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vol.17:アガリ症克服法。三隅一成・前篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第17回目は、プラグマの知見をスポーツ科学に応用した研究者、三隅一成の登場です。

 

プラグマ×スポーツ

田制佐重は、行動に結ばれないセンセーのお題目を揶揄して「畳の上の水泳では真の水泳は学べぬ」[1937/174]と書いた。畳の上の水泳選手……たしかに頭のネジが飛んでる。
田制の考え方を全肯定するかどうかはともかく、プラグマ教育論が必ずや求められる領域がある。つまり、体育またはスポーツに関する学習において、プラグマはかなり大きなヒントを与えるように思える。
というのも、どれほど頭で体の動かし方を理解していようが、スポーツにあってはそれを実行に移せるかどうかこそがことのカナメであって、逆にいうと体の使いこなしが上手く言語化できなかったとしても、動けちゃうのならばそれはそれで問題ナシ。国語算数理科社会と違って、純粋に実践や結果が問われるのがスポーツの大きな特徴といえよう。プラグマと相性の悪いはずがない。
ここで紹介する、三隅一成というプラグマティストは、正しく、プラグマの知見をスポーツ科学に応用した研究者であった。
一八九四年、福岡県生まれ。理系の学問を修了しながらも一九二六年からアメリカへ留学しプラグマティズムを学ぶ。直接師事したのは、G・H・ミード。一九二七年秋、現代形而上学という講義で初めて会ったミードの笑顔に、三隅は「ウオルト・ホヰットマンの肖像の一つを思ひ出した」[1941/467]という。
お待ちかね、ゼニガメ代わりの水タイプのご登場である。

 

アガリ症いっちょアガリ

たとえば、三隅は新しいスポーツ心理学を打ち立てることで、アガリ症の克服法を案出しようとしていた。
高校時代にテニスをやっていた者からすると、たしかにスポーツにおいて、このアガるというやつは、いかんともしがたい厄介さを孕んでいる。
いったん試合でアガると、練習ではできていたリズミカルなステップが崩れ、ファーストサービスの成功率もガクッと下がってしまう。もう下からのスライスサーブでしのぐしかない。マイケル・チャンである(なにをいっているか分からないだろうが、スルーしてくれてよい)。
なぜ、人はスポーツでアガってしまうのだろうか。競ってくるライバルを意識するからだ。なぜ意識するとアガるのか。負ける可能性を勘定に入れるからだ。つまりは、未来の状態に自己を投影しているからだ。それがよくない。
「一体敗けるとはどういうことか? それは二分何秒か先の出来事である。そこで「敗けるかも知れんぞ」という意識は一かき一けりの泳ぎの今ではなく、二分先の未来に集中された意識である」[1971/208]
戦後、国士舘大学体育学部につとめていた三隅は、数あるスポーツのなかでも、水泳競技にかなり熱を入れていたので、ここで取り上げられている例示も水泳だ。勿論、畳の上ではない。

 

意識の流れを止めるな

この今に集中しなくちゃいけないのに、スケベ心が邪魔して目の前のことに集中できない! あるある。未来に気取られていると、その先取りしたイメージで自らを拘束して体が思うように動かなくなってしまう。自縄自縛。
意識が固まると体も固まる。三隅はこれを「流れ」という言葉で表現している。
「易経の中に「天行健ならば自彊息まず」とある。自然の運行が健やかで病的でないということは、それが、流れて息〔や〕まぬことをいう。生体、特に人間の行動が健やかであるというのも、それが流れて止ることなき状態をいうのである」[1971/208]
アンリ・ベルクソンならば《持続》といい、そのお友達のジェイムズならば《純粋経験》とでもいうだろうが、そんな難しい言葉を介さずとも、要は《本当に集中できてる時って、時間が経つのがアッという間だよね》という、あの経験のことを指している。
幼い頃、砂場で泥の城づくりに励んでいて、もうご飯だよ、といわれ、ハッと気づくと、あたりは真っ暗な公園の片隅、あの経験。
意識が健やかに流れているとき、《こういうふうに流れているんだな》といった反省すらなく、ただ流れている。本当に集中しているとき、時というものはない。現在とさえ意識されない現在しかない。スポーツ競技の本番で満足のいく結果を出せるには、この時間ならぬ時間を生きねばならない。
三隅からすれば、間違えてもいい主義がもっている未来の目的から顧みたときのダメ出し機能、心の内なるお小言は、現在に対する集中が足らない証拠なのだ。

 

フィードバックとは何か?

三隅は、意識を「饋還」という言葉でも説明している。無駄に画数の多い漢字だが、これ、フィードバックの訳語。「刺戟が反応を機会するだけでなくて、反応が逆に刺激に影響する」循環作用のことを指す[1971/208]。いまだと帰還という訳語の方が一般的か。
たとえば、こんな例はどうだろう。
テニスでサーブの練習をしている(←あくまでテニスに固執する奴)。なんど打ってもネットに引っかかってしまう。その失敗を反省する。要するにトスの位置が前方過ぎるから、振り上げたラケットの最高所からやや落ちたところでボールとの接触面できてしまって、高さが確保できないのだ。というわけで、トスを頭のてっぺんに落ちるイメージで投げてみたら、かなり入るようになってきたよ。
インプット(サーブ)によってアウトプット(成功/失敗)が出てくるが、アウトプットをインプットに逆入、組み込むことで(トスの位置変えればいいじゃん)、あるシステムの調整をはかる……これがフィードバックである。
この説明でも分かるとおり、フィードバックという働き方は、日常生活の様々な場面でよく見られるものだ。サイバネティクスという学問は、高度に抽象化した仕方で、生命から社会までを貫くフィードバックの普遍的な原理を考察した。
むしろ、フィードバックが全然見当たらないものの方が少なかろう。一方的な命令なのに、命令を受けたお前がどうなろうが知ったこっちゃないよ(そして実際に知らない)、という超絶ブラックな組織でもあれば話は違ってくるだろうけども。

 

未来と過去をこの今に

三隅が意識をフィードバックのシステムとして記述するのは、なにごとも意識は意識することで意識自身を変えちゃうという可逆性があるからだ。無色透明で絶対中立の意識が、ある事象を観察する、ということはありえない。なにかを想うとき、想うことで自らが変わってしまうかもしれない意識と一緒に想っている。意識には《嘘ぴょーん》という意識の相がない。嘘を想う意識だって本当に想っている意識なのだから。
禅問答のようになってきたが、要するに、意識とは連続的なものであり、絶えまないサイクルのなかで成立している。想う→やってみる→成功する/失敗する→想う……といったような。意識の外部を介して意識はくるくる回っている。体操選手みたいだね。
三隅は先のものとは別の論考で、このくるくるが停止すると、人は現在とは別の時間に気取られてしまうのだ、と指摘する。
「この流れをストップ(止)すると、一方において普遍性と絶対性とをもった解決即絶対の真理があらわれ、他方フィード・バックが切断されて未来と過去とが孤立した別々の存在となる。そして現在の代りに未来が脚光を浴びてくる。かくて理想主義が生れてくる」[1971/13]
最高の集中状態に没入した時間ならぬ時間は、ただ現在に集中することを命じる。これは別の言い方をすれば、「未来と過去」を切り離されずに、今このとき、のなかに封じ込めるということだ。
アガリ症を直すには理想主義者になってはいけない。

 

[引用]
[1937]田制佐重『教育的社会学』、モナス。
[1941]ミード『行動主義心理学』、三隅一成訳、白揚社。
[1971]三隅一成『芸術とスポーツと行動科学』、産業能率大学出版部。

 

(第17回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年12月20日(木)掲載

 

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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