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vol.19:教えてミード先生。三隅一成・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第19回目は、三隅一成の説いた「現在主義」の元となった──そして荒木氏がプラグマ御三家よりも敬愛しているという──ジョージ・ハーバート・ミードにも触れていきます。

 

 

ミードの創発

アガリ症を直す現在集中、「饋還」で問題解決、そして行動科学。三隅が論じていたこれらテーマは、いずれもG・H・ミードに端を発している。
たとえば、ミードには『現在の哲学』という著作がある。いうまでもなく三隅が説いた現在主義の元ネタ。ミードは生前、一冊も著作を書かず、死後、シカゴ大学の出版部が遺された遺稿や講義の速記をまとめるかたちでその思想が公にされていったが、これはその第一遺著になる。
ちなみに、ミード・スタイルを真似てか、三隅も生前中に単著を完成させておらず、晩年にそれまで書いてきたものをまとめた著作集が二冊あるだけ。構想ではあともう二冊出す予定だったがそれは叶わなかったようだ。
ミードは『現在の哲学』で創発という言葉を、あるシステムを以前のものと以後のものという具合に大きく変える現在時の画期の力として解説している。「創発が現われる現在」は「その過去を書き直す」力さえもつ[2001/21]。過去は客観的に積もり積もって、有機体の現在を決定しているのではなく、反対に、どんな過去をどんなふうに活かすかは現在の裁量によって決まる。「この現在は、常に新しい天国と新しい地上を与える、創発の場面である」[2001/105]
歴史修正すぎる……が、いかにも三隅の先生がいいそうなことだ。

 

自転車だからジョーカー(笑)

ミードがどんな人だったのか、軽くさらっておこう。
一八六三年に誕生、一九三一年に逝去。大学生の頃に牧師の父親が亡くなり、食堂の給仕や鉄道会社で働きながら、学業を続行し、海外遊学を経て、ミシガン大学の教師として迎えられた。デューイの同僚である。住まいもお隣さんで生涯にわたる仲良しであった。
三隅の印象からすくっておけば、ミードといえば、まず自転車である。「ミードはその自転車に死ぬまで乗って大学の教室に通ったという非常に風変りな人であります」[1971/60]。自転車で現場に来る。古畑任三郎かッ!
三隅は「シカゴでトランプを遊ぶ時にはジョーカーのことをミードと呼んでいた」[1975/171]とも書いている。なぜならトランプのジョーカーはいつも自転車に乗っているからだ。微妙に馬鹿にしている感じがして、確実に笑ってしまう。
しかも、自転車通勤の「その後ろには必ず愛犬が走っていた」[1975/19]らしい。猫派ではなく犬派である。講義中、犬をどうしていたのか気になるあたりもふくめて、キャラが立ちすぎている。

 

プラグマ・ワンワン物語

そんなキャラ立ちプラグマティストの思想を要約するのはなかなか難しいが、三隅のプラグマとの関連でいえば、『行動主義心理学』を紐解くのがいいだろう。
これは一九四〇年に白揚社が「世界全体主義大系」というシリーズものの一つとして企画し、三隅が翻訳を担当したミードの代表作で、今日、『精神・自我・社会』という原題の直訳で親しまれている。ミードの第四遺著に当たる。
この本でミードは人間ふくめた有機体(生物)の自律性をことごとく他の有機体との相互作用に還元していく。パーソナルなことは社会的なこと。フェミニストの標語を先取りするような――彼女たちの場合は、パーソナルなことは政治的なこと――視点から、《個人の勝手でしょ》と言いたくなる領域のなかにも入り込んでいる他人のこだまを、ミードは聞き漏らさない。
たとえば、ミードは人間の言語の基礎に、言葉にならない身ぶり(ジェスチャー)を認める。ミードお気に入りの例示は、犬の喧嘩だ。また犬である。
「敵対的態度の下に近寄り来る二匹の犬は相互にさういふ身振の言語を使用する。彼らは相互に唸り、噛み合ひ乍ら互にぐるぐる廻り合つて攻撃の機会を待つ。こゝに言語の発生すべき過程がある。即ち一匹の犬の或態度が相手方の反応を喚起し、此反応が此度は第一の犬に前とは違つた接近と反応を促す。さうして之は無限に交互に進行する」[1941/21]
威嚇や攻撃といった行動は、たとえば遺伝情報によって一から十までぎちぎちにプログラミングされていても使い物にならない。なぜなら、相手の出方次第でどう行動するのが利口なのか、が決まってくるからだ。そのとき、生き物は、目の前の相手の行動をトレースしている。敵対していても、いや、しているからこそ、トレースして、自分が選べる次の最善の一手に備えなければならない。
そのとき、自分じゃない犬でもって自分が胸いっぱいになっている。ここに既に社会性の萌芽がある。

 

フィードバック再び

次の一手に備える構えは、その振る舞い自体が、相手の行動を規制することにもなる。
お気づきだろうか。これはスポーツ選手の時間の連続性のなかで考えられていた「饋還」ことフィードバックが、個体を超えて、他を巻きこむ仕方で相互的に作動しているのだ。「吾らは同様の状況を拳闘や剣術の中に於いてみる。例えば佯撃〔フェイント〕や、之に対する相手のかわし始めの中に見る」[1941/60]。このミードの議論などは、三隅のスポーツ論にも直接に通じていくものだ。
ああきたらこう返す……と読まれていたらあっちでいく。この読み合いにこそ、思考の深まりが、というよりも、思考や精神というものの成り立ちがある。
そう、実は、この無言のやりとりが、言葉の素というだけでなく、精神とか心とか呼ばれているものの本性なのだ、とミードは考えている。自分の心があって相手との対話が始まるのではなく、対話の型をインストールすることで自分の心というものが生まれる。自我とは徹頭徹尾社会的なものなのだ。

 

ボクのなかの他者のなかのボク

化粧濃いかな? 寝ぐせ変かな? 自分ってどういうヤツなんだろう? そう自問するとき、当の自分は、対象化された「自分」=「ヤツ」を俯瞰で眺めようとするため、「ヤツ」自身ではなくなってしまう。距離をとったおかげで、幽霊みたいに浮ついている。そんなフワフワしたポジションとは一体なんなのか。
正しく他者の視点にほかならない。
自分がどういうヤツか気になってしまう、ということは、自分ではない他者の態度を借り受けることができるということだ。これをミードは(現代の訳語で)《一般化された他者》や《組織化された他者》などと呼ぶ。
「普遍化された他の態度を彼自身に対してとる事によつてのみ彼は思考し得るのである。それはこの様にしてのみ思考――又は思考を構成する所の身振の内化的会話──は発生し得るのである」[1941/220]
たとえば子供たちはよく何かのフリをして遊んでいる。ゴッコ遊びに興じる。警官になったり、お花屋さんになったり、ウルトラマンになったり、プリキュアになったり。
ここで彼らは様々な役割を仮想的に取得している。役割というのは他の役割と対峙することで有意味な社会性にひらかれる。警官の証は泥棒を捕まえることによって生まれ、ウルトラマンは怪獣を倒すかぎりでヒーローたりうる。つまり、役割とは(不在なままでも他者を潜在的に求めている)相補的なものなのだ。補い合っている。そして、人が自我だとか心だとか呼んでいるものもこの社会性に開かれる限りで成り立つものなのだ、とミードはさとす。

 

[引用]
[1941]ミード『行動主義心理学』、三隅一成訳、白揚社。
[1971]三隅一成『芸術とスポーツと行動科学』、産業能率大学出版部。
[1975]三隅一成『行動科学と心理学』、産業能率短期大学出版部。
[2001]ミード『現在の哲学・過去の本性』、河村望訳、人間の科学社

 

(第19回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年1月24日(木)掲載

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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