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vol.26:身上相談に最適。『思想の科学』の周辺B。

日本のプラグマティズム / 荒木優太

気鋭の在野研究者・荒木優太が日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく連載「日本のプラグマティズム」。市井の民たるわれわれのための在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)、いよいよ佳境をむかえつつあります。第26回目は、前回から続いて『思想の科学』の周辺論客としての鶴見和子についてです。

 

革命よりも離婚

鶴見和子はデューイにやや厳しい。とはいえ、和子にとってデューイは単なる批判対象としてあったのではなかった。とりわけ、一九五一年に発表された「プラグマティズムの歴史理論」では、歴史のなかに法則性を見出していくマルクス主義に対して、プラグマティズムには一見歴史的視点がないようにみえるものの、個人に準拠した歴史性ならばある、と両者のいいとこどりを目論んでいるようにみえる。
プラグマティックな歴史観だからこそ、すくいとれるものがある。和子は「身上相談」的論理を例に挙げる。
「一人の女の不幸は、女が幸福になれるような社会、社会変革を前提としなければ、究極的には救われない。しかし、今明日の特定の女の幸福を考えるときに、新しい社会ができるまで待ちなさい、ないしは、それに向って努力しなさい、といってつっぱねることはできない。現在の社会的条件の中で、人間関係についてあたらしい設計をするとか、もののみ方についての習慣をかえてゆくとか、個人的な操作(物質的人間的条件に対する)をとおして、幸福になれるような努力をすることも、可能であろう。歴史における多元的原因論(multiple causation)の考え方をしなければ、解決できない問題が、個人の生活の歴史の中には、多くふくまれている」[1998/68-69]
身上相談をしに来ているのに、回答者から《現在の資本主義の体制が~プロレタリアートによる革命が~》なんて言われても、いや、知らんがな。身上相談というのは、夫と別れましょうとか、有利に離婚するためにはどこそこの弁護士に頼むといいとか、弁護士費用のために一月二万を目標に貯金しましょうとか、そういう具体的なことを聞きにきているのだ。
未来の夢語りばかりなら時間を返せ。革命という解決は、もしかしたら正論で根本的かもしれないが、その正しさは理想のなかで光ってる正しさだ。大上段に構えてしまうと、お高くとまった解決策しか見出せない。餅の絵たくさん描いてなんの腹の足しになるか。

 

断ち切れ、循環小数

プロレタリア文学でよく知られる小林多喜二に「循環小数」という、特に初期作に見られるモチーフがある。循環小数とは、奇数を偶数で割ったときにでてくる、小数点以下の割り切れない数字のこと。同じ数字がずっと並ぶから「循環」。
多喜二は、主婦が毎日している家事もちょうどこの「循環小数」と同じようなものだ、という。飯つくって掃除して風呂焚いて、飯つくって掃除して風呂焚いて、飯つくって……。無限ループだ。が、世直しや政治運動もまたちょうどこの忍耐強さをたよりに推し進めなければならない。「この循環小数を人はいくら迄続けてゆく根気があるであろう。これを一生涯せっせとつゞけ得るものがあったら、その人こそ社会改造家であり得る人である」[1982/32]。三歩進んで二歩下がる。漸進で前進する。全漸前進である。初期多喜二はなかなかいいこというのである。
が、プラグマティズムはその際限なき過程に、有限性の観点を入れる。生活と政治の順接にすかさずツッコミを入れる。生活の循環と政治の循環は全然違うでしょ。社会が悪いのはOK……でもそれが変わるまで待ってたらこっちが死んじゃってるよ。だから、即効的または短期的な処方箋が欲しい。実にまっとうな望みだろう。
大きな歴史はマルクス主義、等身大の時間はプラグマティズム──三隅一成御用達のG・H・ミードによって過去と未来は現在次第という現在主義が唱えられていたことを思い出そう──。得意とするところが違うのだからうまく使い分ければいい。餅は餅屋、絵に描いた餅は餅画家というわけだ。餅画家という職業があるかどうかは知らない。

 

コモン・マンと生活綴方運動

和子がもった、市井の女性たちへの関心は、生活綴方運動の没頭を導いていく。
生活綴方運動とは、戦前の教育勅語的な《みんな同じ主義》への反発から、子供が実際の生活で経験したこと・感じたことを自分の言葉で表現するよううながす作文法で、戦後では国文一太郎という農村教師が記録した『山びこ学校』を契機に復活した。書き手の対象が大人になると慣例で生活記録運動と呼ばれることが多い。
和子はみずから運動の現場に参加し、主に女工や主婦たちの生活の記録に注目した。『エンピツをにぎる主婦』や『ひき裂かれて』などの著作を生んだ。
その動機には、「ジョン・デューイのコモン・マン(普通人)の哲学の影響を強くうけて、生活記録運動に参加した」[1997/10]ということがあった。偉人の歴史でもなければ職業作家の書きものでもないところがポイントだ。「コモン・マン」は清水幾太郎も大いに参照していた概念だった。
ちなみに、生活綴方運動への関心は弟の俊輔にも認められるもので、フライング的にいえば久野収との共著『現代日本の思想』では、そのものズバリ、日本のプラグマティズムとして生活綴方運動が紹介されている。素人による読み書きは、『思想の科学』において、全国のサークル運動を紹介する編集方針と一体になって、雑誌を特徴づける大きな看板となっていった。
ちなみに、読みやすさを配慮した(というパフォーマンスを強調したい)のか、鶴見姉弟はともによく分からないところで漢字を開く──先ほど引用したものだと「もののみ方」とか──。たまにウゼエと思う。端的に読みにくい。

 

[引用]
[1982]小林多喜二「「下女」と「循環小数」」、『小林多喜二全集』第五巻、新日本出版社
[1997]鶴見和子「わたしの仕事」、『鶴見和子曼荼羅』第一巻、藤原書店。
[1998]鶴見和子「プラグマティズムの歴史論」、『鶴見和子曼荼羅』第三巻、藤原書店。

 

(第26回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年7月11日(木)掲載