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vol.03:プラグマ御三家、キミに決めた!・前篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した、気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第3回目はプラグマティズムの礎を築いた御三家・パース、ジェイムズ、デューイについて整理していきます。

 

 

パースは電気タイプ。これは譲れない

唐突だがポケモンの話を。
ゲームの『ポケットモンスター』では最初の自分のパートナーとして、草・水・火という属性の異なる三種のモンスターのなかから一匹を選んで旅をスタートさせるというお約束がある。この初期モンスターを俗に《御三家》と呼ぶ。第一世代でいえばフシギダネ・ゼニガメ・ヒトカゲ。第二世代ではチコリータ・ワニノコ・ヒノアラシ、第三世代ではキモリ・ミズゴロウ・アチャモ、第四世代は……ってもういいか。ちなみに私は金銀までしかやってない。
既にプラグマプラグマと連呼しているわけだが、本場アメリカのプラグマティズムにも御三家と呼べる三人の思想家がいた。彼らこそ正しく、この思想運動を立ち上げ、やがてアメリカ産哲学の代表格となるまでに伝播していく役割を第一に担ったグレート・アメリカンだ。
必然、日本のプラグマティズムも御三家の受容や理解のなかで育まれていった経緯がある。

ずばりプラグマ御三家とは、パース・ジェイムズ・デューイのことを指す。ちなみにポケモンで当てはめると、私の見解では、パースは電気タイプで、ジェイムズは草、デューイは炎でレベルアップすると《かえんほうしゃ》とか覚えると思う。
おっと、水がいないな……ま、ミードでいいか、ミーズっぽいし──私が御三家よりも敬愛しているジョージ・ハーバート・ミードについては機会のよいときに改めて紹介することにしよう──。

 

テオリアvsプラクシス

そもそも、プラグマティズムとは、語源のギリシャ語に遡れば「行為」を指すpragmaに由来している。
一般的に流布しているプラグマ・イメージを理解する上で分かりやすいと思われるのが、アリストテレスによるプラクシス(行為=実践)とテオリア(観想=理論)の対比だ。
アリストテレスは哲学において重要なのは、テオリア、つまり静謐のうちで己の心眼でもって物事の本質をしっかりと見極めることであって、生半可な知識でもって動き回ったりすることではない、と考えた。「理論的な学の目的は真理であるが、実践的な学の目的は行為である」。で、「実践する人々も物事のいかようにあるかを考察しはするが、しかし永遠的なものをではなしに相対的なものや今ある物事を研究するだけ」[1959/72]
要するに、プラクシスの連中は動いてばかりで落ち着きがなく薄っぺらいのだ。ぺらぺらだ。
絶対的なよりどころを失くし、仮設的で相対的なプラクシスのこのイメージは、プラグマティズムにも共通している。が、プラグマの場合、これは美点に数えるべき特徴だ。永遠の真理なんてなんの役に立つんスか? 便利に使えるんならどーでもよくね? 御託はいいから習うより慣れっしょ? プラグマティズムは知識の暫定性を正面から引き受けて、悪びれもせずピースサインしてる。イエ―イ!
失敗をものともしないこの柔軟な姿勢は、今日、ネオ・プラグマティストとしてプラグマ復活に尽力したリチャード・ローティによって、デリダの脱構築と合体して大きな思潮のうねりを生んだのだ。とまれ、このノリの軽さと敷居の低さがプラグマティズムの魅力の一端であることは間違いない。
後輩がミスしても、ええよ、ええよ、と君は寛容に言えているのかな?

 

最近の餅つき不足はやっぱりノロウイルスとかが影響しているのか

御三家から離れてしまった。もとに戻せば、プラグマティズムの礎を築いたのはパース・ジェイムズ・デューイの三人だ。
ただ、御三家といっても、実は各人が担った役割と活躍した時期はかなり違う。最初のアイディアを出したのがチャールズ・サンダース・パースで、それをより一般化したのがウィリアム・ジェイムズ、そのあと実践や応用へと転用していったのがジョン・デューイだ。
餅をついたのがパース、捏ねたのがジェイムズ、食ったのがデューイ……って、この比喩だとデューイがイヤな奴だな……これが正しいかどうかはおいといて、餅つき道具を準備したのは明らかにパースだ。
なので、三人のなかでもパースはイノベーターとして結構エライ……ハズなのだが、実はパースはその難解さ故に他の二者に比べて倦厭されがちという歴史があった。鶴見俊輔に先行する日本式プラグマティズムは、ジェイムズかデューイを中心に回ってきたきらいがある。

 

カワイソーな奴

パースは死後の取り扱いだけでなく、生前の学究生活も余り恵まれていなかった。
一八三九年、マサチューセッツ州で誕生したチャールズは、数学者の父親と政治家の娘である母親をもち、幼い頃から学者になるための英才教育を授けられた。が、体が弱く、様々な持病に苦しめられ、そのうちの一つの神経痛を和らげるためモルヒネやコカインを常用するようになる。これが彼の精神的不安定へと響いていき、結果、社会的生活を困難たらしめることになる。
学校の規則に馴染めず、学生時代は放逸した生活を送り、卒業後はアメリカ合衆国沿岸測量部で技師として働く。いわゆる学者先生にならなかった。最近はやりの言葉でいえば、パースは在野研究者の一人だ。とはいえ、学者になりたくなかったわけではない。たびかさなる機会に恵まれながらも、うまく時機を掴めずに、離婚、借金、精神異常のどん底生活へと転がり落ちていく。

 

名づけ親知らず

プラグマティズムが生まれたのは、パースが仲間とともに一八七〇年前後から始めた形而上学クラブという小さな討論サークルのなかでのことだった。少し経ってジェイムズもここに参加。パースの天才をいち早く見抜いていたジェイムズは、彼を大学教授にしようと、また彼の生活を支えようと、献身的に助力を貸すことにもなった。男同士の熱き友情である。
ところで、プラグマティズムの名づけ親は実はハッキリとしていない。
ジェイムズは一九〇六年と一九〇七年の講演を通してプラグマティズムの語を説明した。これは『プラグマティズム』という著作になって世に広まり、一定の批判とともに、多くの共感者を集めることに成功した。いわばプラグマの布教本のような役目を担う。応援してくれた哲学者には、たとえばフランスの哲学者で『創造的進化』でお馴染みのアンリ・ベルクソンがいた。
こういう事情もあって、多くの人はプラグマティズムをジェイムズの発案だと早合点したのだが、事実はそうではない。当のジェイムズは、「この語がはじめて哲学に導き入れられたのは、一八七八年チャールズ・サンダース・パース氏によってであった」[1957/39]と、パースに名づけ親の権利を認めている。

 

こっちが元祖・プラグマラーメン

ところがどっこい、ジェイムズが参照しているパースの論文「我々の観念を明晰にする方法」にはプラグマティズムという言葉がない。このことが事態をいささか複雑なものにさせている。
つまり、プラグマティズムのルーツはジェイムズによる(クラブ内で議論されていたという)伝聞によってでしか確認できず、しかも、自分の手から離れて解釈に解釈を重ねられてしまった結果その意味するところが変貌してしまったことに我慢ならなかったパースは、「プラグマティズム」という表記を放棄して「プラグマティシズム(Pragmaticism)」[2014/205]──ciが入っているよ!──という名のもとで再出発してしまうのだ。
だから、ある時期のパースにタイムスリップしてインタビューを試みたら、《プラグマティズムだって? 知らね。俺はプラグマティシストなんで(怒)》と言われる可能性大なのである。
ラーメン屋の主人と弟子が屋号をめぐって争った結果、プラグマラーメンの向こう先に元祖・プラグマラーメンが営業している、みたいな話だ。

 

子供に《硬い》を教えるには

そんなパースとジェイムズだが、いったいなにが違うのだろうか。超絶ラフに説明することを許してもらえば、パースの方が堅苦しくて、ジェイムズの方がゆるふわ、という理解で一般的にはOKだ。
パースが、プラグマの第一人者たるのは、彼が「プラグマティズムの格率」[2014/56]を唱えたことにも由来している。これは簡単にいえば、ある言葉の意味はその実際の帰結がすべてだよ、という概念をクリアーに使うための大原則だ。

たとえば、子供が料理中の母親に向かって、
──ねえねえ、《硬い》ってなぁーに?
と尋ねたとしよう。これに対して母親は、
──《柔らかい》の反対のことだよ。
と、教えたとする。まあ、間違ってはいない……が、《硬い》が分からない奴に《柔らかい》が分かるはずがないだろ。だから、当然、今度は、
──《柔らかい》ってなぁーに?
と、聞き返す。母親はさっきと同じように、
──《硬い》の反対のことだよ。
と、答える……ああ、ふりだしに戻ってしまった。

 

ハンマーで林檎を粉々にするさまを子供に見せつけろ

実にアホな会話である。意味が分かるというのはそういう言葉遊びをすることではない。言葉で言葉にケリをつけようとする辞書引き合戦はプラグマティズムに相応しくない。《硬い》を知るには、手にもっているハンマーで目の前にある林檎をたたき割って、
──ね、これが《硬い》ってことだよ。分かった? 分かったなら黙って。お願い。ね? ね?
と、早口で言えばよい。子供は恐怖で黙るだろう。晩飯はアップルパイで決まりだね(お前もアップルパイにしてやろうか?)。
具体的な行為をともなうその粉々の結果=効果こそが《硬い》のすべてだ。キッチンにハンマーがあるかどうかはよく知らない。

 

信じているから真理

パースが唱えた、このような概念使用の方法を、ジェイムズは真理の確定の仕方として受け止める。
既に述べたように、パースのアブダクションは直感的なヒラメキを排除せず、その信じているところのものを暫定的な真理として、つまりは仮説として採用していい。間違ったら修正すればいいからだ。「格率」の関連でいえば、辞書やマニュアルに書いてある正しさを暗記するよりも過程のなかで進む行為や結果のなかで発見できる正しさから出発するべき。こういうふうに理解すればいい。
ジェイムズになると、これは客観的にある(と見做されている)事実と自分が正しいと思っていることの一致を真理の条件として採用するのではなく、自分が信じている有益なことを直ちに真理として扱っていい、と拡張的に考える。どんな真理を選ぶかは個人の状況に大きく依存しているし、依存していい。
例えば次のようなことをジェイムズは述べる。
真なるものとは、信仰という面から見て、しかもまたそれと指し示しえられるようなはっきりした理由から、善であることが証拠だてられるものならば何であれそのものに附与される名前である[1957/62]

 

どーもどーも、元祖・ポスト真実です

ここでいう「善」というのは、個々人が《よい》と感じるコトであって、普遍的な正しさ(正義)ではない。最近の流行語である《ポスト真実》もびっくりの、信じる力がみなぎっている。トランプだって大統領になれる時代である。信じる力を見くびってはならない。
ジェイムズは『信じる意志』という本の第一章で、「ある事実に対する信念が当の事実を作り出すことに寄与できる[2014/384]と主張する。ある宗教を信じてる人は、毎日決まった時間にお祈りしたりとか、ある食べ物を決して摂らないとか、その信念によって様々な行為を支える力の源泉を得る。
ジェイムズの挙げる例で、かなりウケるのは「多くの女性が自分に好意を寄せているにちがいないと、ある男性が自信たっぷりに言い張るだけで、どれだけ多くの女性の心が彼に夢中になってしまうでしょう」[2014/383]というナンパ術。
モテない奴は、金があってもモテないし、容姿端麗でもモテないし、性格がよくてもモテない。モテる奴はオーラから違う。そして、オーラとは《オレはモテるんだ》という謎の自信に由来している。自信が事実を呼び出し、事実が裏づけとなって自信をさらに大きくさせる。このモテ永久機関、マジでヤバい。
女性でもそうかもしれない。思えば、谷崎潤一郎『痴人の愛』の毒婦ナオミは、「よしや自信と云う程でなく、単なる己惚れであってもいいから、「自分は賢い」「自分は美人だ」と思い込むことが、結局その女を美人にさせる」[2003/80]という譲治の方針で育てられた娘だった。カワイイは(信じれば)つくれる!

 

【引用】
[1957]ジェイムズ『プラグマティズム』、桝田啓三郎訳、岩波文庫。
[1959]アリストテレス『形而上学』上巻、出隆訳、岩波文庫。
[2003]谷崎潤一郎『痴人の愛』、新潮文庫。
[2014]パース「プラグマティズムとは何か」、「プラグマティズム」、ジェイムズ「信ずる意志」、『プラグマティズム古典集成──パース、ジェイムズ、デューイ』収、植木豊編訳、作品社。

 

(第3回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年5月24日(木)掲載


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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