一本の映画において、登場人物たちはどのようにその世界を旅するのか?
名作映画の世界を遊び尽くすために、隅から隅までまるまる地図に描いた、かつてない映画ガイド&ヴィジュアルブック『空想映画地図[シネマップ]』。その広大な世界を一枚の地図に可視化することで、これまでとは全く異なる角度から映画との出会いを促す内容となっています。
今回の「ためし読み」では、本日からの『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の公開に合わせて、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』の全文を無料公開いたします。
レイやフィンやBB-8が生まれるよりもずっと前、ジャー・ジャー・ビンクスやパドメ・アミダラが描かれるよりもずっと前、パルパティーン、イウォーク、ボバ・フェットが登場するよりもずっと前……それどころか、あのヨーダよりもずっと前から……『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』は『スター・ウォーズ』というピュアでシンプルでストレートなタイトルで知られ、そこに存在していた。
ただし『スター・ウォーズ』自体は決してシンプルな作品ではない。すぐ近くで見ても、そこにあるものは本物のように見える。宇宙船は宇宙船にしか見えないし、ライトセーバーはライトセーバーにしか見えない。青いミルクだって青いミルクにしか見えない。岩を蹴ってもその岩は微動だにしない。ジョージ・ルーカスは、わざわざチュニジアまで赴いてルークの故郷である惑星タトゥイーンを撮影し、グアテマラでは密林の月ヤヴィン4にある反乱軍のコロニーを撮影している。脱出ポッドで降り立ったR2-D2とC-3POが本物の渓谷や果てしなく続く砂丘をとぼとぼ歩き、そしてジャワに回収される姿には、誰が見ても真実味がある。
◆ デススター
この映画のキャラクターたちの動きは、時として、とてもわかりにくい。間違いなく、他の映画に必要とされる想像力よりもずっと多くの想像力を観る者たちに求めながら、デススターの凝った複雑な内部を回りくどく進んでいく。
先人たちへのオマージュ
しかし、数歩だけ後ろにさがって大観を見てみると、『スター・ウォーズ』は、漠然としたものとなり、具体性が減り比喩性が増す。そんな目で見てみると、『スター・ウォーズ』はまさに、『アルファヴィル』、『猿の惑星』、『最後の脱出』、『ソイレント・グリーン』、『2300年未来への旅』といった、寓話的メッセージが込められた当時のSF映画となんら変わりはない。ルーカスがこれらの映画を崇めていたことは事実だ。『THX 1138』は、スキンヘッドの大衆の精神を薬学と宗教が麻痺させた、ディストピアックなアンダーグラウンドの社会からある男が逃亡する様を描いている。デススターのデザインは『2001年宇宙の旅』の恩を受けたものだし、グランド・モフ・ターキンの会議室は『博士の異常な愛情』(ちなみにこの映画の撮影監督は『スター・ウォーズ』の撮影を務めたギルバート・テイラー)の最高作戦室を髣髴とさせる。R2-D2とC-3POの2体のドロイドは『サイレント・ランニング』でブルース・ダーンの妥協を拒む頑固な3体のロボットがヒントになっている。こういった事実を鑑みると、多くの人々が、「『スター・ウォーズ』は年齢を問わず子ども心を持つ者たちに向けて作られたたんなるアクション映画であり、ポップコーンやプラスティック人形やコミックブックや数多のその他の関連商品の消費を促すための手段」と捉えてはいるものの、実際には道徳的メッセージを込めることが大好きなルーカス(その事実は彼の初期の映画の数々を観れば明らかだ)の思いが、しっかりと込められた作品であることがわかる。たとえばキャラクターたちの名前に注目してみよう。ルークはもちろんルーカスであり、空を歩く人[スカイウォーカー]はルーカスがどこへ行こうとしているのか、何をしたいと思っているのかを暗示する。ハン・ソロは自分の意志で単独[ソロ]行動することを好む(例外は彼の「ペット」であり「歩くカーペット」のチューバッカだ)。朗々とした声を持つ威圧的なダース・ベイダーは侵略者[インベイダー]であり、航行に邪魔な宇宙船を撃ち落としながら進んで行く。ポーキンスは豚[ポーク]っぽい。グリードは貪欲[グリーディ]なうえに色が緑[グリーン]でさえある(ちなみに彼はその抑え切れない強欲さのせいで大変な目に合う)。
◆ ヤヴィン4
『スター・ウォーズ』のエンディングは、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の出だしに向けて合図を送っているようだ。どちらの映画でも、密林の中にある古代寺院へのジョージ・ルーカスの愛着が採用されている。
オリジナリティとリアリズムの共存
とはいえ『スター・ウォーズ』のギークたちはこういう情報はあまり歓迎しないもので、この映画には徹底的にリアルであってほしいと考えている。錆やカーボン焼け、小さな砂や汚れなどを見ることで、自分がヒッチハイクして月明りを通過し「遠い昔はるか彼方の銀河系」までやってきて、実際にその地で歴史が展開していく様子を傍観しているような気分になりたいからだ。ドロイドや異星人がわけのわからない言語を話しながら自分の傍を通り過ぎ、方々の角からはモンスターが現れる。『スター・ウォーズ』とは早い話が異世界なのだ。これまでルーカスのヴィジョンに貢献するため参入し、考え得るあらゆる側面からこのサーガを拡張させてきた数多くの作家たちも、ここが異世界であるということにインスピレーションを感じていただろうことは、フォースのない凡人でも理解できるほどに明らかだ。ごっこ遊びをしている者たちにとって、(そこら中にある)不自然さは邪魔にしかならないという文句も、確かに頷ける話ではある。
しかし、ルーカスがつねに凝りに凝った工夫とリアリズムを組み合わせるという力技をこなしてきた監督であることに間違いはない。たとえばC-3POは映画の早い段階で頭を殴られているがために、前頭部に凹みのある状態でこの映画の大半の時間を過ごしている。このようなディテールへのこだわりが観る人を愉快にさせるのだ。一方で、絶対に生ゴミ圧縮装置などには投げ込んではいけない重要な工夫もある。それは舞台設定そのものである。ジョン・ウィリアムズによるロマンティックな音楽とともに、中心人物たちの感情を表現するのがこの舞台設定なのだ。世間との接触がほとんどない開拓地に暮らす孤独なティーンエイジャーであるルークは、この辺境の惑星から飛び去りたいと切望している。つまり彼の故郷は砂漠であって様々な出来事が起こり得る光り輝く都市(彼はそれをブライトセンター〔明るい中心地〕と呼んでいる)からは、何光年も離れたところにある。一方で、宇宙最大のメトロポリスの長であるダース・ベイダーは「人というよりは機械に近い」存在であり、人間味のまったくない人工惑星を闊歩するテクノクラートである。人間がコンピュータと化してしまうことへの人々の恐怖心を体現する存在が、彼であることは明白だ。オビ=ワンがルークにダース・ベイダーのスイッチを切らせたがっているのも当然だろう。これらの舞台設定は、中心として描かれる葛藤や対立を体現したものとしてある。「不毛な土地」タトゥイーンは、中古のドロイドを間に合わせとして使うような、まるで廃品置場のようなところだが、機能的でピカピカのデススターは、最新テクノロジーの本拠地であり……いや、デススターそのものが最新テクノロジーだといえよう。ルークは反乱軍のためにこの両方の場所を捨てる。青々と茂る密林の奥の寺院という新たなる希望に居を据えるのである。
◆ 無意味な土地
これはこの映画の出だしに描かれるルークの小さな世界だ……埃と汚れにまみれたこの土地のことを、彼は確信をこめて、砂漠に囲まれた「無意味な土地(nowhere)」と呼ぶ。ここでは描かれていないが、ルークにとっての唯一のオアシスは、ビッグスら彼の友人たちとつるみ、ランドスピーダーで時間を浪費して過ごすトシ・ステーションだ(ルーカスはこのセットで展開された唯一のシーンを完成版においてカットしている)。
ジョージ・ルーカスの冒険
ミレニアム・ファルコン(「オンボロ」「銀河一速いがらくたの塊」とも呼ばれる)と同じように、あるいは使い古しでボロボロのドロイドたち(C-3POは右脚の膝下だけ金色でなく銀色)と同じように、『スター・ウォーズ』もまた、ツギハギの間に合わせとしてつくられた作品だが、そのすべてのパーツを単純につけ足したものよりは、ずっと素晴らしいものに仕上がっている。この作品には整合性に欠けるところもある。たとえばレイアが部分的にイギリス英語を使っているところ。ルークの幼馴染で親友であるはずのビッグスが、この映画の出演シーンの大半がカットされてしまったために、トレンチの攻撃シーンで唐突に登場すること。ルーカスがこの脚本の執筆に何年も悪戦苦闘したことは有名だが、その後においても、すべての出来事に整合性を持たせるために彼が最後の最後まで苦心していたことは明らかだ。
しかしそのようなことがまったく問題ならないのは、観客が感情移入するであろうルーク自身が、自分の思考能力をはるかに超える数々の出来事を目の前にして混乱しているからである。映画の場面は旧共和国から元老院へ、皇帝、ケッセルのスパイス鉱山、クローン大戦、ジャバへと、次から次に展開する。ルークはそれについていくのがやっとだ。ベンからできる限りのことを教わり、会ったことのない父親のようなジェダイとなるために。しかもジェダイとは何かさえ、はっきりとはわかっていないのだ。また「フォース」にしたって同じだ。フォースとは、生命から発せられるエネルギー場であり、そこには感情が関わっており、そして人間だけのものとは限らず……さらには「それは手放すことで使うことができるようになる」だって? 観客のイマジネーションに委ねられた部分は多大なものだ。しかしそれでもこの作品が機能している理由は、ルークと同じように、僕たち観客も夢中になってこの素晴らしいアドベンチャーを続けているからだ。
ルーカスが『スター・ウォーズ』を作ったのは、「良質」の「フラッシュ・ゴードン」を作りたかったからだという。つまりこの作品は彼自身の子ども時代のノスタルジーに根ざした、情熱に満ちたプロジェクトだったわけだ。しかし、彼が実際にこの作品の制作に乗り出した段階では、彼の考える「良質」という定義はかなり複雑なものに変わっていた。「俺にはかなりの想像力がある」と言うハン・ソロと同様に、想像力豊かなルーカスは、『オズの魔法使』、ジョン・フォードやフリッツ・ラングの作品、空中戦が展開される第二次世界大戦の映画、黒澤明やジャン=リュック・ゴダールの作品など、彼に影響をあたえたありとあらゆる映画を利用して『スター・ウォーズ』を築き上げた。この映画に描かれる銀河が混雑していて、あらゆる方向に向かってあふれ出しそうになっている理由はそこにある。そのトーンが生き生きしていて伝染性を持っている理由もそこにある。それら映画の現実主義、表現主義、寓意性、芸術性、大衆性……そのすべてに賛辞を贈るためにルーカスが作った映画、それが『スター・ウォーズ』なのだ。