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2018.03.23

混血列島論 ポスト民俗学の試み

ためし読み / 金子遊

批評、映像、民族学といった分野を越境しながら、さまざまな著作や翻訳を発表しているサントリー学芸賞受賞の映像作家・批評家の金子遊。いまもっとも注目されている気鋭の書き手の最新著作にして重要論集『混血列島論 ポスト民俗学の試み』がついに刊行。文学、映像、フォークロア研究を交差させながら、太平洋の島嶼という視点で日本列島(ヤポネシア)に宿る文化の混淆性を掘り起こす、新たな民俗学。
今回の「ためし読み」では、「prologue 混血列島論」の一部を公開いたします。

 

ヤポネシアからマクロネシアへ

 

 柳田國男による山人と平地人という二項対立を乗りこえて、複数文化の共鳴体としての「混血列島」を谷川健一が掘りおこそうとするとき、アイヌ民族と琉球人が重要になってくるのは必然だといえる。柳田國男は前述の「転回」以降、アイヌ民族がもつ民俗と日本列島の和人たちがもつ民俗を比較検討して、その共通点を探ろうとはしなくなった。たとえば、東北地方に見られるオシラサマに関しても、イナウと御弊の類似性やシャーマニズムという共通性があるにもかかわらず、そこに連続性や重層性を見ようとはしない。アイヌの熊送り(イヨマンテ)儀礼などは、サハリンやシベリアに住む北方諸民族との関係性がふかいので、異文化を研究する文化人類学の範疇だとして退けたのだ。谷川健一はそれが柳田民俗学において失われた文脈だと見抜いていたが、南島への採訪の旅を重ねていたこの民俗学者であっても、蝦夷やアイヌについては、地名研究をのぞけば、それを論じた文章は意外に少ない。

 しかしアイヌ語地名が東北地方の北部におびただしく存在することから見て、アイヌが日本人と深い交渉をもっていたことは紛れもない事実である。このゆるぎない厳然たる事実は、アイヌの民俗文化を念頭に置かないでは、これからの民俗学の探究は不可能であることを示している。とくにアイヌの民俗を貫く濃厚なアニミズムの世界観は、日本文化の源流を考える際、きわめて重要である。私はかつて民俗学を「神と人間と自然(動植物)の間の交渉の学」としたが、この定義はアイヌの民俗に鮮明な形で具現されているのである。日本の民俗の中にアニミズムの痕跡をさぐっていけば、アイヌの民俗と通底すると私は考えている。沖縄が日本古俗を映し出す鏡であるとすれば、アイヌは古代以前の日本を映す鏡である、と言うことができる(1)

 アイヌ文化が日本列島の古代以前の姿をうつしだす鏡であるとまでいうのなら、もう少しそれを掘りさげてもよかったのではないだろうか。谷川健一もまた柳田國男のように、アイヌ研究は文化人類学に任せればよいと考えたのか。いや、そうではない。そこには、谷川民俗学の根底に流れる「ヤポネシア」の思想との関連があるのだ。
 たとえば、柳田國男の『遠野物語』のなかには、オシラサマの逸話として、人間の娘と馬が悲恋におちる物語が紹介されている。谷川はこれが東晋の「捜神記」に由来し、中国のバージョンでは馬が娘に片恋をして、殺された馬の皮が娘を包んで飛びさったのちに、娘が蚕になって繭をつくるようになる説話だと指摘する。「これは蚕の頭胸部が馬の頭に似ていることから連想された物語で、中国では馬頭娘(マートウニャン)と呼ばれている」と書き、オシラ神の「シラ」という言葉は、朝鮮半島の「新羅」や朝鮮語の絹を意味するsir、あるいは満州語の絹sirge と関係するのではないかと推測している。これがオシラサマの「シラ」の語源として妥当なのかどうか、ここでは問わない。谷川がそれを半島や大陸とのつながりで見ていたことを指摘したいだけだ。
 あるいは、谷川健一の民俗学における中心的な課題であった南島を例にとってみてもいい。沖縄の八重山諸島では、真夏にプーリイと呼ばれる豊年祭がおこなわれている。谷川は『慶来慶田城由来記』『八重山島由来記』『八重山島諸記帳』といった書に、収穫を感謝するこの豊年祭についての記述がないことから、初穂儀礼が最初にあって豊年祭のほうは後年につけ足されたものではないかと考える。

 八重山では穂をプーと呼ぶが、インドネシア語では、穂はbulirである。そこで、プーリイもこのインドネシア語に由来する、という説がある。稲の渡来に名称や習俗がともなうことは当然考えられるから、この説も捨てたものではない。(……)この説を補強するものとして、南島の初穂儀礼に酷似する収穫儀礼がインドネシアに見られる(2)

 これに関しては、谷川健一が書いた別の「「まれびと論」の破綻」という文章においても語られている。そこでは、太平洋戦争中に石垣島の兵士が南ベトナムのビン村をおとずれたときに、八重山の屋敷内の配置とまったく同じ茅葺きの集落を見つけた挿話を紹介している。その村はちょうど豊年祭の最中だったのだが、大きなお面をかぶって、体に木の葉を巻きつけている赤面と黒面が二体、それから黄面の三体からなる豊年の神が家々を訪問しているのを見たという。谷川はこれらベトナムの豊年の神の姿が、八重山のアカマタ・クロマタの姿と類似すると述べている(3)
 このような例をあげれば枚挙にいとまがないが、もうひとつだけ、谷川健一がはじめて与那国島を歩いた経験を書いた「与那国・石垣・宮古の旅」という文章を見ておこう。日本列島の最西端に位置し、年に一度くらい、晴れた日に台湾の島影が見えるこの島では、歴史的にしばしば外敵の侵略をうけてきた。谷川は与那国島の人びとにおける外来者への歓待と警戒心の入り混じった感情、異国人の掠奪に対する恐怖を感じとる。「この島には巨人が住むというしるしをみせて来襲する海賊を退散させるために、まえには年に一度大わらじをつくって海に流す風習があった」という報告から、それを敷衍して「私が思い出したのは、昨年おとずれた志摩の波切町で同様の行事がおこなわれているということだった。(……)そこは黒潮のなかに突き出した九鬼海賊の根拠地で、漂流船の多いことや他の海賊の来襲のあったことが与那国と似ている」と考察している(4)。いわば与那国島の風習をもう一度、日本列島のほうへ適用しなおして、列島における外来勢力とのあいだのやりとりをあぶりだすのだ。谷川のこのような見方はどんな思想に支えられているのか。
 いうまでもなく、ヤポネシアという言葉を考案したのは小説家の島尾敏雄である。島尾は日本列島から南西諸島にかけての島々を「ヤポネシア」といいかえることで、太平洋上に散らばるミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの島々のネットワークのように、極東にある島々の連なりを巨視的な視点で再考しようとした。前述した分子人類学による日本列島人の起源説のように、谷川健一はこのヤポネシア全体に見られる文化や民俗というものを、朝鮮半島や大陸、そして台湾、フィリピン、インドシナやマレーなどの半島、インドネシアの島々との関係で考えようとしたのである。
 ところが、日本列島に有史以前からずっと居住している常民を研究する民俗学では、明治時代の官僚であった柳田國男にしても、近畿地方の風土に精通した折口信夫にしても、「ヤポネシアの意識を方法論にとりいれることで日本を相対化する論理を構成するには、あまりにも単系列の時間の近くに自分を置いた」のだと谷川は指摘する(5)。そして、近代化や進歩という単系列の時間で認識するのではなく、ヤポネシアという空間意識のもとに、さまざまな時間の流れが重層化していることを肯定するためには、列島の原初的なイメージを取りもどさなくてはならないと主張するのだ。そのために谷川は列島の各地を歩いた。それはどうしても南島の果ての小さな島々でなくてはならなかった。

 狩俣の祖神祭で私がもっとも関心を抱いたのは、この祭りのなかで「村の創世記」がうたわれることだ。それは「島建ての神話」である。シマとは南島では村を指す語だ。これは宮古島にかぎらず、琉球弧の古代村落では、おそらく各村ごとに存在したのだろうと私は思う。御嶽をもつ血縁部落であれば、村の創始者はそのまま、遠つ御祖(みおや)となる。それが古代天皇制を正統化する神話の系列に組みこまれていったのが日本の歴史であるとすれば、日本を相対化する決定的な鍵は沖縄にあるとする、吉本隆明氏の発言はきわめて重要なものといわざるをえない。そしてそれは、多くの沖縄学者がやってきたように、琉球王府を中心とした沖縄の歴史にあるのではなく、先島の村に、一粒の籾種のように残っているのだ(6)

 吉本隆明の『共同幻想論』や一連の南島論における議論を踏まえているのだと思われる。谷川健一はおなじヤポネシア論のなかで、「ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見する」ともいっている。ここに谷川健一の思想の中核を見ることができよう。それと同時に、これこそが彼の民俗学の志向や方法論がうまれてくる源泉ではないだろうか。日本列島や南西諸島を構成する七千もの島々は、最初から「日本」の領域であったわけではない。そこには縄文系や弥生系とされるさまざまな種族が、異なる文化様式や時代性をもってまだら状に混在しており、それぞれの地方における歴史は独自で異質な時間の系列を進んできた。そのことは現代になっても本質的には変わることはない。だが、近代的で単線的な歴史解釈が押し進められてきたために、そのことが非常に見えにくくなっている。それが列島の本来の姿であり、混淆的である日本列島人や「混血列島」のあるがままの姿なのだ。
 その一方では、多系列で異質な時間を単系列の時間という一本の糸に撚り合わせていったのが「日本」であり、そのために支配層が腐心し、ときによっては、糊塗と偽造をもあえて辞さなかったのが「日本」の歴史である。したがって、撚り合わせた糸をもう一度撚りもどす作業、つまり「ヤポネシアの日本化」を「日本のヤポネシア化」へと還元していく試みが要請される(7)
 まさに谷川健一の思想のひとつが、この「日本のヤポネシア化」であるといえよう。わたしたちが無自覚にいだいてしまっている日本列島への歴史認識を、同質的で均等性をもつと幻想される「日本」から、それぞれが異質で不均等でたがいに混ざりあうような島々の連なりである「ヤポネシア」の歴史空間へとシフトしていくのだ。そんなことは本当に可能なのだろうか。たとえば、ヤポネシアをサハリン、千島列島、日本列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、南西諸島、台湾などを含む、太平洋上の大きな島弧として見るとき、このヤポネシア世界が世界中のほかの地域と比べても、面積がせまい割には南北の長い緯度にわたって分布していることがわかる。
 アルゼンチンやチリやオーストラリアのように陸続きではなく、島嶼であることで、長い年月にわたって、同質化や均質化から逃れてきたことが、このヤポネシアの最大の特徴であるのだ。それゆえに、それぞれの地域や島に異質な言語や民俗が保存され、中央が力をもった時代であっても、そこから遠くはなれた辺境や奥地では独自の文化がいつまでも続くということが許されてきた。それと同時に、ユーラシア大陸の果ての洋上、東アジアの黒潮がとおる島々であるという地勢的な特徴から、五万年前くらいからアジアの各地域から冒険者たちがやってきては、比較的温暖湿潤なヤポネシアの島々に住みつくということがおこってきたのにちがいない。
 そのようなアジア中のさまざまな遺伝子を引きついだ混血児たちが、西からの「大陸文化の圧倒的な流入のもとにさらされながら、征服されず自分にひきつけて消化した、いわば複合文化体をそれは意味する」のだ(8)。わたしたちは谷川健一の思想に導かれて、ヤポネシアにさまざまな異質性と重層性をはらんだ、あるがままの「混血列島」を再発見する。ヤポネシアを育んできたユーラシア大陸や大河川の上流地域、朝鮮半島やインドシナ半島、ミクロネシアからフィリピンやインドネシアの島々にいたるまで、文化的にも遺伝子的にも祖先の記憶が感じられるという意味では、その圏域はわたしたちにとって、さらに広大な「マクロネシア」とでも呼ぶべきものを形成しているのだといえないか。

 

  1. 『柳田国男の民俗学』235頁
  2. 『柳田国男の民俗学』113頁
  3. 谷川健一「「まれびと論」の破綻」『魂の還る処』アーツアンドクラフツ、2013年、111-112頁
  4. 谷川健一「与那国・石垣・宮古の旅」『南島論序説』講談社、1987年、19-20頁
  5. 谷川健一「〈ヤポネシア〉とは何か」『沖縄 その危機と神々』講談社、69頁
  6. 『南島論序説』38‐39頁
  7. 『沖縄』70頁
  8. 『沖縄』67-68頁

 

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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混血列島論 ポスト民俗学の試み
金子遊=著
発売日:2018年03月24日
四六版・上製|288 頁|ISBN 978-4-8459-1709-9|定価 3,000円+税

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プロフィール
金子遊かねこ・ゆう

批評家、映像作家、民族学研究。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞(文学・芸術部門)を受賞。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房新社)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『ドキュメンタリー映画術』(論創社)。
編著・共編に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)、『クリス・マルケル』『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』(森話社)、『国境を超える現代ヨーロッパ映画250』(河出書房新社)、『アピチャッポン・ウィーラセタクン』(フィルムアート社)、『映画で旅するイスラーム』(論創社)など。共訳にマイケル・タウシグ著『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(水声社)、ティム・インゴルド著『メイキング』(左右社)がある。

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