• Twitter
  • Facebook

vol.04:プラグマ御三家、キミに決めた!・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した、気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第4回目は、「信じる力をみくびってはならない」という前回の話の続きから、プラグマ御三家の教え、そしてプラグマティズムの特徴をあぶりだします。

 

 

いま気づいたけど、枯れ尾花ってなんだよな

モテ上手は自信上手。オレってイカスじゃん、と、特に根拠もなく信ずることがモテ道を切り拓くのだ。なぜ、ジェイムズが信の意志をこうも評価するかというと、彼はパースのように真理を科学的に捉える以上に、宗教に応用しようとしたからだ。
たとえば、天使や聖霊が自分の下にやってくるといった宗教的ヴィジョン(=幻視)を見た者にとって、周りがいくら非科学的だ、クレイジーだ、と説得しようとしても、彼にとっては、幻覚といえども実際に見たものは見たのだから、それを否定することはできない。結果を大事とするプラグマティズムは「見た」という結果を斥けるべきではない。
或いは、ジェイムズは心霊現象の研究にハマっていた少しばかりマッドな学者だったのだが、これも幽霊を目撃したと思った本人にとってはぬぐいがたい恐怖感にともなう本当らしさがあるのだから、暫定的な真理と認めなければならない。
勿論、あとでその正体が枯れ尾花や柳の木だったことが分かるかもしれない。が、それはそれ、あれはあれ。真理とは真理化という過程のなかで変化するものなのだから、幽霊も枯れ尾花も、その時その時でどっちも真理だったといわざるをえない。

 

真理を目指すコミュニケーション

ここにパースよりもジェイムズの方が真理の特殊性(=個々でバラバラ性)を認めていると読まれやすいゆえんがある。
パースは「真なる結論というものは、たとえ我々がそれを受容する衝動に駆られてなくとも依然として真なのであり、誤った結論は、たとえそれを信じてしまいたい性向に抗うことができなくても依然として誤りなのである」[2014/148]と書ける人だが、ジェイムズは違う。
パースには、個々人が信じている信念(仮説)を客観的な知に洗練させていく科学的共同体の契機がある。「注目に値する仮説はすべて厳格ではあるが、しかし、公平な吟味に付され、仮説によって導かれる予見が経験によってかなりの程度確証されてはじめて、ともかくも信頼性を得る」[2014/202]。つまり、

──オレ、これ信じてるんスけど……どうっスかね?
──うーん、ま、間違いだね。
──デスヨネー。

というコミュニケーションでもって、自分の信念を改定していくプロセスに開かれている。

信念→習慣→ツッコミ→信念(改)→最初に戻る、この繰り返し。少しづつ修正していける漸進主義は真理を安売りする(?)ジェイムズには見出しにくい。

 

大丈夫、忘れてないよ!

さて、御三家といいながら、ひとり蚊帳の外に置き去りにされた男がいる。ジョン・デューイである。
日本のプラグマティズムがジェイムズとともに、デューイに偏重していることは既に述べた。それだけではなく、一九一九年、デューイは来日し、東大で講演会まで開いている。これは『哲学の改造』という題名のもと出版され、日本人に長いあいだ愛読されてきた。名実ともに日本ともっともゆかりの深かったプラグマティストはデューイをおいてほかにない。
大学院でヘーゲル哲学とダーウィニズム(進化論)に感化されていたデューイは先ほどの二者とはやや遅れてプラグマティズムを摂取していった後輩クンである。ヘーゲルやダーウィンという固有名がプラグマの観点で重要なのは、いま確固たるものにみえる知識も決して不動のものではなく時間とともに変化・進化していく、ということだ。
だから、デューイは《探究》や《実験》という言葉を大事にする。やってみなけりゃ分からないっしょ。
言葉や概念は正しそうな知を得るための単なる道具でしかない。故に、デューイにとってのプラグマティズムは「道具主義」や「実験主義」[2014/333]と名づけられ体系化されている。勿論、これは可謬主義に通じていく考え方だ。

 

みんなおいでよデューイ学校

実験という言葉は、デューイが構想し、また実現も果たされた、シカゴ大学付属の《ラボ・スクール》(実験学校)、通称デューイ学校にも顕在化している。
デューイはプラグマティズムの思想を、子供の教育の議論に応用し、記号の暗記中心で組まれる抑制的・画一的なカリキュラムの代わりに、身体の具体的作業をともなう、料理・裁縫・大工仕事といった実生活の延長線上にある技能を個々人の関心に沿って習得させる教育方針を唱えた。

「自然にじかに触れることや、現実の事物や材料の取り扱い方や、それらのものを実地に操作する過程に触れることから得られて、しっくりと身についた知識、さらにそれら事物の社会的な必要性や用途についての知識をもつことが、教育の目的として重要な意義をもつ」[1998/68]

パッケージ化された知識を押しつけるのではなく、学力の競争をけしかけるのでもなく、子供が内にもっている才能を引き出すことが教育制度に求められるべき使命である。
理想的な家庭では、活発な会話が交わされ、これによって、「子どもは絶えず学び続け」「自分の経験を語り、自分の誤った考え方を訂正する」[1998/97]。これと同じことが学校でも実現されねばならない。単に教師の授業を一方的に聴くのではなく、相互交流を促すような柔軟な制度が求められるのだ。

 

民主主義でコミュニケーションでイェーイ

さらに付け加えれば、この教育学的思想は、デューイにとって充実した民主主義の要請にも深く関わっている。
デューイによれば、人間は個々人で異なる限界を抱えている。みな得手不得手がある。その欠陥を完璧な教育プログラム一発で手当てできる、と考えるべきではなく、むしろ相互のコミュニケーションのなかで刺激し合って成長し、過不足を補い合わねばならない。
そのために最適な政体は、力を独占したお上との一方通行のコミュニケーションしか認めない──ゆーことを聞け! アイアイサー!的な──専制的体制ではなく、共同体の成員同士が相互にコミュニケーションをとって決定を下していく民主的なものでなければならない。これによって個々人は新たな能力を開発される機会をえる。
代表作『民主主義と教育』でいう「多数の多様な接触点」[1975/142]は、きっと君を次のステージに導いてくれるはずだ。こういった他者との協力関係をふくんだ前向きな改善・改良の姿勢に、デューイの特徴がよく現れている。

 

プラグマとは必然的に応用プラグマ

一目して分かる通り、デューイはプラグマティズムの思想をより社会に開いたかたちで応用してみせた。
が、そもそも他の二者にしても、プラグマティズムは独立した哲学の方法というより、光の当て方次第で様々な分野に伸びていくことができるポテンシャルをもっていた。詳しくは触れなかったが、パースのプラグマティズムは彼の記号論と深く結びついているし、ジェイムズにしても、その心理学や宗教論とセットで考えなければならない。
このようにプラグマはとても応用の効く考え方で、それはプラグマ自体が机上の空論ではなく、結果や効用を重視するその本質的性格の必然的な帰結だともいえる。

──純粋プラグマを考えました! あれもこれもみんな間違ってる、これがプラグマ最終決定版の真の使用法なんで、よろしく!

……などという主張は、プラグマの語義矛盾を犯しているとさえといっていいいかもしれない。

 

御三家から学ぶ三つの教え

長くなった。簡潔に御三家から学べるプラグマ三大特徴を雰囲気的におさえておくことで、そろそろ本題の日本式プラグマの検討に入っていこう。プラグマティズムとは、要するに次のような特徴をフワッと備えた考え方のことを指している。

・間違ってもいいんだよ、人間だもの。
・習うより慣れろ。
・やってみなくっちゃ分からない!

ホワイト企業とブラック企業の社訓が入り混じったような、ネズミ講的なグレーなテーゼ――やっぱブラックじゃねーか!――で恐縮だが、まあ、要するにそんなテンションで理解しておいてくれればいい。必要があれば、その時々で御三家の文章を参照することにしよう。

さて、そんなわけで、注目の日本式プラグマティストの最初の一人は、デューイに直接師事し、明治の世にプラグマティズムを大々的に導入しようと果敢にも試みた評論家・田中王堂にご登場願うことにしよう。

さあ、本編のはじまりはじまり。

 

【引用】
[1975]デューイ『民主主義と教育』上巻、松野安男訳、岩波文庫。
[1998]デューイ『学校と社会・子どもとカリキュラム』、市村尚久訳、講談社学術文庫。
[2014]パース「信念の確定の仕方」、デューイ「アメリカにおけるプラグマティズムの展開」、『プラグマティズム古典集成──パース、ジェイムズ、デューイ』収、植木豊編訳、作品社。

(第4回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年6月7日(木)掲載

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1