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vol.24:貴族たれ。清水幾太郎・完結篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、第24回目は、デューイからオルテガへ、民主主義と大衆を考える清水幾太郎が見たプラグマティズムの限界とは。

 

心が最後のフロンティア

清水は戦前から、まだまだマイナー哲学の一つでしかなかったプラグマティズムを日本に根づかせようと努力したが、同時にそれが、アメリカという土地に根づいた地政学的産物であることに鈍感ではいられなかった。「運命の岐路に立ちて」という論考で次のように述べている。
「私は一つの仮説を持っている。それぞれの特色を備えた各国の学問、たとえば、ドイツの哲学、アメリカのプラグマティズム、イギリスの経済学、そういうものは、だれかがこの亡命することのできぬ民衆の経験、問題、願望に確実な表現を与えようと努力した末に生まれたのではないか、ということである」[1954/177]
お国柄で得意学問が違うとしたら、アメリカ産のプラグマティズムも直輸入ではなんの役にも立たぬ。とりわけ、アメリカとはそもそもが新大陸。コロンブスによって発見され、以降、フロンティア・スピリットによってずんずん開拓されてきた真新しい土地である(勿論、余所者にとって)。一番乗りが優遇される風土。島国日本とは条件が違う。
ただし、清水はデューイを参照しながら、ある時期以降におけるフロンティア・スピリットの大きな転換点を指摘する。というのも、アメリカの東部海岸に上陸した開拓者たちは前進をつづけ、ついには西海岸までたどり着いて久しい……つまり、物理的フロンティアはもう我が物にしたも同然だからだ。
では、残された最後のフロンティアとは? 答えは、精神。これである。「現代アメリカの倫理思想」によれば、「現代のフロンティアは道徳的のものである。大陸に未開の原野を見出すことは出来ない。併しアメリカ国民の内部には未だ使用されぬ無限の資源がある」[1992a/49]
デューイはこの精神という荒野を、民主主義の可能性として把握しようとする。単なる制度を超えて、各人の生き方のなかに脈づくことが肝要。どっかのヒーローが自分たち助けてくれるのではなく、私たち自身の身近な行為を通じて自らの手で少しづつ世界をよい方向に導くことができる。この担い手をデューイは「コモン・マン」──普通人という意味──と呼び、清水はそこでみなぎっている「哲学の貴族的伝統に対する攻撃の気持」を高く評価する[1992b/85]。これならば日本人だって真似ることができるかもしれない。清水はそう思ったに違いない。

 

でもそれって侵略じゃん?

が、余所者にとって、と註釈しておいた。では、元々そこを住処としてた土着民にとってはどうなのか。それは人の領土を勝手に荒らす侵略の歴史ではないのか。後期の著作『日本よ 国家たれ』では、あれほど礼賛していたフロンティア・スピリットを今度は痛烈に批判している。
「元来、全アメリカは、インディアンの土地である。しかし、白色人種にとっては、有色人種の住む土地は、無人の地に見えるのであろう。彼らの西漸の過程は、西部劇が教えているように、インディアン殺戮の過程であった」[1980/24]
フロンティアはなくなった。さて、お得意の精神の出番である。が、この著作での清水はもはや進歩的なデューイに依拠することなく、さらなるアメリカの物理的侵略、すなわち、ハワイ島の併合、スペインとの戦争、そして中国へと進出していく歴史的事実の方にフォーカスをしぼる。その先には、アジアの強国になっていく日本との対決が予言されていた……。
清水は戦後、平和運動や六〇年安保闘争への参加を経て、運動の限界をさとったのか、一九六六年の『現代思想』刊行あたりを機に、左翼やマルクス主義への疑念を公にする立場へと大きく変節する。一九八〇年刊行の『日本よ 国家たれ』は、平和憲法(九条)の破棄、防衛力の一層の強化、そして核武装の検討を提案する、清水の右傾が極まった著作である。ここにおいて、もはやプラグマは不要といわんばかりに、かつて強調されていた心のフロンティアは姿を消し、領土の奪い合いというリアル・ポリティクスの議論に席を譲る。同時期の『戦後を疑う』では、稀代の悪法、治安維持法ってそんなに悪くなかったんじゃないか……ということを論じる始末。

 

変質するコモン・マン

デューイは民主主義にも直結する、エリートでも貴族でもない教育や政治の担い手を「コモン・マン」と呼んでいた。
清水がデューイから逸れていくようにみえるのは、「コモン・マン」概念によって戦後直後までならば全体主義的体制に抵抗する小さな個人の自由を擁護できたのに対し、戦後の高度経済成長は、彼らの生活のなかにゆとりを生み、余暇を楽しむ半貴族へと変貌させてしまったことに由来していよう。
たとえば、清水は『現代思想』のなかで、労働から解放されたレジャータイムの増大を深刻に受け止めている。働かずに楽したい。しかし、楽ばかりになってしまえば、なにもしなくてもいい時間が自分を蝕み、ついには自分の存在意義を見失って、環境になすがままの、あの全体性が、機械化された現代便利社会というかたちで皮肉にも還ってきてしまうのではないか。「何もしないでよい、何をしてもよい時間に、いかにして我々は堪え得るのか」[1993/278]
民主主義を手放したとしても、清水はかつて渇望していた主体性を諦めたのではなかった。むしろ、個人の主体性を追い求めるがために大衆社会の堕落に警戒せねばならない。
一貫するために変節せねばならぬときがある。『倫理学』の末尾で、オルテガという思想家の言葉を借りてみんなと一緒でのほほんと暮す「大衆」と己の意志の力でまだ見ぬ己へと自己実現していこうと努める「貴族」との対照を語り、後者に希望を見出すのも、おそらくは、かつて「コモン・マン」のなかに全体主義的「作られ」体制に屈しない小さな「作る」能動性を希求したことの延長線上にある。
勿論、うさんくささ全開である。が、プラグマティズムは己の本懐を遂げるためにプラグマティズムそれ自体を放棄することをしばしば命じるのだ。

 

[引用]
[1954]清水幾太郎「運命の岐路に立ちて」、『私の社会観』、角川文庫。
[1980]清水幾太郎『日本よ 国家たれ――核の選択』、文芸春秋。
[1992a]清水幾太郎「現代アメリカの倫理思想」、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社。
[1992b]清水幾太郎「デモクラシーの哲学」、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社。
[1993]清水幾太郎『現代思想』、『清水幾太郎著作集』第一二巻、講談社。

(第24回・了)

月2回更新をしてきた本連載ですが、執筆期間確保のため、いったんお休みをいただきます。
次回更新は6月を予定しています。今後の展開もぜひご期待ください。

貧しい出版者
政治と文学と紙の屑

荒木優太=著

発売日:2017年12月22日

四六版・上製|312 頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1705-1