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vol.34:未来とコミュニティ。鶴見俊輔・完結篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

気鋭の在野研究者・荒木優太が日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく連載「日本のプラグマティズム」。市井の民たるわれわれのための在野の方法論追求の遥かなる道、長かった本連載もついに最終回となりました。第34回目は、これまで3回にわたって見てきた鶴見俊輔の思想と実践の完結編、そして未来の展望は果たして……?!

 

 

時間のなかで変わりうる私

「なぜサークルを研究するか」に先行する論文「戦後日本の思想状況」でも、「サークルという小集団の形態は、変化能力の側面を成長させてゆくに適した集団の形である。サークルのメンバーは、より多くのパースナリティーをもつように、融通性のある人間に育ってゆく」[1975/310]と考察されていたが、これは実は鶴見がパースを論じるときにもう既に確かめられる発想でもあった。『アメリカ哲学』に収められた最初期の論文である「パースの意味」では次のように述べている。
「思索は自己統制と呼ばれるけれども、その自己なるものは、二つの面で拘束を受けている。第一に自己とは単一のものでなく、いくつにも分裂している。各瞬間における自己はその後にくるべき自己に向かって話しかけており、それらの自己に相談を持ちかけているのだ。/第二に、自己は何等かの社会集団(community)に属しており、その集団全体よりも下位にある」[1991/41]
鶴見にとって、ものを考える営みは二重の変数のなかで揺れ動いている。初めに、自分の考え方が時間の経過のなかでいとも簡単に変わってしまうということ。鶴見はこのセンテンスに、ミード的役割論の先駆をパースに認める旨の註をつけている。先生に対する生徒、母に対する息子、妹に対する兄、ある個人はそれぞれの(他者を前にした)状況に応じて違う役割を演じている。変化することを自然としている。
前に述べたように、これは戦前の知識人の転向の問題でもあった。こういった姿勢は、レッドフィールドという人類学者から借りてきた「回想」と「期待」という時間性に関する二つの次元の区別、つまり事が終わったあとに合理化され物語化された時間性(回想)とその当時の有限な情報のなかで未来を夢見た時間性(期待)を区別しつつ、後者を決して切り捨てない鶴見の人物評論にも通底している[2008/359]
谷川嘉浩は、愚かさもふくむ原体験を追体験しようとする期待の次元に、「準拠する経験を、美化せずに想像的にリハーサルすることで、状況を相対化するだけの「幅」を達成することができる」個々人の自律性の根拠を認めている[2018/97]。変わってしまうのは仕方ないけれど、変わること、どれくらい変わったのかを測定することには、決してウヤムヤにされない個人の威信がかかっている。

 

コミュニティのなかで変わり得る私

さて、残ったのが個々人が属すコミュニティの問題だ。
パースは次のように述べた。「実在概念には本質的に一つのコミュニティ、、、、、、という概念が含まれている」[2014/138]。或いはまた「いかなるものであれ実在的なるものの性質は、最終的に完全情報が得られている理想的状態下にある場合に知られるようになるものであり、したがって、実在の何たるかは、コミュニティの究極の決定に依存する」[2014/142]
現時点で知れていることなどたかが知れているし、一人で出来ることにも限界がある。実在(リアリティ)を明らかにするには、一人で黙々と考えて答えを導き出せばそれで足りるのではなく、コミュニティのなかで実在っぽいものに対して絶えずツッコミを入れながら未来に繰り延べしていく方法を採らねばならない。
一人この瞬間、という地点から遠く離れて、みんなで未来を、という姿勢を採用すること。ここにパースが考える科学の方法があり、可謬主義の時間的な共同性がある。鶴見の自我論はこのパースの修正OKな科学観をうまく取り入れている。

 

デカルト嫌い

パースは近代哲学の親玉ことデカルトが割と嫌いだ。彼からすればデカルトは懐疑の力を過信している。疑えば疑うほど真理が見つかると思ってやがる。
なるほど、疑うことは率直に信じる素直馬鹿に比べれば脳みそをちゃんと回転させており、ずっとクールな感じがする。でも、そんな懐疑野郎も、なにはともあれなにかを信じることで、つまりは信念に依拠することで考えることを始める。目の前のこの景色は夢を見ているだけなのかもしれない……オーケー、でもたとえ間違っていたとしても見ていることを信じていることは本当だよね? 疑えば疑うほど頭が良くなるのだとしても、疑うのに必要な最低限の信念がなければ話にならない。間違った話でもともかく話をはじめなければ話にならない。
デカルトは孤独な哲学者だが、パースはもっと群れていることを肯定した。群れ群れである。事実、究極の哲学があるのだとすれば、それは「哲学者たちのコミュニティ、、、、、、を形成することにおいてのみである」[2014/95]と彼はいう。このような言葉が、鶴見のサークル研究や『思想の科学』周辺の種々の実践に通じていったことを読みとるのはたやすい。

 

未来の他者たちがいない

さて、日本にはプラグマティズムが足りない、という鶴見のナンクセからはじまったこの連載も、そろそろひとまずは筆を擱くころにさしかかかってきたようだ。思えば遠くまで来たもんだ。
鶴見は、プラグマのコアに測量の精神を求めた。同じことが決して日本に当てはまらないわけではない。アメリカとの戦争に大敗北した戦後日本はアメリカナイゼーションの一途をたどった。すべては生涯賃金や、IQや、平均寿命や、インパクト値や、フォロワー数で測れる、と私たちはしばしば信憑してしまう。
実際、会社でも大学でも病院でも、組織のなかのあらゆるパフォーマンスが測定され、前年比からの改善要求に脅かされている。ジェリー・Z・ミュラーは『測りすぎ』のなかで、測ることが自己目的化(または、やってますよアピール化)してしまった結果、むしろ非生産性や数値改竄への誘因を高めてしまう逆効果を豊富な例示で示している。日本だって同じようなものだ。
だとするのならば、日本におけるプラグマとは、ちゃんと輸入してこなかったというより輸入したことすら忘れてしまうくらい自然化、馴染んでしまった考え方だったのかもしれない。測ることが当たり前になりすぎて、なにをどれくらい測っているのかを測れなくなってしまったとき、この世界に測れないものがあることを忘れてしまう。未来のコミュニティはその最たるものだ。測り知れないものに身を預ける度量が、勇気がなければ、プラグマティズムは完成しない。いまの自分なんてちっぽけな存在なのだから。
日本には、イマココで充足しない未来と容赦ないツッコミで定説を仮説に変えるコミュニティがない。未来の他者たちがいない。鶴見の実践は、彼らを補充し育成するための悪戦苦闘のようにも思える。
さて、改めて……本当だろうか? この仮説の検証は近い将来に果たされることになるだろう。ウェブ版はここまで。よりアップデートされた間違えてもいい主義は、きっと書くはずの(……大丈夫か?)書籍版へと繰り延べされる。未来の紙面にて君を待つ。

 

引用文献
[1975]鶴見俊輔「戦後日本の思想状況」、『鶴見俊輔著作集』第二巻収、筑摩書房。
[1991]鶴見俊輔『アメリカ哲学』、『鶴見俊輔集』第一巻収、筑摩書房。
[2008]鶴見俊輔『期待と回想──語り下ろし伝』、朝日文庫。
[2014]パース「四つの能力の否定から導かれる諸々の帰結」、『プラグマティズム古典集成──パース、ジェイムズ、デューイ』収、植木豊訳、作品社。
[2018]谷川嘉浩「作文はなぜ知的独立性の問題になるのか──鶴見俊輔、生活綴方、想像力」、『人間・環境学』、京都大学大学院人間・環境学研究科。

 

この連載は今回が最終回です。
長い間ご愛読をありがとうございました。