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vol.07:哲人主義でGO。田中王堂・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した、気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第7回目は、前回に続き、日本式プラグマの王道をいく田中王堂が主張した「哲人主義」を考察します。

 

 

 

標語大好きおじさん

王堂は「具体理想主義」に立脚した、と書いた。
要注意。王堂はその時々で色々な標語を編み出して、論壇に一発かまそうとする標語大好きおじさんでもあった。
具体理想主義はその後《Romantic Utilitarianism》(=ロマンティック功利主義)になり、《実験理想主義》になり、《徹底個人主義》になり、《人才主義》になり、《哲人主義》になり、《象徴主義》になっていく。でもその基調は、物事を二つに分割して考えると間違えやすいよ、といった二元論批判(=一元論の称揚)なので、そこまで造語せねばならなかったのか、いささか疑問に思わなくもない。
ただ、これは《徹底個人主義》や《哲人主義》にも関係するが、同一型の主張の繰返しのおかげで、同じ論理が、個人の生活と共同体の政治という異なるレヴェルを包摂していくそのさまが見やすい、という長所もある。

 

おじさん、代議制を語る

王堂は代議制の政体を支持する。なぜこれが最良といえるのか。端的にいえば、具体理想主義の政治的バージョンだからだ。
社会のうちの様々な個性をもつ多数の個人は、相互に相異なる欲望を抱く。が、それをそのまま実現に移そうとすると、必然、個々人の間で争闘が始まってしまう。だから、彼らの意志を「代表(representation)」[1918/39]する卓越者が欲望の整理整頓、調停役に入らねばならない。
お分かりだろうか? ほとんど具体理想主義の図式そのままだ。お手軽に使える理想としての「方針」──ちなみに欲望から方針を引き出してくるこの論理を『徹底個人主義』では「代償」[1918/39]と名づけている──。これが政治になると、卓越した代表者がその役割に相当する務めを担うことになる。

 

選挙ってそんな面白れぇか?

「代表政治、即ち、代議政治(Representative Government)からの類推よりして、代表は多数の投票に依つてのみ作られ得るものと信じて居る。が、是れは全然一つの錯誤に過ぎない。結局、如何なる方法に依るとも、正しき作用を有つ代表を作ると云ふことが肝要なのである」[1918/262]

もうひとつ引用。
「何人の価値も一に数へ、一以上に数へぬと云ふことは、たゞ、共同生活の保障たる法理上の仮定に過ぎない。賢人の一票も、愚人の一票も、一票である以上は其の間に価値の相違を全然認めまいとする信仰ぐらゐ、経験に反し、理屈に反した態度はない」[1918/285]

みなさん、選挙大好きなところ申し訳ないのだが、たまにはこんな意見もいいだろう。勘どころを間違えてはいけない。選挙での投票は単なる代表選びのための手段であって目的ではない。このような考え方は容易に少数の選抜者が大衆を率いていくエリーティズムを連想させる。半分くらいその理解は当たっているが、あとの半分は微妙だ。
というのも、そこで代表に選ばれる卓越者、たとえば「偉人」は、グラデーションをなしている凡人たちのなかの一帯にこそ認められる。つまり、社会における卓越と代表は、「無数の段階」をもっていて、「偉人とは比較的にこの段階の上辺に立つ人々に与へられた名称」[1918/272]にすぎないからだ。代表者は、単に頭がキレるだけでなく「総べての被代表者の欲求を理会するの聡明と、其等を醇化し、統一するの才幹とを有つ」[1918/262]ことが求められている。
卓越してたからって独断先行はご法度。他人への理解力が乏しければ優れた能力も政治においては使いものにはならない。

 

ずっと哲人主義

王堂は専制主義と民主主義を、どちらも代表の選出方法だけが異なる同じ形式の政治思想と理解する。
正しく、どちらも哲人主義の別個の異名なのだ。「哲人政治は政治の類名である。専制政治、若しくは、代議政治は、其れの種名に過ぎない。政治は、いつの時代のでも、其れを生活の機関の一つとする人間の根本性よりして、必然に、哲人政治であらねばならぬ」[1918/294]。政治とは常に哲人政治の一元論のことを指し、専制主義も間接民主主義もそのバリエーションで、実は対立していないのだ。
プラトンの『国家』を読んだことがある人ならば、彼が寡頭制や民主制を斥けて、哲人王が統べる独裁政体が最も素晴らしいと述べていたなかなか頭のイタいエピソードをご存知だろう。頭の悪い奴らに任せちゃおけん、という話。
一見、王堂の哲人主義はプラトンの焼き直しのようにみえる。が、テオリアを「見方」に訳し直した彼の才覚がここでも大きく働いている。つまり、「プレトオは哲人としての刺客として智力のみを抽出」[1918/300]してしまった結果、バランスを欠いた政治を誤って理想化してしまっている。
理想をイデア界に求める必要がないように、哲人主義も程度的卓越者に任せるのが吉。

 

「改釈」って言葉、廣松渉も好きなんだよね

このような実用的翻訳術を、後期王堂の言葉でいえば「改釈」とみなしてもいいかもしれない。改造とか改価とか改整とか、王堂はとにかく改という字が好きな男であった。解釈ならぬ改釈とは、次のように規定されているものだ。

「改釈とは自分の工夫したると、他人の工夫したるとを論ぜず、又、自国民の産出したると、他国民の産出したるとを論ぜず、情操にしても、学説にしても、制度にしても、其の他、何んにしても、苟しくも実際生活に関係あるものならば、若しくは、其れを利益するやうに関係せしめられるものならば、其れの要求を標準とし、其れの命令に随つて、其れの一部とするために適当に其等の意味を変更するのを言ふのである」[1925/116]

 

【引用】

[1918]田中王堂『徹底個人主義』、天佑社。
[1925]田中王堂『改釈の哲学』、聚芳閣。

(第7回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年7月19日(木)掲載

 

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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