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vol.14:閉まったデューイ。田制佐重・中篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第14回目は、田制佐重が翻訳したデューイ『民本主義の教育』をまじえて展開します。

 

 

校長先生の鉄板

全校生徒に向けた校長先生のお話の鉄板に、
──スクールという言葉はもともと、暇(スコラ)から出てきています。ですから、みなさんもあり余る自由な時間を自分の知らない何かにチャレンジすることで……。
といった話型がある。いや、あるはずだ。私も既に小学校を卒業して久しいので、最新鉄板ランキングを見ていないから分からないが、少なくともそういう時代があったのである。
強い日差しのなか、その長話のせいでバッタバッタと続々倒れていって早々に保健室行きを決める生徒を目の前にしてなお、それでも喋りつづけるその胆力というか、豪胆な姿勢は、果たして教職を極めることで初めてゲットできる特殊アビリティなのだろうか、と考えながら気を失っていったのも今は昔。現在では、気を失う前にテキトーな理由で早々に席を外してどうでもいい話には極力耳を傾けないようにする、賢さで汚れた大人になってしまったものだ。
閑話休題。スクールが暇に由来しているという語源譚。プラグマの考え方からすれば、《学校=暇人のもの》観には、おそらく素直には従えないものがある。というのも、実際の生活や仕事に役立つことを教えず・学ばずにすますのならば、ハナっから、学校なんて行かなくてもいいじゃん、と判断するのが至極真っ当なことだろうからだ。

 

スコラは煩瑣

哲学史にはスコラ哲学と呼ばれる一潮流があった。中世ヨーロッパのキリスト教とギリシャ哲学をドッキングさせたようなこの思潮。そのネーミングもまた、教会に付属していた学校において教義を伝授していたことに由来する。
プラグマ教育論は、こういった教会や修道院にひきこもりがちの暇人に対して、もっと外に出て遊ぼうぜ、と誘いかける。ある意味で、反スコラ。興味深いことに、戦前の訳語だと、たとえば田制自身が訳したデューイ『民本主義の教育』なんかでも、スコラ哲学は「煩瑣哲学」と訳されている。
「煩瑣哲学は学芸復興以後屡批難の語として使用されたのであるが、もと是れ学校又は学者の方法を意味する語であり、其の本質に於て、それは教権的真理を伝達するに適せる教授及び学習の方法を巧に組織化したものに外ならない」[1918/328-329]
暇と煩瑣って、むしろ正反対だろ、とツッコミを入れたくもなるが、とりあえず、坊さんウゼー感、世間知らずの博士ウゼー感はよく伝わってくる。スコラ哲学のなかに位置づけられるドゥンス・スコトゥスという思想家は、その思想の難解さとこまごました性格から《精妙博士》(Doctor Subtilis)と呼ばれた逸話をもつ──ちなみに、このスコラ哲学者たちのナントカ博士という異名をもっと知りたければ山内志朗『普遍論争』の中世哲学人名小事典をめくるといい──。
デューイは後段で「古典崇拝や所謂修養教育の如きも斯くして胚胎し、過去を理想化して以て精神の隠家や慰藉となし、現世の俗事を野卑無価値として排斥するに至つた」[1918/413]とさらなる追い打ちをかけている。勿論、そんな教育ダメに決まってるだろ、という主旨のもとで。
大抵こういうこと言い出す奴が、下らない大学改革に幻惑されて政府の犬になったりするものだが、はてさて、プラグマ教育論の運命やいかに。

 

帽子という言葉を覚えるの巻

容易に予想できることだろうが、デューイは、みんな机に座って教師が板書した文字をノートに写していくような、座学、記号中心の教育を蛇蝎のごとく嫌っている。
たとえば、「帽子」をいう言葉(記号)を子供が覚える経験のことを考えてみよう。単に「ボウシ」という音の響きだけあってもその言葉は役に立たない。その言葉に血肉が宿るのは、言葉が実際に用いられる具体的な場面においてほかにない。
「母が嬰児を連れて外出する場合に嬰児の頭に何物か載つけながらそれを帽子と云ふ。外出させられるといふことは、嬰児にとつて一の興味となる。さうすれば、母と嬰児とはお互に体が外出してゐる許りでなく、二人は外出することに心を向けてゐる。即ち二人は外出といふことを共同に楽しんでゐるのである。其の活動の他の要素と結び付いて、帽子という音は子供にも母親にも同じ意味を与へることになる。即ち、それは活動の符号となるのである」[1918/25]

 

《閉》という漢字を覚えるの巻

ここで個人的エピソードを一つ。
とても幼かった頃、幼稚園くらいだろうか、私はレゴブロックが無性に好きだった。そんなおり、近所のおもちゃ屋には、これ一個で中世の城を再現できる特上レゴセットがあって、いつも羨望のまなざしで眺めていた。正月とか子供の日とか、なにか記念日があると母に買ってもらえるから、次の機会、たぶん誕生日だったと思うが、ずいぶん前からその日になるまでの勘定をカレンダーで数えるほどだった。
当日、母が仕事から帰ってきて、すぐにおもちゃ屋へ直行した。憧れのレゴがこの手に! ところがどっこい、会計を終えた途端、お腹が急に痛くなって、おもちゃ屋のトイレを借るはめになった。ガッデム! 母はドアの前で待っている。幼い頃の私は、鍵の開け閉めができず、いつもトイレは開けっ放しのまま、外でする場合は母に見張り役を頼んでおく習慣があった。
が、なにを思ったのか(誕生日で少し大人になったのだと勘違いしたのか?)、そのときの私は、外でトイレするんだから鍵かけないと恥ずかしいだろ、という謎の羞恥心でもって、ふとした弾みで、バーを右にずらして栓をするタイプの鍵をかけてしまった。赤色の背景に《閉》の字が刻印された模様がスライドして出てきた。
さて、無事用をすませて、さあレゴブロックだ、と外に出ようとするも、ご推察のとおり、閉め方は分かるけれども開け方が分からない。バーを上に上げてから左へずらす操作をせねばならない。閉じ込められてしまった。どんなに頑張っても開かない。ドアの向こう側から、母の《上に上げてからずらすの!》という言葉が聞こえるが、焦ってるせいもあろうが、うまくいかない。そのうち段々不安になってきて、助けて助けて、と絶叫し、仕舞には店員まで駆けつける始末。乱暴にドアをガチャガチャしているうちに、なにかの弾みで開いたときには滂沱の涙。
かくして私は、早くなんとかせねば、という焦燥感のもとでにらめっこしていた、不安で不安でたまらない涙でにじんだ赤い背景の下にある《閉》という漢字を覚えたのだった。

 

言葉初めのアウラ

私が覚えた「閉」は、漢字練習帳やエレベーターのボタンにあるような「閉」とは違う。私の「閉」は、不安で恐ろしくて涙でにじみ赤とゆかりのある《閉》である。他に代えがたい体験とともにある《閉》である。
ベンヤミンという批評家に、アウラという有名な概念がある。ものごとの一回性の輝きみたいな意味だ。
きっと言葉初めのアウラと呼ぶべき瞬間がある。言葉をとり囲む、おもちゃ屋やレゴやトイレ、わくわくが急に不安な気持ちに変わっていく微妙なニュアンスやドアの向こう側の母の声とともに成立している、そんな時間の厚みを経て言葉が我が物となる。そうやって唯一無二の仕方で言葉を覚える。
けれども、言葉は記号である限り他人のそれと同じ言葉でもなければならない。言葉は共通の言葉でもなければならない。おもちゃ屋の「閉」も百貨店の「閉」も、赤い「閉」も白い「閉」も、不安な「閉」も楽しい「閉」も、みんな同じ「閉」。そうじゃないと言葉は言葉の用をなさない。流通する言葉は、アウラを削ぎ取って、私の代えがたい体験をカッコに括って、初めてその資格を得る。ある種の背理を抱えて言葉は言葉になる。

 

パース先輩、チッース

ずいぶんと回り道してしまった。
デューイの帽子暗記法は、実は、パースが唱えた《プラグマティズムの格率》の応用版になっていると思う。
格率が教えるところによれば、つづめていえば、言葉の意味はその結果で決まる。デューイが指摘しているのは、その結果なるものがもっている具体的な場面やそこに流れる活きた文脈のことだといえる。だから、いくら「帽子」という字面や音の響きを覚えても、その使い方を間違えたら元も子もない。《オレ、ちょっと帽子だわー》とか言われてもイミフ。
デューイがどれほど真面目にパースを読んでいたのかは疑問なところもないではないが、確かにプラグマの原則が活きている。
ただし、やはりというべきか、いささか疑問なのは、いくら具体的な場面を大事にするといっても、やっぱり言葉が言葉である限り、言葉のアウラは縮減せねばならない。だとするのならば体をつかって身を以て学ぶデューイ学校も、結局、板書大好き学校と子供にとっては大差ないものなのではないか。反対にいえば、みな同じような制服に身を包み、画一的な制度で厳しく統べられた学校空間であっても、個々人の経験なるものは絶対にユニークなものなんじゃないか。
そんなものあるはずない、といえちゃう視点が、少し怖い。

[引用]
[1918]デューイ『民本主義の教育』、田制佐重訳、隆文館図書株式会社。

(第14回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年11月1日(木)掲載

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体 2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1