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2019.03.12

第3回 なぜ批評家はこれほどまでに『プリパラ』を推すのか

『アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』のための補足資料 / 石岡良治, 高瀬康司

アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』(高瀬康司・編)

「NEXT CREATOR BOOK」は、次世代のクリエイターのための情報をコンパクトに発信する書籍シリーズです。今回は、2019年2月26日発売の『アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』(高瀬康司・編)から、石岡良治さんと高瀬康司氏による対談「不純なアニメのために――「横断するアニメーション」のためのイントロダクション」の未掲載部分を公開いたします。
【お詫び】初版の帯の裏表紙側に『プリパラ』の記載がございますが、編集の最終調整段階で石岡良治氏・高瀬康司氏の対談記事から数セクションを削った際に、『プリパラ』に関する言及箇所もカットされてしまっておりました。近日中に正誤表も公開いたしますが、謹んでお詫び申し上げるとともに、本記事にて当該箇所を掲載いたします。(編)

 

■なぜ批評家はこれほどまでに『プリパラ』を推すのか

石岡 「アニメとポリティカル・コレクトネス」という近年問われる機会の多くなった問題を考察するうえでは、私は森脇真琴監督の『プリパラ』シリーズ(2014-18)が最良の実践の一つと考えています。キャラクターや物語に力があるのは当然としたうえで、『プリパラ』はそうした観点からも魅力を語れる多面的な作品だろうと思うんですね。

高瀬 石岡さんはこれまでも、「日本アニメ100年の歴史は『プリパラ』で結実する」という発言や、「石岡良治死すとも『プリパラ』は残る」という記事を残されてきましたよね。

石岡 ええ、一見大げさな賛辞に響くかもしれませんが(笑)、かなり本気の発言です。
まず近年のフィクション作品では、前世紀と比べ表現面における様々な配慮が前提とされているわけですが――そうした動きに批判的な人が揶揄的に「ポリコレ」と呼ぶ動向のことです――それに対する日本での評価は二極化した膠着状態にあるように見えます。手放しで肯定的に捉えるか、表現を萎縮させる悪しき障害と捉えるか。
そうした極端な二択状況を打開していくには、ディズニー作品の歴史的変容が有効な参照項になると思います。つまり「プリンセス願望」に象徴されるような、過去のディズニー作品を特徴付け、今では保守的かつ差別的とされる要素に対して、近年のディズニー作品は極めて反省的な態度を明確に推し進めていて、いわゆる「ポリコレ」的な要求をクリエイティビティに巧みに変換している。『アナと雪の女王』(2013)や『ズートピア』(2016)は、ディズニーにおける「ポリコレ」表現の一つの達成と言っていいでしょう。
しかしこれらの作品に対しても、拒絶を示す反応が多々生まれていた。

高瀬 確かに「ポリコレ」的メッセージ性に対し、優等生的・道徳的・欺瞞的という声は少なくなかったように思います……そこで『プリパラ』なわけですね。『プリパラ』は「ポリコレ」をメッセージとして称揚しはしない。そこではダイバーシティの理念が単なる当たり前の環境として、自然に存在している。

石岡 そうそう、カオティックな世界観が、そのまま多様性を受け入れるダイバーシティ性に直結しているわけです。
一般にキッズアニメにおいては、特別な子どもが、特殊なデバイスや魔法で大人以上の活躍をする作品が主流であるのに対して、『プリパラ』では「プリパラ=すべての女の子がアイドルになれる空間」という平等原理が貫かれている。しかもそのうえ、「すべての女の子」と言いながら、レオナ・ウェストという「男の娘」までアイドルになれてしまう(笑)。

高瀬 また「女の子」と言いながら、「年齢」も問わない。

石岡 ええ、主人公のお母さんや校長先生までがアイドルとして歌い踊りますからね。

高瀬 「プリパラ」は「加齢」という未だにネガティブに捉えられがちな要素すら包摂している。

石岡 アイドル表象をめぐってしばしば批判を浴びがちな「若さ」への価値付与からも自由なわけです。
あとは「体型」。旧来のアイドル表象が、伝統的なバービー人形やリカちゃん人形のような痩せ型ばかりだったのに対し、『プリパラ』ではその名も「ちゃん子」という力士体型のサブキャラクターにも3DCGモデルが作られ、持ち歌とダンスが披露される。

高瀬 つまり「プリパラ」の下においては、性別、年齢、体型(ルックス)などを問わず、誰もが輝くことができてしまうわけですね。実際、「神チャレンジライブ」のバンクにおける「クローゼットの扉を開けて」というセリフは、聞くたびに強い意図を読み込んでしまいます(笑)。

石岡 完全にLGBTの文脈での「クローゼット」ですよね(笑)。クローゼットの扉を開けることで「神アイドル」になれるのだと。
なお私は、こうした『プリパラ』におけるダイバーシティ性についての補足にもなる論点として、思想家・文芸批評家のミハイル・バフチンがドストエフスキーの小説について語った「ポリフォニー」という比喩が挙げられると思います。

高瀬 というのは?

石岡 小説ではしばしば、作者が特定の登場人物に自分の代弁者としての役割を与えること(モノフォニー)になりがちですが、バフチンはドストエフスキーのそれにおいては、相容れなかったり互いに齟齬をきたすような複数の登場人物が並立する形で、独立した複数の「声」を響かせていると論じています。
しかしアニメでポリフォニーを実現するのは案外難しい。複数グループが登場するアイドルアニメは比較的多元的な世界を描きやすくはありますが、『プリパラ』ではそれに加えて、キッズアニメとしてデフォルメされた世界観の中でギャグやコメディのようなスタイルを取りながら、アイドルというシステムの正負両面を浮かび上がらせている。シリアスに受け止めれば相当いろいろなテーマが読み込める形になっているんですね。
中心的なメッセージは「友情」や「団結」でありつつ、スキルを高めることを求めるがゆえに主人公とは相容れない登場人物(たとえば2ndシーズンの紫京院ひびき)の正当性もきちんと描いたうえで、最終的にはそうした齟齬を無理に解消させないまま共存するという、まさにポリフォニー的な世界としても読むことができるわけです。

 

 

アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門』(高瀬康司・編)

(取材・構成:編集部)