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ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評

ためし読み / 藤津亮太

アニメ評論家・藤津亮太さんによる最新刊『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』が8月24日に発売されます。今回はその中から、2016年に大ヒットした映画『この世界の片隅に』評を先行公開します。本日8月15日は終戦記念日。12月20日に公開予定の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を迎える前にも、ぜひご一読ください。

 

 

アニメ史の中の『この世界の片隅に』 

藤津亮太

 

「『この世界の片隅に』劇場アニメ公式ガイドブック」(双葉社)で片渕須直監督に取材をした。そこで片渕監督は映画のポイントを三つ挙げた。

ひとつは、ロケハンや資料で調べ上げた町の風景。もうひとつは、中割りを多く入れた動き。そして、のんのキャスティング。この三つのポイントは、すべてすずという主人公に実在感を与えるために必要なものだったという。

ここで注目したいのは、町の風景を丁寧に描くことがキャラクターの存在感を裏付ける、というアプローチだ。

たとえば『この世界の片隅に』の冒頭では、広島市の中島本通りの様子が描かれる。この昭和八年の歳末セールに賑わう商店街を点描する一連のシーンは、短い尺ながらも、画面に描かれる各店舗は、集めた資料や関係者の意見などを反映して、できうる限りの正確さを目指して描かれている。原作も、さまざまな資料を踏まえて描かれているマンガだが、アニメはその精神を受け継いで、さらに調査を重ねて画面を完成させている。中島本通りのシーンでは、原作にはない大正屋呉服店の手すりですずが休むカットが加えられている。これは、大正屋呉服店の建物が、現在も平和記念公園のレストハウスとして残っていることを踏まえて付け加えられたものだ。

中島本通りは、この十二年後に原爆の爆心地となる、映画冒頭で描かれた風景はそのときに、跡形もなく消え去ってしまう(映画では、そのときに亡くなってしまった人たちの姿も意図的に店先に描いている)。その中で唯一残った建物が、大正屋呉服店なのだ。だから大正屋呉服店は、戦前、戦中、そして現在を貫いて結ぶ特別な場所として映画の中に位置づけられている。

冒頭の中島本通りだけではない。すずの故郷の江波、嫁ぎ先の呉の風景についても、ロケハンと調査を踏まえた描写がなされている。

またスタッフは、作中で描かれる昭和一八年から二〇年にかけて、呉や広島でその日に何が起きたのかをまとめた「この世界日めくり」というファイルを作り、映像作りのベースのひとつとしていた。そこには呉軍港の軍艦の出入りから日々の天気、すずの行動などがまとめて記されている。ちなみに、こうしたリサーチをすればするほど、原作のちょっとした描写もちゃんと根拠がある(たとえばすずがB-29の飛行機雲を見上げるくだり。実際、〝あの日〟にB-29は偵察飛行を行っている)ことも実感できたという。『この世界の片隅に』のアプローチは、ほかの追随をゆるさないほど徹底したものだが、いわゆる〝聖地巡礼〟の対象となる作品などを見てもわかる通り、風景のリアリティをキャラクターの存在感・実在感へと結びつけようとしている作品は少なくない。

日本のアニメはどのようにして、このような傾向を内包するに至ったのか。

高畑勲監督は「年代頃の東映動画が日本のアニメーション映画にもたらしたもの」(大塚康生『作画汗まみれ改訂最新版』所収、文藝春秋)という論考で、ディズニー作品と照らし合わせることで、一九六〇年代の東映動画(現・東映アニメーション)がどのような作品を作り、それが後世にどのような影響を与えたかを検討している。

この考察で興味深いのは、一九六〇年代の東映動画作品が内包し、後の日本アニメの特徴となった要素として、ディズニーのようなファンタジーではなく、むしろリアリスティックな題材を取り上げた点を指摘している点だ。また作劇についても、主人公の葛藤や闘争と、そこへの感情移入を重視し、演出はそれを支えるよう、「作品世界に没入させるために、劇的な構成や表現で現実感実在感を与えることを基本にする」「カメラアングルやショット構成も、リアルな迫力を出す映画的な演出を心がける」などのアプローチをとることが継承されていったと記されている。

実際、東映動画は戦後初のカラー長編『白蛇伝』(一九五八)から始まり、『少年猿飛佐助』(一九五九)、『安寿と厨子王丸』(一九六一)といった、既に実写映画で扱われた題材をアニメ化している。つまり、東映動画はディズニー風のエンターテインメント(歌や踊りを挿入したり、小動物を主人公の側に配置したりする工夫)を意識しつつ、当時の観客の好みが反映された実写映画も参照していたということなのだ。それが、後のアニメにも継承されることになる。

実写映画を意識した演出とは、煎じ詰めると「カメラがそこに置かれていると考えて画面を作る」というところに行き着く。手で描かれた絵を、あたかもカメラという〝機械の目〟を経由したような体をとることで、「客観的な画面」として提示すること。それは自然主義的なアプローチによるリアリズムの導入といえる。しばしば日本のアニメの特徴として、リアリスティックな表現が挙げられるが、その根底にはこの自然主義的演出があるのだ。『この世界の片隅に』の描いた戦前の町並みが自然に受け止められるのも、この自然主義的なリアリズムが当たり前のものとして広く認知されているからだ。なお『ミッキーの書式戦後まんがの戦時下起源』(大塚英志)は、アニメにおけるリアリズムの導入について『桃太郎 海の神兵』(一九四五)を取り上げて検討している。

【※引用】

筆者はこれまでも戦時下における国策のひとつとしてあった科学的啓蒙の重視が、まんがおよびアニメーション表現に一定のリアリズムを導入することで戦後のまんが表現の基礎が形成されたことを示唆してきたが、「文化映画」とはそのような国策を具体的にアニメーションに導入しうる枠組みとして作用したと考える。(大塚英志『ミッキーの書式 戦後まんがの戦時下起源』、角川学芸出版)

【引用終わり】

確かに同作の戦闘機などの表現は、非常にリアル志向で描かれている。その背景に、科学的啓蒙の重視があったという指摘も説得的である。ただ、戦後のアニメの自然主義的リアリズムと本作のリアリズムを直線で結びつけられるかどうかは議論が必要だろう。

そもそも『桃太郎 海の神兵』は一九四五年春に公開され、一九八〇年代にネガが発見されるまでは、長らく幻の作品と呼ばれていた作品だ。当時も見た人は決して多くなく、見返されることもなかった。そのため一九六〇年代の東映動画に直接の影響を与えたとは考えづらい。

たとえ見ていたとしても、当時の東映動画のスタッフに影響を与えた作品としてしばしばフライシャーの『バッタ君町に行く』、ワーノの『せむしのこうま(イワンの仔馬)』、グリモーの『やぶにらみの暴君』などの名前があがっていることを考えると、作品傾向にどこまで影響を与えていたかは慎重になる必要がある。

また監督の瀬尾光世も戦後は絵本作家に転向しているなど、その演出スタイルが受け継がれるような形で戦後のアニメ業界と人脈がクロスしていない、という点もある。

こうして考えると、現在のアニメが自然主義的リアリズムを重視するようになったのは、一九六〇年代の東映動画作品が実写映画を参照していた点にルーツを求めるのが妥当のように思われる。

さて、カメラで捉えたかのような客観性を意識した「自然主義的リアリズム」は、一九七四年の『アルプスの少女ハイジ』で本格的に試みられることになる。

高畑が監督を務めた『アルプスの少女ハイジ』では、宮崎駿が場面設定・画面構成としてクレジットされている。

場面設定とは、実写でいうなら大道具・小道具に相当する役回りで、あるシーンに登場する空間とそこに配置されている小物を設定するポジションだ。これらは現地にロケハンを行いその取材の成果などを反映して描かれた。また画面構成は、実写でいうならカメラマンに相当する役回りだ。絵コンテの演出意図を汲みながら、実際にカメラアングルを決め、小道具の配置などを調整して、レイアウトを完成させる。宮崎は全五十二話全カットにおいて、この役割を全うすることで、『ハイジ』の演出を支えた。

アニメの背景は、しばしば書割になってしまう。それは「背景の上に、キャラクターが描かれたセルを載せて撮影する」というメディアの特性上、どうしても起こりうることだ。もし自然主義的リアリズムに則って作品を作ろうとしたら、書割ではリアリスティックな感触は生まれない。また、書割をいかに写実的に描いても、存在感は生まれてこない。

存在感が生まれるには、背景が描き出している空間の中に、キャラクターが立っているように見えないとそうはならない。

その空間に立つということは、周囲の小道具とキャラクターの演技をする空間がちゃんとせめぎ合っているということだ。それはキャラクターと背景の間に生じるインタラクションの最も基本的な状態だ。

このインタラクションこそが、背景の存在感がキャラクターに付与される理由となる。

一般的に、キャラクターの絵柄は、背景よりもより記号化されていることが多い。にもかかわらず画面にリアリスティックな感触が宿るのもこのインタラクションの効果と思われる。だからこそ、空間感のある背景というものが重要なのだ。

『ハイジ』では現地での取材と資料集めを反映した大道具・小道具と、空間感を意識したレイアウトが、ハイジという少女の存在感を支えたのだ。

背景とキャラクターのインタラクションこそ重要という点では宮崎監督の『となりのトトロ』の冒頭を思い出してもいいだろう。サツキとメイの姉妹は、引越し先の家を訪れると実にいろいろなものに手で触れている。テラスのボロボロになった屋根、バケツと水の重み、手漕ぎポンプ、そしてマックロクロスケが入り込んだ壁の隙間。こうした背景とのインタラクションがあるシーンを通じて、観客はサツキやメイが感じたであろう「手の感触」を想起し、それを通じてキャラクターの実在を感じる。

『この世界の片隅に』でも、(原作にもある通り)すずが雁木で荷物を背負い直したり、大正屋呉服店の手すりにもたれかかって一休みしたりするシーンがあり、決して目立つものではないが似たような効果をあげている。

このような空間感のある背景を利用する自然主義的リアリズムは、じわじわと広がっていったが、本格的に普及するのは一九九三年の『機動警察パトレイバー2 the Movie』以降のこととなる。

同作はレイアウト(画面構成)の段階で演出意図を徹底するというスタイルで制作され、レイアウトを集めて出版した『Methods―押井守「パトレイバー2」演出ノート』(KADOKAWA)は、どうしてそういうレイアウトになっているかを解説しており、さまざまなアニメスタッフがアニメ制作の参考書として活用した。そしてここでも、徹底的に「カメラのレンズ」の効果を意識して、「観客が見慣れた客観的な映像」に擬態することが説かれている。

二〇〇〇年以降に、実在する町を舞台にしたり、作品世界の参考にしたりするケースが増えているが、これはレイアウトの精度があがり、「カメラで捉えた客観的な風景」として描き出す技術が向上したことと無縁ではない(制作環境のデジタル化とデジカメの普及も関係あるだろうが、ひとまずそれはここではおいておく)。

一九八五年に発表された『メガゾーン』は、「現代の東京を描く」がひとつのテーマとなっている作品で、新宿や渋谷などの実在の風景が登場する。ただし、レイアウトの空間感は、現在の水準からするとアバウトで、その分、実景を描いているのにどうしても「客観的な風景」にはなりきれず、若干の書割感は残ってしまっている。このギャップを埋めるのに、十数年の時間が必要だったのだ。

一方、一九八〇年代に入ると、背景にリアリティを付与するのにまた別の手法が登場している。それは現実に存在する商品や商標を(なるべくそのまま)画面に描き出してしまおうというスタイルだ。当時の言葉に従って言うなら、カタログ文化的な手法といえる。たとえば『メガゾーン23』では、マクドナルドや当時のヒット映画『ストリート・オブ・ファイヤー』などがそのまま登場している。こうした手法はそのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する「EBISU」(途中からEBICHU)ビールなどに受け継がれている。『この世界の片隅に』でも冒頭に印象的に、森永製菓広島支社や森永製菓のお菓子が登場している。『この世界の片隅に』がどうして徹底的な調査でもって広島や呉の風景を描かなくてはならなかったのか。それは半世紀の及ぶこのようなアニメ史の積み重ねの中で、極めて必然的なアプローチであったのだ。

なお、『この世界の片隅に』の背景への徹底した取り組みが生んでいる効果は、キャラクターの実在感だけではない。キャラクターの実在感を高めるだけなら、ここまで本物の風景にこだわる必要はない。一定のリアリティさえ担保されていれば十分効果が生まれる。では、本物の風景にこだわることで、どんな効果が生まれるのか。それは、現実と映画の間に回路が開いた感覚をもたらすのだ。

まず映画から現実への回路について。

絵で描かれたものであっても、根拠があればそれは現実へと強く紐付けられる。それはドキュメンタリー的な側面と言ってもよいだろう。

たとえば高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(一九九一)では、紅花から紅を作るまでの工程を意図的に〝記録〟していた。高畑は『平成狸合戦ぽんぽこ』(一九九四)でも、多摩丘陵におけるタヌキの生活の変化を、擬人化したタヌキの姿を使いつつ、〝記録〟しようと試みていた。世界的に見ても『ライアン』(二〇〇四)や『戦場でワルツを』(二〇〇八)といったアニメーション・ドキュメンタリーが制作されている。また、先述の『メガゾーン23』のように、制作時には〝記録〟の意図はなくとも、結果として一九八〇年代半ばの東京の風俗を現在に伝える資料になっている作品もある。『この世界の片隅に』は、すずの行動は架空のものだが、彼女を取り巻く風景や史実にはすべて事実に基づいている。だから画面の情報を辿って、歴史的な事実にアクセスすることができる。正確な意味ではドキュメンタリーとは言いづらいが、当時を再現した〝記録〟としての価値が宿っているのだ。

そして、映画の舞台となった場所に立てば、今度は現実から映画への回路が開く。

作中に描かれた建物は広島の大正屋呉服店のほか呉の下士官兵集会所など現存するものもある。建物でなくても、たとえば呉の山並みや主要な道路の通っている位置は変わらない。つまり、映画で描かれた場所に立てば、すずが見ていた風景を想像できるのである。そのとき、すずの目を通じた太平洋戦争末期の光景が、現実の風景にオーバーラップすることになる。そこには、すずもまた〝召喚〟されてそこに立っている。

日本のアニメは、いかに〝リアル〟を獲得するかをめぐって進化を続けてきた。『この世界の片隅に』はその問題意識を、ストレートに受け継いでいる作品なのだ。

 

初出:「ユリイカ」二〇一六年一一月号、青土社。

『この世界の片隅に』(劇場公開作品) 監督・脚本:片渕須直 監督補:浦谷千恵 キャラクターデザイン・作画監督:松原秀典 原作:こうの史代 制作:MAPPA 劇場公開:二〇一六年

 

(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)
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ぼくらがアニメを見る理由

2010年代アニメ時評
藤津亮太=著
発売日:2019年08月24日
四六判|404頁|定価 2,400円+税|ISBN 978-4-8459-1836-2
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プロフィール
藤津亮太ふじつ・りょうた

1968年生まれ。アニメ評論家。著書に『「アニメ評論家」宣言』(扶桑社)、『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『声優言』(一迅社)、『わたしの声優道』(河出書房新社)がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜日に『アニメの門チャンネル』で生配信を行っている。

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