーターになれたという実感が持てた瞬間があれば、教えてください。

大寺 最後のバイトの日が終わった明け方ですね。河田町(当時)のフジテレビの社屋を出た瞬間、自由な空気を吸っていると思いました。

1994 OHTEMATIC!

1993年にペンやアクリル絵具からデジタル(Macintosh Quadra 950)に変えたことで、何か画風に変化はありましたか。

大寺 アナログでつかんだ感覚をデジタルに置き換えることが目的だったから、画風の変化というのはあまり重要ではなかったんですよね。ただ、道具を切り替えたことで、一時期慣れるまでアナログ時代よりもヘタになりました。仕事ではデジタル中心ですが、今でも手っ取り早いのはアナログのほうですね。

その時代のソフトウェア(Adobe Illustratorバージョン3)の使い心地は、いかがでしたか。

大寺 その当時は、プレビュー画面とアートワーク画面を切り替えなければなりませんでした。今よりパソコンの性能は低かったのですが、ソフト自体も軽かったので、あまり重たいという感じはなかったですね。

クライアントへの入稿も、この時期からデジタルに移行していくわけですね。

大寺 2年くらい移行期があって、すごく不便でした。MOドライブに作品を入れて、出力屋さんに持っていって、高級出力機でプリントアウトして、それをトレーシングペーパーにくるんでから段ボールで包んで、バイク便でクライアントに届けていました。デジタルで描いてるんですけど、結局アナログで描いているのと同じ扱いでしたね。

「IST」カタログ 1999〜2000

1990年代の広告・デザイン業界は、今と比べていかがでしたか。

大寺 さっきの「POPEYE」の営業の話ともつながりますが、大人たちがちゃんと若い人たちを育てようとしてくれていたような気がしますね。世の中のムード全体としても、何かを作ることに関してみんなが価値を認めてくれていたという雰囲気がありました。

東京でフリーランスとして活動されている時期に、何度か引越しをされていますが、何か理由はあったのでしょうか。

大寺 ひとつの理由は、フリーランスでは役職が上がることはないので、モチベーションを高めるために事務所兼住居の家賃を少しずつ上げていったんですね。都心に近づいていこうということで。最後は渋谷駅から徒歩7分くらいのところでした。

結局これ以上家賃を上げていっても生活はあまり変わらないということに気づいたんですね。東京では10万円家賃を上げても10平米くらいしか部屋の大きさは変わりません。こういうレールに乗っていても意味がないと感じました。

HBギャラリー(1985年に東京・表参道にオープンしたイラストレーションを専門に扱うギャラリー)のオーナーで、イラストレーターの唐仁原教久さんとの出会いについて教えてください。

大寺 唐仁原さんとの出会いはHBギャラリーが始めたファイルコンペがきっかけでした。他のコンペと違うのは、落選してもファイル自体がギャラリーに残ることです。ファイルは一年間保管され、中身の入れ替えは自由。毎年参加すれば、ずっと自分のファイルがギャラリーの本棚に置かれることになります。当時はまだインターネットもなかった時代でしたので、イラストレーターを紹介するちょっとした図書館として、とてつもなく重要な役割を果たしていました。

唐仁原さんと直接お会いしたのは、1996年にHBギャラリーで最初に個展をしたときです。彼が鹿児島出身だということを知っていたので、九州や鹿児島のイラストレーション事情について伺った記憶があります。そのあと「九州会」(唐仁原さんと福岡のアートディレクター春髙壽人さんの呼びかけで1998年に結成された九州出身のデザイナーとイラストレーターの会)のグループ展で何度かご一緒させていただきました。2004年と2006年には鹿児島市で開催されたグループ展(「HOME~大寺聡・二宮由希子・唐仁原教久 三人展」天文館画廊/「クロニクル展~眼でみる戦後60年~」タカプラ6Fギャラリー)でご一緒しました。

2000年に鹿児島に移住されるということですが、いつから移住を真剣に考え始めたのですか。

大寺 父の死からずっと考えてはいました。それから10年間くらいが準備期間です。本気で考え始めたのは1995年くらいからだと思います。

移住への決意を固めた理由には、南に移り住んで答えを見つけた画家たち~ゴーギャンや田中一村などの存在が大きいです。また、ジョージ・ルーカスがハリウッドの映画システムから距離を置いていることも、勝手にですが、自分の人生と結びつけて考えています。

奥様と出会われたのは、移住を決めてからですか。お二人が出会われたのは東京で、ご結婚は鹿児島に移住されてからですね。

大寺 彼女と付き合い始めた頃には、もう移住は決めていたと思いますね。お試し期間的な時期をヘて、移住してから9ヵ月後に結婚しました。

2000 鹿児島移住の案内

お仕事や私生活の面で、鹿児島に移住することに不安はありませんでしたか。

大寺 自分ではなんとかなると楽観視していたのですが、周りからはかなり言われてましたね。収入が10分の1になるぞと脅されたり。九州から出てきた人に、顔が田舎くさくなるとまで言われてましたよ(笑)。

私生活での不安もあまりなかったですね。小学生の頃の楽しい夏休みの思い出があったからというのが大きいかもしれません。

実際に移住してみて、いかがでしたか。

大寺 自分が自由にできる空間がこれだけあるというのが、初めてだったので、すごくテンションが上がりました。自分の暮らしを一から組み立てるというところから、いろいろデザインできて面白かったですね。

2018 火に対する知恵

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)

※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

 


 

オーテマティック 大寺聡作品集
大寺聡=著
井原慶一郎=監修
発売日:2018年02月22日

A5版・並製|168頁|ISBN 9784-8459-1724-2|本体 2,200円+税

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プロフィール
井原慶一郎いはら・けいいちろう

1969年生まれ。鹿児島大学教授。専門は英文学、表象文化論、芸術文化デザイン論。著書に映画学叢書『映画とイデオロギー』(共著、ミネルヴァ書房、2015年)、訳書にアン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング/映画とポストモダン』(共訳、松柏社、2008年)、同『ヴァーチャル・ウィンドウ/アルベルティからマイクロソフトまで』(共訳、産業図書、2012年)、チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』(訳・解説、春風社、2015年)、トッド・マガウアン『クリストファー・ノーランの嘘/思想で読む映画論』(フィルムアート社、2017年)、監修書に『オーテマティック 大寺聡作品集』(フィルムアート社)がある。

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プロフィール
大寺聡おおてら・さとし

1966年生まれ。イラストレーター。1990年武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業後、東京を活動拠点としていたが、2000年、鹿児島県日置市吹上町に移住。テレビ、広告、書籍、WEBと活動は幅広く、最新のデジタル技術と豊かな自然の接点をテーマに表現活動をおこなう。2004年、文化庁メディア芸術祭アート部門審査員会推薦作品、2011年・2012年、南日本広告文化賞グランプリ、2017年、鹿児島県芸術文化奨励賞。

ウェブサイト www.ohtematic.com

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