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vol.29:研究はみんなで。『思想の科学』の周辺E。

日本のプラグマティズム / 荒木優太

気鋭の在野研究者・荒木優太が日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく連載「日本のプラグマティズム」。市井の民たるわれわれのための在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)。第29回目は、桑原武夫が実践した「共同研究」という功績と真価について。
「研究は楽しくてよい」。いやまさにその通り!(9/1発売の荒木さんの新編著『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(明石書店)も楽しみですね)

 

 

民族よりも犬猫大事

桑原武夫は博識だし文章も上手い。が、その割には、こいつ人間のこと分かってんだろうか、というトンチンカンな記述もちらほら見受けられる。例えば次のような文章。
「健康な精神をもつ文学者ならば、小さな問題よりも大きな問題に対するときの方が、より多くのインタレストが発動するはずである。犬猫に対するときと、民族に対するときと、同じインタレストを感じるというのは、不健康者のみである。不健康者がすぐれた文学を生み出すはずはない」[1963/40]
本当にそうだろうか。むしろ抽象的な民族の話なんかよりも、いま自宅で飼っている犬猫や、ペットショップを筆頭にした資本の論理で命を弄ばれる動物たちのほうが明らかに重要である。勿論、民族が重い意味をもつシーンがないわけではない。が、私たちの倫理感の足元にあるはずの「小さな問題」を大きさの大小という理由で捨てておけるのならば、「大きな問題」とされていたものさえやがて世界史的問題──地球温暖化? 世界恐慌? 難民?──によって押しのけられてしまう。が、ある個人にとってゆゆしき問題は、その大きさに拘らず、ゆゆしきものと判断するのが本来のプラグマティズムだったのではないか。しかも、医者でもないくせに健康がどうのこうのと、余計なお世話。
ちなみに、桑原教授のもとで卒業論文の口頭試問を受けた杉本秀太郎は、開口一番、「君の論文、読みました。鉛筆で書かれていようが、字が上手くなかろうが、内容がおもしろければ、そんなことは忘れて読みます。そやけど、君のはおもしろくなかった」[2012/129]と言われたらしい。うるせえバカ、って感じである。

 

共同研究を組織する

ただし、桑原の才能のみせどころは、単著というよりも共著、または他人との共同作業にあった。デューイにとって社会は健康なコミュニケーションによってよりよい方向に進んでいく。思えば『文学入門』でも次のような文言に出会う。
「文学が人間と人間とを結びつける力をもつといわれるのも、このコミュニケイションの作用なのである。〔中略〕作家と読者を結びつけるのみでなく、孤独な文学者のつくった作品に媒介されて、孤独な個々の読者たちが、その孤独を脱して一つの精神の協同体(community)を形成する。文学のもつ、この尊く、美しい職分、コミュニケイションを軽視してはならないのである」[1963/42]
桑原の業績を通読してみて痛感するのは、特に京都に移って以降、彼が多くの共同研究を組織していたということだ。
共同研究というスタイルは理系だとよく見かける、というよりも基本的に共同で行う方が圧倒的多数だが、文系だとあまり聞かないし、ちゃんとした方法も普通は学ばない。図書館に独りこもってなんか黙々と調べているイメージだ。
が、桑原にとって研究とはそのようなものではなかった。一九五〇年代から七〇年代まで、ジャン゠ジャック・ルソー、百科全書派、フランス革命、中江兆民など、フランス文学に関連する研究成果がそれぞれ編著のかたちでまとまっている。学問とはひとり机に向かいながらコツコツ石を積み上げるように勉強する孤独な営みである……などという偏見を分野を仕切る壁もろともぶっ壊す。セクショナリズム・デストロイヤーこそ桑原に認めるべき真の姿だ。
ナルシスティックに孤高の天才ごっこしてるんじゃねえ。みんなでやれ。

 

研究は楽しくてよい

それにしても、狭い意味での専門分野、いわば得意技がてんでばらばらなのに一緒に研究などできるのか? 桑原は二つのアイディアを紹介している。「会読」と「カード・システム」だ[1980/399]
会読とは、一冊の本をみんなで読んでいくこと。たとえば、ルソーに『社会契約論』という近代のデモクラシーの聖典みたいな本があるのだが、参加者はこれの訳稿を事前に用意しておき、みんなでたたき合って決定稿をつくっていく手法が採られた。たたき台たたき隊の結成である。これにより、テクストに関する共通の訓練ができる。
もう一つのカード・システムとは、研究の過程で重要な事実や文章が見つかった場合、それをカードに写して、参加者全員に配り、かつ本部に貯めていく手法。これによって相互の情報の共有がはかられる。
ただし、いくら足並みをそろえたいからといって、最初からイデオロギーを統一しようとしてはいけない、と桑原は注意をうながす。たとえば、フランス革命について賛成か反対か、同じ意見になるまで研究しない……などということを言い出したら、いつまで経っても始まらない。そこはスルーで。つまり、「学問にたいする愛情があるかぎり、その愛情の持ち方はさまざまであってよろしい」[1980/402]
むしろ、配慮せねばならないのは、大学の所属にくっついてくる偉さの序列を徹底的に排除することだ。非常勤講師よりも准教授が、准教授よりも教授が……という大学内ピラミッドを崩す。原則として「一たび共同研究のテーブルにすわったら、そこでは対等でなければならない」[1980/404]。このような思想には、デューイが待望していた、プラグマ的民主主義の理想が、研究者倫理のかたちに翻訳されて活きていよう。桑原の次の言葉は、現代でも多くの研究者たちを激励する。
「たとえば、研究をみな楽しそうにやっているという。これが批判になるのはおかしいのですが、日本の学界には禁欲主義みたいなものがあって、学問とはつらいこととみつけたり、ということでないといけないような空気がありますが、私はいやいややる学問にろくなものなしと考えております」[1980/406]

 

[引用]
[1963]桑原武夫『文学入門』(改版)、岩波新書。
[1980]桑原武夫「人文科学における共同研究――京都大学退官記念講演」、『桑原武夫集』第七巻収、岩波書店。
[2012]杉本秀太郎「「桑原武夫」を語る。」(梅原猛、山田慶児との鼎談)、『潮』一〇月号、潮出版社。

(第29回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年8月22日(木)掲載