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vol.30:ゲーム化する社会。『思想の科学』の周辺F。

日本のプラグマティズム / 荒木優太

気鋭の在野研究者・荒木優太が日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく連載「日本のプラグマティズム」。市井の民たるわれわれのための在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)。第30回目は、プラグマから遊び、そしてゲーミフィケーションへと繋がっていく展開に……遊びは大事。でも遊ばれてはいけない。
(荒木さんの新編著『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(明石書店)はもうすぐ9/1発売!)

 

 

幾多郎・幾太郎につづく第三の太郎、見参

さて、桑原武夫が登場したのだから、この人の名前を挙げないわけにはいかない。
フランス文学者として出発しながら、日本の風俗研究や軽妙な日本論を数多く執筆した多田道太郎である──個人的には、元祖・鷲田清一というと一発で理解が進むのだが……もしかして鷲田清一を知らない? ならばスルーで──。
京大の学生だった多田は、京都に移った桑原武夫と鶴見俊輔の人文研が始めようとしていたルソーに関する共同研究に志願し、みごとその才能が評価、院生でありながら他の教授らと肩を並べる研究者として出発した。以降、多田は桑原鶴見両名の歩みに随伴し、『思想の科学』での寄稿や編集にも協力するようになる。頼れる若手ホープだ。
多田の著作の多くは、いわゆる学問的な体系性がないようにみえる。つまり、色々な題材や事象の寄せ集めをときに飛躍とともに自由に結びつけた文章という印象を受ける。一九六二年に刊行されたデビュー作『複製芸術論』はまだしも、七〇年代の日本文化論に関する一連の著作には突飛にも思える発想が爆発している。
根津朝彦によれば、興味深いことに、その背後には一九五〇年代に上山春平から教わったパースのアブダクションの思想があるという。演繹でも帰納でもない、ヒラメキ重視の仮説形成である。「多田がアブダクションを重んじたのは、発想で学問の形が変わりうると考えたから」[2013/121]だそうだ。

 

「突飛」で考える

たとえば、『風俗学』では、いきなり「ここで、でたらめに──というよりも思いつくままに、三つの事物の名をあげてみよう」と言い出し、「かんざし 橋 乗合」という本当に何の関連があるんだか意味不明な名詞が列挙される[1987/30]
文脈などない。本人自らいうように、「話の突飛さに(私の話はすべて唐突、突飛という長所をもっているのだが)誰も呆れて、賛成する方はないかも知れない」[1987/34]。が、どれも自然から切り離された人間による風俗である、という共通項で強引に話を進めていく。それが多田流なのだ。まさにアブダクション。
後段では、自身の風俗学の方法を次のように説明している。
「この風俗、あの現象はたしかに何かを意味している。その意味は、アナロジーでしかつかめないというのが私の考えである。Aのすぐ横にBという現象ないし風俗があるとすれば、AとBとのつながりは何かを考えてゆく。そうしたつながりの連鎖のなかから意味をさぐってゆくという方法である」[1987/108]
注目すべきは、AとBの関係を上から見下ろせる法則のもとで考えるのではなく、具体的なアレやコレやの隣接を積み重ねていく、ということだ。カンのいい読者ならばお気づきの通り、パースの仮説形成(アブダクション)とは、《なんか似てる》の直観力を借りた推論の形式でもあった。「アナロジー」で飛び回る頭の使い方だ。
その意味で、多田の「突飛」、未整理で雑多にもみえる論述は、プラグマ的思考法の正当な輸入だった可能性がある。

 

カイヨワ『遊びと人間』翻訳

もう一つ、多田の仕事で忘れはいけないものがある。ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』の翻訳だ。塚崎幹夫と共訳して一九七一年に講談社から出た。
カイヨワの『遊びと人間』は、ホイジンガという人の『ホモ・ルーデンス』という著作にならぶ遊び研究の古典で、アゴン(競争)・アレア(偶然)・ミミクリー(模倣)・イリンクス(眩暈)の四大要素で古今の遊びを分類した。これに触発されたかのように、多田自身、『遊びと日本人』という日本版遊び論を書いてもいる。
カイヨワが二度目の来日のとき桑原武夫と懇意になり、『遊びと人間』の翻訳を桑原にたくし、たくされた桑原が今度は多田にたくしたというのがことの経緯のようだ。訳者後記によると、多田のもっている『遊びと人間』初版本には「桑原武夫教授にささぐ、この書物における運命を託して」[1971/385]というカイヨワ直筆の献辞が刻まれているらしい。
ただし、『遊びと人間』の翻訳は決して多田が初めて取り組んだのではない。先行者が、というよりもほぼ同時に訳に取り組んでいた並走者がいた。その名もなんと(ここで出てくるのか!)、清水幾太郎その人である。一九七〇年に、霧生和夫との共訳が岩波書店から出ている。
多田訳は、日本初の誉れから一歩遅かったものの、原著の一〇年後に出た増補改訂版に依拠し、しかも日本語版専用の序文までカイヨワにもらっている周到ぶりなので、参照するとすれば圧倒的に多田+塚崎訳、今日では清水の訳業に注意を払う者はいない。

 

ゲーミフィケーションとは

それにしても、プラグマ好きならば遊び人にならなきゃいけないルールでもあるのだろうか。
決してそんなわけでもないだろうが、たとえば、今日でいうゲーミフィケーションは現代的プラグマの潮流の一つとして評価できるかもしれない。ゲーミフィケーション(ゲーム化)とは、ゲーム要素を用いてゲーム以外の社会的活動やサービスへの動機づけを高めようとする思想を指す。
具体的には……そう、女性の諸君はご存知ないことかもしれないが、男性用小便器にはシールが貼ってあることがあって、それは的を目がけて尿を排出するという射的の要素を取り入れることで尿が飛び散ることを防ぐ目的がある。どうだ、男って単純だろ?
ほかにも、政治家が選挙協力を集めるためにウェブ上で貢献度に応じたレベルアップの制度を設けユーザーの応援活動をロールプレイング風のゲームに変える工夫や、環境負荷低減の目的のもとカフェで持参のマイカップをつかった人の数をカウントしておきキリ番になったらコーヒー無料というくじ引き要素を取り入れることなども典型的なゲーミフィケーションだ。
日常のなかの些末だったり面倒に思える行動も遊びの要素を取り入れることで、ある大目的に導くことができる、しかも楽しみながら! この方向性は、使えるものはことごとく使っていくというプラグマの姿勢を連想させるものだ。

 

遊んでいるのか遊ばれているのか

が、プラグマがそうであったように、ゲーミフィケーションにも看過できない問題がある。その名も『ゲーミフィケーション』の著者、井上明人は四つの争点──それは労働者を安く買い叩く技術ではないか? それは制度の固定化を導くのではないか? 等々──を挙げているが、そのなかでも、「技術は使い手を選べない」[2012/223]という前提は重要だ。
つまり、ゲームによって設定される目的が善にかなうものならば支障ないわけだが、反対に、政治的社会的に偏った目的が、端的にいって悪しき目的が設定されていたとしても、人はゲーム楽しさに嬉々としてそれに従ってしまう危険がある。井上はリアルな戦争ゲームが実際の戦闘に貢献してしまう事例を紹介している。
「「これは人を殺すことのために機能してしまっているゲームなのではないのか」と問われ、アメリカ軍の軍人はこう答えている。「はい。そのとおりです。アメリカのために役立っています」」[2012/219]
《役立つ》とはなんのために役立つのか、というソモソモがなければ意味をなさない。そして《役立つ》追求の過程で、そのソモソモが別のものにすげかえられてしまうとき、ゲーミフィケーションもプラグマティズムも確実にあらぬ方向へと暴走する。
多田はカイヨワを引きながら、余暇の増大によって、「俗」の世界から「遊」の世界へと人類が移行していく歴史観を立てているが[1980/27]、いまや、「遊」の要素は「俗」のなかに侵入して、経済活動や政治活動を陰に陽にアシストする──ゲーム実況をYouTubeに流すことで生計を立てる者が現れるなど、いったい誰が予想しただろうか?──。
遊ぶことが仕事になる時代。が、それは同時に自身の遊びたい力を誰かに遊ばれているだけなのかもしれないと常に反省せねばならない、しんどい省察を執拗に求めてくる時代でもある。

 

[引用]
[1971]多田道太郎「訳者後記」、カイヨワ『遊びと人間 増補改訂版』収、多田道太郎+塚崎幹雄訳、講談社。
[1980]多田道太郎『遊びと日本人』、角川文庫。
[1987]多田道太郎『風俗学──路上の思考』、ちくま文庫。
[2012]井上明人『ゲーミフィケーション──〈ゲーム〉がビジネスを変える』、NHK出版。
[2013]根津朝彦「多田道太郎における非・反アカデミズムの視座」、『社会科学』二月号、同志社大学人文科学研究所。

 

(第30回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年9月12日(木)掲載