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「男の子の名前はみんなフランシスっていうの」
書評『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』
西田博至

レビュー / 西田博至

「ライブ・シネマ」という前代未聞のプロジェクト、それにまつわる思案を通じて、自身の出自とキャリアを振り返りつつ、来たるべき映画の未来を夢想したフランシス・フォード・コッポラが執筆した『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る ライブ・シネマ、そして映画の未来』。本書について、今回は批評家の西田博至さんに書評をご執筆いただきました。西田さんは「キネマ旬報 2018年12月下旬号」にて訳者である南波克行さんと「今、明かされる、コッポラ史上”最大の野望”!」(進行・構成は篠儀直子さん)と題された刺激的な対談を行われたばかり。本稿では、対談で言及されたセルゲイ・エイゼンシュテイン、ベルトルド・ブレヒトといった固有名とともにコッポラと切り離すことのできないもう一人の存在、ジャン゠リュック・ゴダールとの関係にスポットをあてて論じていただいています。ぜひ「キネマ旬報 2018年12月下旬号」での対談とともにお読みください!

 

「男の子の名前はみんなフランシスっていうの」

西田博至

フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』と題されたこの本は、コッポラ自身がその偉大な「キャリアの終わり」として現在取り組んでいるライブ・シネマというプロジェクトについての詳細な記録であると同時に、これまでコッポラ自身が歩んできた映画作家としてのターニング・ポイントが、「私の頭の中の、包み隠しのない回想」として、ずいぶん赤裸々な言葉で書き連ねられている。特に、『地獄の黙示録』で抱えた巨額の負債の恐怖から逃れようと取り組んだ、大いなる夢の企画『ワン・フロム・ザ・ハート』の失敗で、何もかも失う八〇年代初頭を振り返って、「間違いなく私は狂っていたのである」とさえ記している。

しかしこの本で最も驚かされるのは、コッポラは今なお、『ワン・フロム・ザ・ハート』で実現できなかったことのリヴェンジを、虎視眈々と狙っているということである。そのリヴェンジこそが、「映画とテレビと演劇をつなぐ、新しい形式」であるライブ・シネマの実現なのだ。このタフネスには、もう感嘆するしかない。

ライブ・シネマとは、南波克行による簡潔な説明を引くなら、「演劇的に上演されるライブのステージを、事前撮りされた映像も利用しつつ、テレビ、劇場を問わずに配信する映像作品」のことである。この本のなかにはライブ・シネマを実現するために必要なあらゆることが、成功や失敗の例も含め、ぎっしりとつめ込まれている。

しかし、これはコッポラ自身も書いていることなのだが、最後まで本を読み通しても、ひとつの疑問を拭い去ることが、どうしてもできない。なぜ、従来の映画づくりのやり方ではなく、それはライブで行われなければならないのか、ということである。

それは、どんな突発事態をも掌握するコッポラのディレクターとしての能力を誇示するためのものではない。彼自身はっきりと、ライブ・シネマの観客たちに、「「まるで映画みたいだ! まさかライブだとは思わなかった!」といったような反応を示させることには、それほど関心がなかった」と書いているからである。そして、コッポラがこのライブ・シネマへのチャレンジを最初に試みたのが、『ワン・フロム・ザ・ハート』であることも間違いない。彼は当初、この映画の撮影を全篇、テレビの「生放送の方式でやることに決め」ていたのである。

「私はそれをライブでやりたかったのだ。まさにテレビの黄金時代にジョン・フランケンハイマーがやったような、あのライブ・パフォーマンスを」と、コッポラは書いている。

撮影が始まると、当時最新鋭の撮影機材やヴィデオ・レコーダが満載されたトレーラー「シルバーフィッシュ」号のなかに陣取ったコッポラは、「ラウドスピーカーを使って、ステージに説明や指示を送った。彼は、ディレクターが調整室に座って演技をモニターしたテレビの黄金時代を懐しんだ」(ピーター・カーウィ)という。

このとき、狂えるコッポラの姿を間近でみていたひとりが、ジャン=リュック・ゴダールである。

当時のゴダールとコッポラの蜜月ぶりは、誰もが知るところであった。
黒澤明にコッポラを紹介し、コッポラにハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの『ヒトラー』をみせた映画プロデューサーのトム・ラディは、「アメリカで最もエネルギッシュな映画狂」であり、「彼が得意とするのは、才能ある人間をもうひとりの才能ある人間に紹介すること」だった。ラディが、ゴダールとコッポラと引き合わせると、ふたりは意気投合する。

ピーター・カーウィは、コッポラが「ゴダールの人間嫌いの世界観と、伝統的な撮影所システムを断固拒否する姿勢に惹かれ」たのだと書くが、とにかくゴダールは、コッポラと会うため、頻繁に大西洋を渡るようになる。ゴダールはやがて、「私はアメリカを、その雰囲気や私とフランシスの結びつきゆえに自分の国のようにみなしています」とさえ語るようになるだろう。

コッポラの大好きなケルアックの『路上』のゴダールによる映画化など、幾つかの企画が持ち上がっては消えた。そして、コッポラがゴダールに二十五万ドルを手渡したのは、原子爆弾の実験場に隣接する、ちっぽけな砂漠の町だったラスベガスを、第二次大戦後、カジノとネオンの大歓楽地に変えるきっかけを作ったギャングであるバグジー・シーゲルと、赤狩りの時代のハリウッド・スターにまつわる映画を、ロバート・デ・ニーロとダイアン・キートン主演で撮ろうとしたときだった。

この『ザ・ストーリー』と名づけられた映画のシナリオの抜粋は、ゴダール自身が映画雑誌とコミックを鋏で切り貼りして作ったらしいイメージと共に、『ゴダール全評論・全発言II』のなかに収められている。

盲目の娘をひとりで育てながら、大学で映画史を教えるもと脚本家の女(ダイアン・キートン)と、優秀な第二班のキャメラマンだったが、「きわめて怠惰だった」ため、今はアンダーグラウンドのポルノばかり撮っている男(ロバート・デ・ニーロ)が、六年ぶりにラスベガスで再会する。舞台は現代だ。嘗て愛し合った彼らは今、フランキーという名の、往年の映画スターが撮ろうとしている「『バグジー』という題の超大作」のために雇われているのである。

「ハリウッドの大いなる時代」のスターだったフランキーは、やがてマッカーシズムの嵐が吹き始めると、「彼だけにしかわからない理由から、意固地に急進的な態度をとるようにな」り、ハリウッドから追放され、イタリアへ逃れる。そこで「ジョゼフ・ロージーと一緒にマカロニ・ウエスタンを何本か撮」ったりしていたが、数十年を経て、アメリカに帰還すると、大金を掻き集める。映画産業とマフィアの癒着の真相を、ラスベガスを生んだ男の生涯を通して暴く映画をつくるためだった。

再会した男と女と、彼らの娘との交歓のシークェンスも織り交ぜながら、しかし、ハリウッドの不吉な記憶を呼び覚ますだろう『バグジー』の企画は、フランキーたちの命を危険に晒すことになってゆく。

「物語はラスベガスで始まる」と書かれたシナリオのページにゴダールは、嘗てはラスベガスの夜を眩しく飾っていたネオン看板の残骸が山のように積み上げられた、砂漠のなかのゴミ捨て場の写真を配している。

そして残念ながら、商業映画を批判する商業映画を、商業映画界へのゴダールの復帰作としてアメリカで撮るというこの企画もやがて頓挫したが、夜を昼に変えるラスベガスの煌めきを、何もない砂漠の上に立ち上げた男がバグジーだけではないことを、もちろん私たちは知っている。フランキーならぬ、『ワン・フロム・ザ・ハート』を撮り始めたフランシス・フォード・コッポラそのひとである。

この映画を、テレビのライブ中継のように撮ると決めたコッポラは、「本物のラスベガスまで飛行機でほんの四十五分だというのに」もかかわらず、映画スタジオの九つの巨大なステージを買い取って、そのなかに「ラスベガスの完全なレプリカを作り上げていった。いや、作られたなどというものではなく、美術部門はラスベガスそのものを作ってしまったのだ。その圧倒的なネオンもリアリティたっぷりに、それも完璧に」というほどだった。その「完璧」なラスベガスの「セットは場面進行の順に作られたが、それは俳優たちが場面から場面へと、脚本をそのままライブで演じながら、移動できるようにするためだ。歌もライブで歌われれば、最終編集も、特殊効果も、音響効果も、ライブで付与されていく」というのが、当初のコッポラの夢想だった。


 

「フランシスはやりすぎています」と、ゴダールがポーリーン・ケイルを相手に語ったのは、まさにコッポラがこの狂気の渦のなかにいた、一九八一年のことである。

「彼はあるとき、ただ自分のスタジオのために、ある気のきいたささやかなコメディーをつくろうとしていました。配給されることが保証されていて、どんな問題もありませんでした。その映画はいつかは、『地獄の黙示録』でつかった金をとりもどすはずでした。ところが突然、その四百万ドルの映画が二千五百万ドルの映画に変わってしまうのです。これはなにかがおこっていることのあらわれです。われわれはこうしたことに注意をはらわねばなりません。というのも、こうしたことはわれわれの未来にかかわることだからです」、と。

では、ここでゴダールの云った「われわれの未来」とは、どんなことだろう?総てが終わったあと、一九八三年にゴダールが語った言葉を引こう。

《コッポラとぼくの唯一の共通点は——たとえ方向は逆でも——、彼は自分のスタジオを、みんながやってきてスパゲッティを食べたり映画について議論したりシナリオをさし出したりする家のようなものにしようとし、ぼくの方は自分の家を小さなスタジオにしようとしたというところにある。でもこの二人の試みは、ほぼ同じときに挫折してしまったわけだ。》

『ワン・フロム・ザ・ハート』で総てを失う以前、コッポラは自前の映画スタジオだけでなく、その周辺には劇場やビルなど幾つもの不動産を持ち、雑誌社やラジオ局のオーナーでもあった。同時に、『地獄の黙示録』の負債が遠からず、じぶんをすっかり押しつぶすだろうという恐怖からコッポラは逃れることができなかった。しかしそんなときこそ、「私が決まってやることといえば、何かもっと新しく、より大きく、そしてより思い切った、さらにエキサイティングなプロジェクトに飛び込んでみようと気取ってみせることだった。」

こうして、コッポラはじぶんの持っている資産の総てを繋ぐ夢をみたのだ。ずっと以前からコッポラが憧れていた夢を本当に実現すること、すなわち、「《ラ・ボエーム》のような生活をすること」へのチャレンジだった。

パリの裏町に屯する、若い藝術家たちの楽しく貧しいその日暮らしの悲哀を描いたプッチーニのオペラ《ラ・ボエーム》に、コッポラは憧れていた。それは、「書斎で三時間執筆し、それからカフェに腰を下ろして、隣にいるモーリアックにプルーストに関する面白い話をするのさ。芝居小屋がどうなっているかを見に行き、次に雑誌の連中が何をやっているかを覗きに立ち寄って、もう一軒カフェに寄り……」というような生活だ。

「やりすぎるフランシス」は、今ならそれができると思ったし、やらねば恐怖に押しつぶされそうだった。

《私には人を巻き込めるような着想があったし、市内のすぐ目の前のノースビーチにスタジオだって持っていた。ビルのひとつをストーリー部に、別のひとつを演技部にすることだってできるだろうし、通りを渡ったところのビルはカフェにしてもいいだろう。劇場の左側の建物はフィルムとサウンドのラボにするのだ。これらすべては、自由奔放なボヘミアンの因習と共に私のすぐそばにあって、悪くないレストラン、カフェ、たまり場に、バー、そして集まってくる女性たちも含めて、よりどりみどりだった。まさに私がかねて望んでいた《ラ・ボエーム》の世界だ。》

なんてボヘミアンなコッポラ! 本物のジャングルのなかで、本物の軍用ヘリコプターを飛ばして、本物のナパームを炸裂させているときよりもずっと、スタジオのなかに作りこんだパーフェクトに偽物のラスベガスのなかで、コッポラは完璧な夢に酔っていたのである。

程なくして彼は、ニューヨークの銀行の会議室に閉じ込められる。数百枚の書類にサインをさせられ、全財産を没収され、「向こう十年間は、あてがわれる映画を毎年ごとに一本作ることを義務づけられ」て、コッポラのベル・エポックはあっけなく終わる。

だが、「たとえ方向は逆でも」コッポラとゴダールが、スタジオと家を一緒にするという「われわれの未来」の試みに挑み、「ほぼ同じときに挫折」したのは、なぜだろう? それは、端的に云えば、生活そのものが藝術になることを夢想したということにほかならない。どうしてコッポラが、その総決算としてのプロジェクトにおいて、ただ優れた映画を撮ることではなく、ライブ・シネマであることを何よりも優先するのかという答えもまた、ここにあるだろう。

キャメラマンのヴィットリオ・ストラーロからの助言をいれて、『ワン・フロム・ザ・ハート』の総てをライブ・シネマで撮影するのを断念したことが、「私の生涯たった一度の本当の後悔だ」とコッポラが語るのは、映画の撮影とじぶんの人生が「完璧に」ぴったりと融合する瞬間を諦めてしまったということへの、トラウマのような悔恨なのだ。

だからこそコッポラは、ライブ・シネマの夢を、決して諦めることができないのである。

 

【参照文献】
ピーター・カーウィ『フランシス・コッポラ』(訳・内山一樹、内田勝。ダゲレオ出版)
ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール全評論・全発言II 1967-1985』(訳・奥村昭夫。筑摩書房)