• Twitter
  • Facebook

vol.22:習慣に収監。清水幾太郎・中篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第22回目は、自己啓発本でもキーワードとなる「習慣」を軸に、清水幾太郎の主張を見ていきます。

 

習慣とエス

デューイは『人間性と行為』、清水訳でいう『生の論理』のなかで、人間が習慣で動く存在であることを強調している。そう、清水がデューイから受け取った最大の教えの一つは、人間は習慣の生き物である、ということだった。
習慣というのは不思議なもので。たしかに自分を動かす動力には違いないのだけども、他方、ある集団性を帯びて半強制的に身につけさせられたものでもある。多くの場合、意志して獲得したのではない。日本では人に会うと会釈で挨拶するものが一般的だが、外国人はハグしたりキスしたりする。関東のエスカレーターは左に寄って右側を空けるが関西では逆。あいつんちのカレーにはサトイモがはいってる、おれんちはサツマイモ、などなど。
習慣は様々なレヴェルに広がる集団性、または環境の客観的な特徴を個人の身体やその行為に反映させる。だから必然、習慣にだけ支配されると個人は、自由意志をなくした社会の操り人形になってしまうかも……という危機を予感させる。
デューイはいう。「「それは考える」〔It think〕という方が、「私は考える」〔I think〕というよりも心理学的言明として真実である」[1995/300]。「私」が行為の主人なのではなく、「それ」としか名づけようのないなにかが自分を動かしている。
興味深い。なぜかといえば、なんでも性的に解釈しちゃうぞおじさんことジークムント・フロイトは意識にのぼってこない心の最深部のエネルギー源のことをエス(Es)と呼んでいたからだ。このドイツ語は英語に直すとまさしくイットのことだ。
言葉で言い表すことのできないエネルギーの貯蔵庫。言葉にするってことは分けて整理するってこと。整理しようとするととたん手からこぼれ落ちてしまう。かろうじて、日常生活でのちょっとした言い間違いや物忘れから間接的にうかがい知れる、地下マグマのように煮えたぎる本当の願い。表に出しちゃ、ダメー!
互盛央の『エスの系譜学』という本は、デカルトの《我思う、ゆえに我あり》という近代哲学をつらぬく有名なテーゼに真正面から喧嘩を売るエスの系譜(我の前に思ってるじゃん!)をフロイトの背後の思想家もふくめて鮮やかに描いてみせたが、もしかしたら、習慣を大事にしたジョン・デューイもまた先立つ集団性に統べられている個人という主題のもとエスの系譜に位置づけるべき男だったのかもしれない。

 

甘いものを遠慮する勇気

が、が、が。お気づきのとおり、プラグマティストのデューイにはしみったれた顔は似合わない。前向き大事。
デューイは、習慣から脱した自由な人間の前提からものを考える思考様式をするどく批判し、人間が習慣の奴隷であることをいさぎよく認める。が、逆からいえば習慣を反省的に捉えることができるのならば、そのぶんだけ自分は我が身の主人に返り咲ける。デューイは己の習慣に意識的になることで、環境を修正し、習慣を変えていく希望を語る。
即ち、意志の力ではなく、知性を介した熟慮によって「未来の可能性の統制」を与えることができる。「統制なしには、われわれは後から前方に押しだされるだけである。統制によって、われわれは明るいところを歩けたのである」[1995/297]
甘いもの食べ過ぎると虫歯になって痛いぞ。それを知っているぶん、人は少しだけ自由になって習慣(甘いものついつい食べちゃう)を変えることができる。けれども、自由とは、その主観的洞察──虫歯になるぞ──にあるのではなく、客観的条件の変更(活動の選択)──甘いものを遠慮する──にある。ここをはき違えてはいけない。
断っておけば、デューイにとって知性もまた習慣を見張る外部の監督者なのではない。「習慣または衝動の進行を停止するには、力が要求される。この力は別の習慣によって提供される」[1995/194]。習慣が多くなれば、或いはもっと柔軟な習慣が出来れば、世界の見え方も未来への想像力も単一習慣のときとは比べものにならない広がりをもつ。

 

自己啓発と自己モニタリング

習慣は、自己啓発本のキーワードでもある。一例を挙げれば、一九九〇年代に翻訳がでたスティーブン・コヴィー『7つの習慣』。アメリカの経営コンサルタントが書いた本で、社会の成功者に見られる七つの習慣をまねることによって、自分も成功者になれるはず……という生活指南を読者に与えている。
ザ・自己啓発であるが、これがベストセラーになって、以降の同系統の書物でもたびたび参照される。「7つの習慣」を組み込んだタイトルは、以後日本でもぞくぞくと模倣反復される。
習慣に浸された自己を意識的にモニタリングすることで、習慣を、ひいては自己自身を変えていけるかも。自己啓発本に基本的な図式は、しばしばプラグマティズムの諸々の考え方にも共通するものだ。
邦訳では『西国立志編』というタイトルで明治初年に訳され、日本の自己啓発本の古典としてその名を歴史に刻む、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』(自助論)。世界中の偉人たちが努力によっていかに成功したか、その頑張り具合をカタログ風に紹介した本であるが、それら成功譚は翻って若者たちが自分を振り返って、「後来の福祉安寧を望まば、各自一箇の人、ただ自己にのみ依頼すべし」[1981/46]という独立独行の精神をはぐくむ教本のような役割を果たした。
ダメなところを自己反省して自分で自分を直していく。この姿勢は、習慣の対象化と修正の可能性というプラグマにも反響しているようにみえる。

 

複数の習慣

清水の場合、習慣の変革は社会的成功者になるためではなく、全体主義に屈従されない個人の自由、被創造ではなく創造の相を探し求めるために要請された。
たとえば、『社会的人間論』では、誕生から大人になるまで、ある個人が取り囲まれる社会集団が、その人生のステージによって異なること、変遷していくこと──家族集団、隣人集団、職業集団など──を確認している。
各ステージによって求められる習慣は異なる。台所にいる母親に向かって〈お母さん〉と呼んでも別にいいけど、学校の先生に対してはNG。先生はお母さんじゃありません。
清水は人の成長過程の最後に「基礎的社会」、国家への帰属を見出し、それが容易に変更できない人の運命であることを強調する。が、同時に「人間の社会的形成は多元的となることを避け得ない」[1992a/106]のも事実。国家に属していても、それは家族や地域コミュニティとは反対に見渡すことができない抽象的なものにとどまりつづける。国家の習慣だけで生きていくことはできない。
ここに習慣を監獄ではなく複数の故郷として捉えるための苦闘がある。のちに清水は、論文「現代アメリカの倫理思想」のなかで、やはりデューイに倣って社会の(集団的)「慣習」とこの制約のもとで身につけた(個人的)「習慣」の区別に注意を促す。まるで「習慣」の可変性や複数性を救い出そうとしているかのように[1992b/30]
思えば、清水のフランス、ドイツ、そしてアメリカといった国境横断的な教養もまた、結果的には一つの習慣に収監された自分を解き放つための解放戦線だったのかもしれない。

 

[引用]
[1981]スマイルズ『西国立志編』、中村正直訳、講談社学術文庫。

[1992a]清水幾太郎『社会的人間論』、『清水幾太郎著作集』第三巻、講談社。
[1992b]清水幾太郎「現代アメリカの倫理思想」、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社。
[1995]デューイ『人間性と行為』、河村望訳、人間の科学社。

(第22回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年3月7日(木)掲載 

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1