• Twitter
  • Facebook

vol.20:全体主義キモー。三隅一成・完結篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第20回目の三隅一成・完結篇は、プラグマが全体主義につながりかねない危険性もあるという教訓です。

 

 

君なら何をチョイスする?

三隅はミード先生の主著を翻訳した。それは白揚社の「世界全体主義大系」というシリーズの一巻であった。
この情報は、現代でミードを学んだことがある者にとっては、ちょっとしたサプライズとして響くかもしれない。ミードが個人の自由を認めない全体主義だって? そんなバカな!
ミードの『行動主義心理学』は最終巻の第一二巻として刊行されており、先行して出されていたのが、たとえば第一巻のローゼンベルク『ナチスの基礎』、第四巻のシュミット『国家・議会・法律』、第七巻のムッソリーニ『協同体国家』、第一一巻のウェブレン『アメリカ資本主義批判』などであった。
ときどき、これ全体主義なのか、と疑問に思わなくもないものも混じっており、ミード参入も刊行点数を稼ぐために杜撰な編集者が内容も確かめずに早合点でGOサインを出した結果なのかもしれない。
が、三隅の経歴を調べてみると、ここにはもう少し慎重にならなければならない案件が横たわっている。ならなら案件である。

 

技能を検査するぞ

一九三九年の匿名の雑誌記事では、三隅の人物像は次のように紹介されている。
「三隅氏は、心理学の技師である。それも、従来の心理学と異つて、行動主義心理学の研究家である。氏はまた、現在、国立技能検査所の事実上の所長であり、国民登録制度の隠れたる功労者だ」[1939a/21]
国立技能検査所? 国民登録制度??……ウーム、怪しい匂いがぷんぷんするぞ。
同時代、中林貞男は国立技能検査所に関して、「新東亜建設の大事業が、軍事行動と同時に遂行されねばならない現下の情勢に於いて、生産力拡充が焦眉の急務であること」を受けて、労働者たちを「技能程度によつて一級、二級、三級と格付け」る機関であると説明している[1939b/49]
さらに。北村吉郎はこの仕事のために活用された、一九三八年の国家総動員法に依拠した国民登録制を解説して、国民に職業能力の申告をさせることで、「労働力の適正な配置を維持することが出来」、しかも「臣民徴用制度の運用のための基礎」となることができるのだ、という。これはナチス・ドイツが一九三四年に「国民労働秩序法」を打ち立てて、目を見張る成果をあげたものに匹敵する制度になるはずだ、と[1939c/94-95]
……うーむ、どうだろうか?

 

心だって測れる

先の三隅紹介記事では、労働者の一挙手一投足、その微細な行動の逐一を評価に組み込むことで、「労務者が、単に、賃金だけに、興味を抱いてゐるか、国家的立場から、仕事そのものに快適さを見出して居るか等の結論を生み出す」[1939a/21]と説明されている。
おそらく、これは記者が勝手に書いたものではない。というのも、三隅自身の論文でも、行動主義心理学を「班とか、工場とか、社会とか、もつと大きくしては日本とか東亜とか人類とか云つたものの立場をとる作業態度」を測り、さらには(退勤や遅刻とは違う)「徳義心とか、協同心とか、公開とか、表裏のあるなしとか云つた様な数量的に表し難い行動」の測定に役立てることができると述べているからだ[1939d/12]
前にも述べたように、人間の心や自我なるものは、決して自律しておらず、他者との、暗黙の対話のごとき、潜在的なコミュニケーションのなかで成り立っている。ワンワン物語が示唆していたのは、微妙な動作の機微で他者の立場に立って反応してしまう自分がいる、ということだった。見聞きを経て、「到達工作といふ手足の行動」[1942/69]へとフィードバックすることで、我々が心と呼びたいなにかが生じている。
言い換えれば、心とは常に既に共同(体)的なもので、「他の役割をとる行動、特に組織された他の行動をとる行動」のうちに宿り、そのなかでも三隅がいうには、「国家民族の態度をとること」のなかに顕現する[1942/70]
もう余計な解説は不要だろう。ミードから学んだ《一般化された他者》は、ある種のナショナリスティックな全体主義を強化するアイディアとして使い回されているのだ。

 

プラグマ全体主義?

「投手が「組織されたナイン中の一役割をとる」時、彼は毫も彼独特の観念をすてませぬ。彼は捕手の真似もせず、遊撃の姿勢をもとらぬ。彼はワインドすることに依つて初めて全体の立場をとり、又とりうつるのであります」[1942/71]
労働者の技能を測るのがどうのこうのという文章にも、すかさずスポーツで喩えを入れる能天気さにちょっと笑ってしまうが、いやいや、笑いごとじゃない。国民っていつからナインなんだよ。さしずめ、戦争は世界野球大会ってわけかい。
三隅がファシストであるかどうかはこのさいどうでもいいことだ。問題があるとすれば、ミード的プラグマティズムがもっている(ようにも読める)、《私》という固い個人的な核を《みんな》へと問答無用で融かしていく強力な溶解液が、わりとキモい世界像を与えるということだ。
国民の個人情報を把握して統制してやろう、という魂胆だけではない。外的な振る舞い(身ぶり)と内的な心のあいだに決定的な敷居を設けないミード哲学からすれば、細かな振る舞いの監視は、すなわち、心の監視へとつながっていく。
外づらの監視だけならば、表面上はイイ子を装っておいて、後ろでアッカンベーしていればいい。監視人だって一々内面まで取り締まるのも面倒でしょ。が、行動主義の教えは、ときに、アッカンベーなんてしたくなくなるくらいの「全体」奉仕的で帰一的な役割を演じるよう私たちに要求する。
プラグマティズムは使い方を間違えれば、プライベートもお構いなしにずかずか内心に入り込んでくる政治的な力を激励してしまう。こっからは立ち入り禁止、と諫めるどころか、イケイケゴーゴーとエールを送る体制万歳応援団になりはてる危険性がある。これは特筆しておくべき教訓である。

 

[引用]
[1939a]「官僚嫌ひの役人」、『経済マガジン』10月号。
[1939b]中林貞男「国立技能検査所の使命――労働者の技能検査と格付」、『科学主義工業』5月号。
[1939c]北村吉郞「国民登録制度の意義」、『科学主義工業』2月号。
[1939d]三隅一成「作業態度の検査に就いて――技能検査に於ける」、『技術と教育』12月号、モナス。
[1942]三隅一成「技術と精神」、『生活科学』3月号。

(第20回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年2月7日(木)掲載

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1