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vol.15:社会のふり見て学校なおせ。田制佐重・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第15回目は、社会と学校を一致させようと構想する田制佐重の教育論をさらに考えます。

 

 

 つまみ食い田制教育論

かなり前から準備体操が終わっている。本丸は田制佐重の教育論だった。
実際のテクストに当たる前に、頼りになる解説を。福永安祥が本の一章を割いてくれている。
田制教育論の念願は、一言でいえば「学校教育の社会化」[1986/135]だ。
いうまでもなく、社会科の授業を増やせばいいって話じゃない。学校という場所を、トクベツな聖域として隔離せず、社会なかで分化したたくさんある場所の一つとして位置づけ、たとえば職場や家庭生活といった社会的シチュエーションへとスムーズに移行できるような施設にしましょう、ということだ。
教育は決して学校だけで行われるもんじゃない。家庭でも仕事場でも、その場の必要に合わせた教えと学びがある。だから学校を卒業したって教育から卒業できるわけじゃない。生涯学習上等。そのプラスアルファ分を見越して、学校の制度設計を考えるべし。ここには教育学を社会学的に再構築するというスケールのデカい課題も横たわっている。
田制は、ヘンリ・スザロによって命名された「教育社会学」[1928/26]という学問における日本の後継者たらんとしているわけだ。

 

市井に学を

田制が初めて自身の教育論を一つの著書にまとめた『学校教育の社会化』では、学校が「一個の社会的設営」であることを確認した上で、この制度がひとたび出来上がると、その閉鎖空間内で独自の習慣と伝統が生じ、「市井(タウン)と大学(ガウン)」[1921/1]のあいだに大きな懸隔が生まれてしまう。このことの問題を指摘している。
だから田制の念願は、二つの領域を架橋、直接的には「市井(タウン)」に学を取り戻そう、というものになる。
たとえば歴史の授業。歴史超詳しいセンセーに教えを受けて歴史超詳しい生徒になったとしても「他の学科に於ける生徒の課業には応用されることはあるまい」という結果に終わる。だから、「其の教ふる事柄を何等か実際に適用させようとする意識的目的」をもって[1921/224-225]、他の分野と紐づけられるように教えるべし、と教育社会学的に命じられる。
さらには、「個人の職業界に対する適合を指導する上に役立つ所の知識を授けることの必要」[1921/279]を積極的に認めるところもいかにもデューイ的だ。何歳からだってハローワーク。

 

答え一緒だろうが、アホなのか

または、国語の時間の音読。そんな作業が求められる世界なんてどこを探してもほとんどありゃしない。「高声に朗読せねばならぬ必然的理由を有する所の社会的場面が殆ど提供されて居らない」[1921/234]。教材そのものから変えていくべし。
可謬主義的な観点でいえば、学校ならではの機会として、間違いを間違いとして知らしめる、テスト(試験)はどうか。簡単に予想がつくだろうが、田制は、教師の言葉を正確にトレースできる試験を、ほとんど評価しない。定められた期間中にたくさん覚えた者勝ちの「記憶の試験」が役立つこともあるが、大抵は「皮相的なるを免れない」[1921/243]。100点とったからってなんなんですか?
たとえば、最近の小学校だと掛け算の問題で掛ける数字の順番が違うとペケをもらったりする非道が横行しているとかなんとかいわれているが、あんなのはデューイ=田制からすれば、マジでマジギレもんである。重言じゃないぞ、マジのマジでマジギレだぞ。答え一緒だからどーでもいいだろ、アホなのか。

 

トルストイ=プラグマティスト説

田制は社会と学校を一致させようと構想する。このことは別の角度からいうと、かつての学校は余暇(スコラ!)に恵まれた坊さんや貴族階級の師弟以外の者に門戸を閉ざしていたのに対して、近代以降の民主主義社会はこれを許さず、少なくとも建前上は万人に開かれねばならない。そういう社会的条件によって規定されている、ということでもある。
たとえば、田制のトルストイ=プラグマティスト説は、極めてユニークだ。彼の筆致に従えば「貴族的より民主的に進み、プラグマティストとして終始したトルストイ」[1925/2]という男がロシアにはいる。
「トルストイ実にプラグマティストである。人間の理智は冥想的なものでもなく、実在を表現したものでもない、それは本来活動的乃至実行的な作用であり、且つまた、真理そのものは活動乃至実行の一種である」[1925/446]
オイオイ、マジか。
レフ・トルストイといえば、ロシアの文豪として誰もが知っているが、天下のドストエフスキー人気には一歩およばず、しかも書くもの書くものみんな長ったらしくって辛気臭いものばかりだから、知ってるけど読んでいない作家ランキングでプルーストとタメを張る常連。いささか残念感もただようと噂されてもいる、白ひげヒューマニズムおじいちゃんである。
たしかに、トルストイはよく性善説で唱えられるような子供生来の天真爛漫を肯定し、自然体サイコー、強制ヨクナイの自由教育を訴えていた。バカラシと馬鹿にされていた、大正期のお花畑集団こと白樺派が、トルストイかぶれ、トルストールをかぶってトルストイッキしていたことはよく知られている(お酒は節度をもってつき合おうね)。
けれども、普通に考えれば、ロシアの平和ラブ作家に、アメリカ由来のプラグマティズムのラベルを貼ることは不自然極まりない。強制撤去から、直ちに自由教室=「一個の実験室」[1925/443]を連想するのはさすがにやりすぎだ。でも、貼る。ペタペタ。

 

[引用]
[1921]田制佐重『学校教育の社会化――輓近思潮』、文教書院。
[1925]田制佐重『文芸家教育論集』、文教書院。
[1928]田制佐重『教育社会学の思潮』、甲子社書房。
[1986]福永安祥『社会学と教育』、早稲田大学出版部。

 

(第15回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年11月15日(木)掲載

 

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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