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vol.23:みんなクソみたいな子供だった。清水幾太郎・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第23回目は「失敗の宝庫」である子供の本性に、「失敗しながら少しずつ上手になれる」という人間の可塑性の希望を見出す、清水プラグマのキモに鮮やかにアプローチをキメます!

 

二冊目のノート

清水のプラグマティズムは、デューイを中心に学習したもので、その成果は一九四六年に既出論文をまとめるかたちで刊行された『民主主義の哲学』にもよく活きている。ただ、清水は決してデューイだけを贔屓していたのではない。一九二九年には田制佐重が翻訳することで日本に紹介された経緯もあるF・C・シラーの入門的論文を書いているし、『民主主義の哲学』では三隅一成御用達のミードへの参照もチラホラ見受けられる。
たとえば、ミードを援用しながら「新しく高い社会秩序」を代表する「新しいタイプの個人」に社会的進歩のきっかけを読むとき、「社会の進歩はMeでなく、Iを要求する」と要約するとき、そして、その個人の新しさの誕生を「デューウィに於ける教育の意味ではないであらうか」と換言してみせるとき[1992/35]、いささか保守的にもみえる三隅の強調点とは異なる清水ミード論が洞察される。
さて、教育を考えるということは、子供という存在を考えることだ。
清水は学生時代から哲学者の三木清に才能を認められ、『思想』というお堅い雑誌に論文を掲載させてもらった経緯がある――ちなみに、三木は西田幾多郎のユニークな弟子でもあった――。後年、そんな三木のベストセラー『人生論ノート』によく似たタイトルをもつ『倫理学ノート』で清水はヴィトゲンシュタインをプラグマティズムの伝統のなかで位置づけている。

 

小学生大好きシュタイン

オーストリア出身のヴィトゲンシュタインは、前期と後期で考え方が違うといわれることで有名な哲学者。《語り得ぬものについては、沈黙せねばならない》というキメ台詞でご記憶の人も多いだろう。前期は『論理哲学論考』、後期は『哲学探究』(生前未刊行)という著作によって代表される。
『論考』を完成させたことで、語り得るもの(思考可能なもの)と語り得ないもの(思考不可能なもの)をきちんと分けるという仕事を終え、哲学の根本問題にケリがついたと考えたヴィトゲンシュタインは、田舎の小学校の先生になっていた。
清水は、その経歴に注目しつつ『哲学探究』のエピグラフがアウグスティヌスによる子供にかんする警句であることを確認することで、ヴィトゲンシュタインの前期から後期への転回の契機に子供という生きものへの刮目があった、と考察した。
「哲学は、プラグマティズムが現れるまでの長い期間、子供というものを忘れて来た。忘れなかった場合は、避けて来た。西洋思想においては、十九世紀の末に至るまで、人間というのは、大人のことであり、男性のことであり、白人のことであった。〔中略〕明らかに、子供は、女性および有色人種とは異なった地位を占めている。なぜなら、女性が男性になることが出来ず、有色人種が白色人種になることが出来ないのに反して、子供は間もなく大人になるから」[1993/198]
哲学の本で《主体》という言葉がでてきたら、健康的でクールな、しばしばブルジョワジーの白人男性のことをイメージしてだいたい間違いない。《主体》は、つわりで苦しんだりしないし、肌の色の差でいわれのない差別を受けたりしないし、一二時間連続労働で肉体を酷使したりしない。
人間存在を論じる高尚な学問のなかに、ある偏見がすべりこんでいることがままある。
《主体》が大人を前提にしていることも同様。大人と違って子供は頭が悪くて、非合理な感情に支配されて泣いたり、怒ったり、だだをこねたりする。動物のように野蛮だ。そんなものを真面目に考えることなんてできない……が、人生とはそこから出発したのだ、と清水は考える。

 

可塑性の希望

プラグマティズムは不完全な人間像を肯定するところから出発する。みんなどこかしら偏っていて歪んでいて欠けている。神さまみたいになれない。特に子供は失敗の宝庫だ。約束は守れないし、我慢という言葉を知らないし、そのくせドタバタと動き回る。あぶないったらありゃしない。あと、おねしょもするし、トイレしたあとのケツの拭き方も知らない。ガッデム!
しかし、あとで振り返ったら死にたくなるような、そんなクソみたいな時間を、白人だって黒人だって、男性だって女性だって、通過しながら大人になる。プラグマティズムの普遍性は、こういった、人間が馬鹿として生まれ落ちるという誕生の条件性に基礎をもっている。
田制佐重はいってみれば、デューイのプラグマティズムから子供が大人(社会人)になる便宜を考え、学校の社会化を訴えていた。対して、清水は田制と同じくデューイを重視するものの、子供がもっている本性的な頭の悪さを、人間の可塑性として高く評価する。
可塑性というのは粘土みたいに、型に応じてある程度は自在に形を変えられる性質のこと。失敗しながら少しずつ上手になる。絵が下手な奴だって練習すればドラえもんくらいは描けるようになるものだ。定められた宿命があるにしても、経験のなかでその中身を変えていくことはできる。いうまでもなく、この期待は習慣を自ら変更し、社会をつくりかえる、『社会的人間論』で提出した仄かな希望と通じ合っている。

 

[引用]
[1992]清水幾太郎「現代アメリカの倫理思想」、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社。
[1993]清水幾太郎『倫理学ノート』、『清水幾太郎著作集』第一三巻、講談社。

 

 

(第23回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年3月20日(水)掲載

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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