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vol.33:限界の自我。鶴見俊輔・後篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

気鋭の在野研究者・荒木優太が日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく連載「日本のプラグマティズム」。市井の民たるわれわれのための在野の方法論追求の遥かなる道、長かった本連載もついに残すところあと2回となりました。第33回目は、「読むこと」ではなく「書くこと」としてプラグマティズムをとらえていく、という話から。
(荒木さんの新編著『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(明石書店)は好評発売中!)

 

 

書くことで攻める

鶴見がもっていた生活綴方運動への高い評価は、「煙仲間」の「煙」をたどれる貴重な痕跡として読む必要があるだろう。復習しておけば、生活綴方運動とは自分の生活を反省して書き言葉に忠実に写し出そうとする市井の人々の作文法であった。久野収との共著ではその名も「日本のプラグマティズム」という章題でこれを取り扱っている。
「プラグマティズムというのは、行為(プラグマ)が思想に先んじることを主張する立場であるとするならば、生活綴り方運動は、哲学史上のプラグマティズムよりも、もっと徹底的にプラグマティックな運動の形をもっている」[1956/75]
鶴見はアメリカと日本のプラグマを比較して、前者が「読み方」の方法であったため「防禦的プラグマティズム」になったのに、後者の綴方運動は「書き方」であったため、「攻撃的プラグマティズム」になったという[1956/75-76]
たしかにパースは意味を確定する方法として格率を用いていた。実際に、記号論との連絡もある。パースは記号なるものをイコン・インデックス・シンボルの三つの種類に分けたことで有名だ。
ある記号が先にあってそれを読む……なるほど、読み方の問題といえなくもない。対して、日本の方は書くという能動性がある。記号を産む作業だ。この過程を通じて「書き手のおちいりやすい諸種類のまちがいの反省」[1956/75]が発生する。外国には綴方運動みたいなものものがなかったんだろうか、とも疑問に思えてくるが、しかしこう整理されると、日本もなかなかやるじゃないか、と感心しなくもない。
ちなみに、大衆論で有名な吉本隆明は「「書く」大衆と、大衆それ自体とのげんみつな、そして決定的な相違の意味は、生活記録論やプラグマチズムによってはよくとらえられていない」[1966/161]、つまり、書くってインテリっぽい奴らのやることだから的外してるっしょ(大意)、と述べて鶴見を批判した。でも、大衆ファンの鶴見はそんな憎々しい吉本と喧嘩することもなく、一定の正当性を認める。けなげな奴である。

 

限界系

鶴見は学風を、あてはめ・つぎはぎ・つつみこみの三つに分類した。最後の「つつみこみ」が大きくいってサークル的思想と合致する。
この三分割は実は少し前に発表された「芸術の発展」という論考での三つの芸術タイプと並行している。「純粋芸術」、「大衆芸術」、そして「限界芸術」である[1999/14]
この三つは受容の型によって見定められる。作り手ではなく受け手のほうに重心がある。具体的には、純粋芸術とは専門的な芸術家が専門的な連中によって享受されるタイプのもので、大衆芸術とは専門的な芸術家が企業の力などを借りて非専門的な一般人に訴える芸術だ。残る限界芸術は、ご推察のとおり、非専門的な芸術家が非専門的な人々に受容されるもの。
おそらく、サークルイズムとは限界芸術の学問版と考えていい代物だったはずだ。実際、鶴見は民俗学とともに「限界学問としてのサークル活動」[1999/446]という位置づけをしていたこともある。
限界という語で含意されているのは、そのジャンルに入れていいか外した方がいいもんか、微妙な境界線の上に立つ、というイメージだ。たとえば、民謡、鼻歌、手まり歌などをベートーヴェンやモーツァルトと同じ音楽芸術という括りに入れるのには抵抗があるけれども、かといって音楽なんかじゃないと断言するのも権威主義的でヤな感じ。
または、民芸品(地方のお土産としてよく見るやつ)はときに芸術的に高く評価されることがあるものの、そもそもは無名の職人がハンドメイドでこしらえた、日常の実際的な使用にも耐える食器や遊び道具だったりする。「ここでは美は実用とむすびついて意味をあたえられる」[1999/41]。かつて民芸運動を牽引した人に柳宗悦という作家がいたわけだが、だから鶴見の柳評価は極めて高い。

 

自我のくみかえ

芸術であれ政治であれ学問であれ、鶴見は一人の突出した天才によって世界が変革されるとは考えない。天才を取り上げるときにすら、その周辺に集うザワザワしているものに目を向ける。
それは鶴見にとって自分なるもののなかに、すでにして他者が織り込まれているからなのではないか。サークル活動の場では、「自我のくみかえ」が起こると彼はいう。
「たがいに信頼をおくつきあいの中では、サークルの進行途上で、自我のくみかえがおこる。サークルのメンバーは、はじめに主張したのと正反対のことを後に主張したりするものである。そういう立場の変更は、忘れられているので許されるのではなく、認められた一つの慣行となっている。サークルは、つねに仮の主張として自分の考えをまず人前においてみるという、仮とじの本のような形をもっており、落丁があればそれをなおし、脱落は修正するという用意が、メンバーによってわかちもたれている」[1991/101]
ディベートでは自分の意見とそれを支える論理をしっかり組み立てて、相手を言い負かすことが最大の目的とされる。自説の正当性を証明せねばならない各種学会での発表も似たようなものだ。
ゆるい空気の流れるサークルは、しかしそういったものにならない。ディベート的自己はいわば製本された本のようなものであり、自分のなかにストックしてある言葉同士がかたく縛られているのに対し、サークル的自己は製本以前の「仮とじの本」で、修正可能性に開かれている。順番を換えたり、別の頁と差し替えても差し支えない。言い換えればそれは、独立した自己なるものが確立する以前にあったはずの自他未分割なグレーゾーン(先行する用語ならば「母胎」)に再度身を置き直すことを意味していよう。
安藤丈将が、公的なものだけでなければ私的なものだけでもない、〇だけでもなければ×だけでもない△を許す民主主義的「熟議」の場所として鶴見の集団論を高く評価しているのもこの特徴と深く結ばれている[2015/111]

 

引用文献
[1956]鶴見俊輔『現代日本の思想』(久野収との共著)、岩波新書。
[1966]吉本隆明『自立の思想的拠点』、徳間書店。
[1991]鶴見俊輔「なぜサークルを研究するか」、『鶴見俊輔集』第九巻収、筑摩書房。
[1999]鶴見俊輔『限界芸術論』、ちくま学芸文庫。
[2015]安藤丈将「鶴見俊輔の小集団と民主主義」、『現代思想』一〇月臨時増刊号。

 

(第33回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は連載最終回、2019年10月24日(木)掲載