2019年1月23日、映画監督のジョナス・メカス氏がこの世を去りました。96歳でした。
「ウォールデン」(1969)や「リトアニアへの旅の追憶」(1972)等、多数の日記映画を世に送り出し、映画史に多大なる影響を与えた氏に敬意を表し、1974年刊行『メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959-1971』から、序文の一部、そして蓮實重彥氏による本書評を公開致します。
序文
私の「真実の日記」から
1958年11月8日
私は地方主義者だ。それがありのままの私だ。私はつねにどこかの場所に所属している。どこへでもいいから私を置き去りにしてみたまえ。渇いた、生き物などまったくない、死に絶えた、そこで暮らしたいと思う人など一人としていないような不毛の土地に――私はそこで育ち始め、瑞々しくふくらむだろう。スポンジのように。私には抽象的な国際主義はありえない。将来のための足がかりを作っておこうとも思わない。私には、いまとここしかない。それは私が、むりやり故郷からひき離されたためだろうか? 私がつねに新しい故郷を求めるのは、あそこ、あの土地以外のどの場所の人間にもなりきれないからだろうか? あの私の幼年時代があった土地。もう永遠に取り戻すことはできないであろうか?
あの年。1958年の夏のある時、私は自分の生き方を変えようと決心した。そのためにまず実行したのは、扁桃腺を取ることだった。 ……西欧風の庭にいた時か、強制収容所に入れられていた時か、どこかで引いた風邪がこじれて慢性になっていた。私は扁桃腺を取るように、さもなければ何か別のことをするように……と言われていた。それで扁桃腺を取ったのだった。病院の門を出る時、まだふらふらしてはいたが、自由に向かって私は第二の決心をした。それまで週五日働いていたデザイン会社をやめることにしたのだ。その代わり、クーパー・オフセットでパートタイムの仕事を探した。毎日二時間働いて週給十八ドル。私は文字通り自由になり、何でもやりたいことをいつでもやれる状態になった。
実に自由だった。十五年前の1944年、大学を出たばかりの時のように自由だった。あの時も私は自由になったと思った。あの時私は作家になり執筆生活を送ろうと考えていた。人生が目の前に、大きな花のように開いているように思えた。しかしそれから二ヶ月後には、私はハンブルクの湿っぽい郊外にある強制収容所に、イタリア人やフランス人、ロシア人捕虜と一緒に入れられ、第三帝国の奴隷になっていた。あれから十五年。いろいろな国の言葉、さまざまな国をめぐって最後にたどりついたのが、ニューヨーク市東13丁目515番地だった。そこで私は、再び完全な独立宣言をしたのだった。
三番目の行為は、『ヴィレッジ・ヴォイス』にジェリー・タルマーをたずねて行くことだった。私は彼に、なぜ『ヴォイス』には常設の映画のコラムがないのか、と訊ねた。彼は、「では、君がやったらどうだ」と言った。「いいです。明日原稿を持ってきます」と私は答えた。私のコラムの第一回目は、1958年11月12日に載った。その小見出しに「『ヴォイス』の連載コラム「ムーヴィ・ジャーナル」今週から始まる」と書いてあった。あれが始まりだった。あの時には気づかなかったことだが、このコラムを書くことで、私はみずからすすんで、あの1944年と同じ状態にみずからを追いこんでいた。私はニュー・シネマの奴隷となり、その強制収容所で働き、溝を掘るはめになった。
「ムーヴィ・ジャーナル」のコラムを集めたあなたの手にしているこの本は、1958年11月以来、『ヴォイス』に書いてきた全コラムの約三分の一を収録している。完全に手直ししたもの、部分的に抜萃したものもある。あちこち少し変えたり、削ったり、文章を直したりもした。こうしなければならなかった理由は、(a)植字工の間違った個所を原文通りに直すこと(初期の『ヴォイス』は、印刷者のミスの多いことで有名だった)。 (b)この本から削除したコラムの全文あるいは部分は、悪文だったり、面白くなかったり、私よりも他の批評家のほうがもっとよく論じているハリウッド映画やヨーロッパ映画を扱ったものだったりする。この本をまとめるにあたっては、一貫した原則として、その時期に私が傾倒していた問題の核心に固執した。それは個人的に作られた映画とそれに関連したエクスパンディッド・シネマである。これはその頃からずっと、”ニュー・アメリカン・シネマ”として知られてきたが、時には”アンダーグラウンド・シネマ”と呼ばれたこともある。
私が「ムーヴィ・ジャーナル」を書き始めた頃、ニュー・アメリカン・シネマはまさに創生期だった。ジョン・カサヴェテスが〈アメリカの影〉を完成したばかりだったし、ロバート・フランクとアルフレッド・レスリーが〈ひな菊を摘め〉を撮影中だった。映画の虫はすでにわれわれを食っており、全体の空気はどんどんエネルギーと期待感に満ちてくるのだった。映画はいま始まったばかりだ――われわれと共に! 誰もがそう感じていた。そういうわけで、第一回目のコラムを書いた時は、”真面目な”批評家になって”真面目に”ハリウッド映画を取り上げようと考えていた私も、すぐに自分の掲げている批評家の肩書きなど、何の足しにもならないことに気づいた。その代わりに剣を取り、私はすすんでニューシネマの防衛・宣伝大使の役をひきうけた。新しい映画作家を真面目に取り上げる者など一人もいなかった。悲劇映画は、映画とはみなされていなかった。私の同業者たちはこれを無視したり、眉間に痛烈な一撃を食らわせたりした。何かをやっつけようと思ったら、その相手の受身が弱い時にかぎる。生命や芸術作品を生みおとそうとしている者の、そのお産の間は無防備である。だから動物は、お産の時、誰も近づかないような場所に隠れるのだ。だから彼らは既成の映画批評家との間に、なるべく距離をおこうとしているのだ……。
ここにあるコラムを読めばわかるように、「ムーヴィ・ジャーナル」の連載が始まるや否や、私は批評家の肩書きをはずし、事実上、産婆の役をひきうけることになった。映画の世界に美しい芽が出かかっていて、しかもそれが私の同業者にも一般の人にも、叩かれたり黙殺されたりしているのを見ると、私はそれを引き出し、抱き上げ、保護せずにはいられなかった。そのため、ほら見て下さい、ああなんて美しい鶏じゃありませんか、世界中のどの鶏よりも美しい、と叫んでは手をうちならし、自分の鶏のまわりをぐるぐる走りまわりつづけてきた。が、誰もかれもこの鶏を醜いあひるだと思っているのだ! たくさんの拍手をする必要があったので、私は『フィルム・カルチュア』の共同編集者であるアンドリュー・サリスに商業映画のほうを受けもってもらうことにした。
この十二年間書きつづけた『ヴォイス』のコラムを読み返してみると、われながら自分の批評的判断の正確さに驚かされる。悔いはない。訂正すべきこともない。大家は大家として残り、歴史は歴史として残るだろう。
(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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蓮實重彥氏による本書評
『メカスの映画日記』と呼ばれる一冊の書物(だが、それにしても、これは本当に一冊の書物でしかないのだろうか?)が途方もなく美しく感動的なのは、「非=商業映画」の熱烈な擁護というその戦略的姿勢にもかかわらず、偽りの境界線の設定にしか貢献しない「排除」と「選別」の身振りを、おのれにかたく禁じているメカスの晴れやかな表情が、あらゆるページに充満しているからにほかならぬ。ジョナス・メカスが前衛でありうるとしたら、一般に前衛的と見做されるもろもろの作品を顕揚し、みずからもまたそうした作品を撮っているからではなく、まさに、前衛と前衛ならざるものとの中間に凡庸な魂たちが捏造せずにはいられないあの虚構の境界線を、いたるところで曖昧にしてしまうからなのだ。彼は、確立された権威への反抗を気取り根源的なるもの、への回帰を装うことで前衛たらんとする怠惰な精神の持ち主ではない。ありもしない境界線を設定し、そのこちら側を既知の世界、その向こう側を未知の世界と思い込んで越境をくわだてるあの掃いて捨てるほどいる疑似冒険者のひとりではなく、いま、この瞬間に立っているその地点で、時間意識と方向感覚への執着をも放棄しながら、積極的に曖昧さと戯れうる人間だという意味で、彼は前衛なのである。真の冒険者とは、「排除」と「選別」の機能しえない場に自分を置こうとする反=冒険者以外のなんであろうか。(以下略)(『シネマの記憶装置』より抜粋)