• Twitter
  • Facebook

vol.08:味噌汁パンの力。田中王堂・完結篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した、気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第8回目は、いよいよ田中王堂の回が完結、たどり着いたるは「我々の日常、我々のプラグマティズム」。

 

 

米国哲学とは別の仕方で

王堂はデューイを筆頭としたアメリカ思想圏でプラグマティズムを学んだ。が、ここまで見てきたように、その著作は単なる輸入や紹介の域を超えた独自の成長を遂げている。思えば、残された数少ないデューイ論では、「真正なる哲学者は彼等の属した国民の生活の結晶」で、だから「ヂユウエイの哲学は、卓然として、米国人の、若しくは、米国文明の哲学である」[1921/243]と述べられていた。
必然、デューイの猿真似をしても日本人の生活において《使える》思想になるはずはない。そんなことを考えて、王堂は師を積極的に語ることを控えたのかもしれない。つまり、王堂によるいささか軽薄な翻訳は、プラグマティズムを日本人がプラグマティックに使うための、思想の心根での逐語訳だったのかもしれない。
こういったある種のナショナリスティックな感覚は、『二宮尊徳の新研究』や『福沢諭吉』といった、人物伝の仕事にも活かされる。プラグマティズムなんて海外からわざわざもってこなくたって、既に日本で生きられていたのではないか、というわけだ。

 

タゴールに反駁す

興味深い評論がある。『卿等のために代言す』所収の「タゴオル氏に与へて氏の日本観を論ず」だ。
ラビンドラナート・タゴールは、インドの詩人で、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したことで有名だ。日本への関心も深く、岡倉天心と友好を結び、来日して日本の政策批判をふくんだ講演を行ったこともある。王堂は、その一九一六年に数度開催された演説、とりわけ「日本の精神」と題された演説に対して批評を試みている。
タゴールはそこで日本文化を絶賛し、過度な西洋化でそれが壊れてしまうことを戒めた。しかし、王堂によれば、日本が辿って来た西洋化の歴史は、日本国の独立、つまり植民地支配に拮抗するための手段であって、そこには完璧ではないにしろ「大体に於て、賢くあり、正しくあつた」[1917/65]点を認めなければならない、という。
そうそう、正しさを「大体」という基準で決められるかどうかも、プラグマティストの資質をはかる重要なポイントだ。

 

使えるから使う

ここまでなら単なるナショナリストで片づけていいように思えるが、王堂はこれに加えて、西洋に、また東洋(日本)に独自の文化がある、というような見解を次のように斥けている。少し長いがちょっと引いてみる。
「東西文明の融合と云ふことを頻りに高唱する人々の考への中には、こゝに、東洋文明と云ふ一つの体系があり、かしこに、西洋文明と云ふ他の一つの体系がある。〔中略〕然し、実際の生活に於ては、決してそんな風に東西の文明は一度でも融合されたことはないし、又、到底、され得るものではありません。〔中略〕其れを実行して居る個人の覚悟は、たゞ、彼れの事業の繁昌を図るがために、或は、彼れの芸術の発展を策するために、彼れが置かれた境遇に居り、彼れが有てる力量を活らかして〔ママ〕、彼れが利用し得る方便を利用すると云ふだけであります。そして、是れだけの事は、人間である限りは、誰れでも行つて居る事であります。行つて居らねばならぬ事なのであります」[1917/73-75]
現代語訳してみる。
使えるから使うだけ。アメリカとか日本とか、どこ産とかあんま関係ないっしょ。日本が西洋を模倣してきたのだって別に理念に同意したからじゃなくって、やっとかないと、ヤバいかなー、と思っただけなんで。そもそも、どの国の連中だって、みんなそんな感じでしょ?
プラグマティック文明論ここに極まれり。この文明観には、舶来品をただただ礼賛するインテリ輸入業者にも、日本スゴイを馬鹿の一つおぼえで繰り返す国粋主義者にもない、イデオロギー・フリーな──という立場が本当にあるのか、少しばかり躊躇もするが──現実的視線と問題解決への姿勢が活きている。

 

味噌汁でパンを食う

王堂は国家や文明というマクロな観点を語る一方で、その根底に譲れない個人主義、不可侵の個人というユニットを認めている。
徹底個人主義とはそもそもそういう意味だったし、日本への初期プラグマ受容を振り返った『解放の信条』所収「プラグマチズムの後」では「経験を個体化することと、事件を流動化すること」[1914/31]に肝心があったと念を押している。大仰な文明論に冷や水を浴びせるのも、個人の生活のなかで営まれる個々具体のなかにこそ文化や文明が真に発揮されている場面があると考えるからだ。
こういうふうに思い描いてみたらどうか。一日のテンションは朝食で決まる。そうだ、今日は味噌汁とパンにしよう! えっ、ミスマッチ? でも、いーじゃん、おいしーから。栄養価だって意外といいんだよ。で、明日はアメ横でナイキのシューズを買う予定。やっとお給料が入ったからね。すっからかんのときに安売りで買ったメイド・イン・チャイナのスニーカーは、もうぼろぼろ。いままでサンキュ、ちゃんと成仏してくれよな、なんまいだー。
これは何だ。我々の日常である。そして、我々のプラグマティズムである。理念によって、たとえばアメリカ的民主主義こそ至高、だとか、日本の脅威である中国に抗わねばならない、だとか、修行を重ねて仏への道を歩む、といったお題目によっては決して先導されない地に足のついた思想の実践がここにある。
人は理念で結ばれるのではなく、便利で結ばれるのかもしれない。個人の日常生活から世界情勢まで。小さな私と大きな世界をつなぐ生きた思想、というよりも生きるほかありえない思想がここにある。
日本的プラグマティズムの門を敲く者、すべからく田中王堂に刮目すべし。

 

【引用】

[1914]田中王堂『解放の信条』、栄文館書店。
[1917]田中王堂『卿等のために代言す』、広文堂書店。
[1921]田中王堂『創造と享楽』、天佑社。

(第8回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年8月2日(木)掲載

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1