雨の日は視界も足元も悪くなる。だから外出が億劫となり、旅先だと「あいにくの雨」となる。でも、旅というものは降っても晴れても愉しいはずだ。そうだ、もう雨だからといって、旅を先延ばしにするのはやめよう。これまでは週末や休日の天候を見据えて旅を重ねてきたが、「雨が降ったら旅に出よう」「雨の海を見に行こう」くらいでちょうどいいのかもしれない。日々の仕事に追われるあまり、知らず知らず旅にも「成果や効率」を求めていた――。
本連載では、日本人が行けない島々を紹介した『秘島図鑑』、海の見える無人駅を集めた『海駅図鑑』、日本で現在運航している深夜便をすべて旅した『深夜航路』などの著者である清水浩史さんが、晴れの日では味わえない「心地よい淋しさ」に出会える雨の旅へといざないます。
第1回
短い夏に雨は降る――北海道・稚内市
日本最北の海水浴場へ
夏の盛り、だ。
2019年8月の上旬。羽田を発った飛行機が北海道の稚内空港に近づくと、夏の光に包まれた景色が窓に広がる。宗谷岬周辺に広がる緑の丘陵の先には、真っ青な海(宗谷海峡)が広がっている。
飛行機を降りて空港を出ると、気温は25度ほど。東京とは約10度もの気温差があるため、心地いい。
急ごう。
この夏の悦びに充ちた光景をもっと胸いっぱいに吸い込めばいいのに、なぜか無性に心が急く。空港からバスで30分ほど揺られてJR稚内駅前に出る。さっそく駅の観光案内所で今夜からの宿をそそくさと確保し、駅前にあったレンタカー店に駆け込む。そして、借りた車をすぐに南へと走らせた。
宿の予約も移動手段も何も予約しないままに出かけたので、現地で気が急いてしまったのか。いやいや気楽なひとり旅の私にとっては、それは毎度のことだ。やはり溢れるような夏の盛りだからこそ、不思議と焦りを生む。
そう、北の夏は短い。短い夏の夏らしい光景は、夏の終わりの予感に充ちている。もう夏の終わりが始まっているのではないか、と。しかも天気予報を見ると、明日の天候は何とか持ちこたえるものの、明後日からは崩れる見込み。
「もう今日のような夏には出会えないかもしれない」
と、ついつい落ち着かない気持ちになってしまう。
車を15分ほど走らせると、「坂の下海水浴場」に到着した。
ここは日本最北の海水浴場(公設)だ。
稚内市街から南西に5キロほどと近く、日本海に面している。
到着したのは午後2時過ぎで、砂地の駐車場には車が15台ほど停まっている。全国の多くの海水浴場では駐車料金が課されるが、ここは無料。つまり稚内市公設の海水浴場として、一切利用料を徴収しない大らかな海水浴場だ。
駐車場の脇には、プレハブの更衣室、簡易トイレ、屋外シャワー・洗い場が設置されている。まだ気が急いているようで、そそくさと更衣室で水着に着替える。真夏とはいえ、ここは日本最北の海水浴場。水温は高くないであろうから、上半身には半袖のラッシュガード(海水浴用の肌着のようなもの)を身に着ける。
更衣室を出ると、すぐに砂浜が広がる。
監視員のいるプレハブ小屋からは、小さな音量で音楽が流れ、遊泳可能を示す「青旗」が誇らしげに掲げられている。
これで大丈夫。ようやく気持ちが落ち着いてきた。
急がないと逃げ水のように出会えない――そんな焦燥感からやっと解放された。
そう、もう目の前には光溢れる青い海が、ある。
波の穏やかな海に足を浸すと、思ったよりもぬるい。持参した水温計を浸してみると、24度もある。よし、と躊躇もなくしゃがみ込んで全身を水に浸す。
沖合のブイ(遊泳区域の囲い)まで歩いて行っても、胸が浸かるほどの深さしかない。北の海は荒れることも多いので、ブイが沖合15メートルほどと海水浴場にしては狭く設定されている。遊泳区域は浅瀬のみ、というわけだ(遊泳区域は目測で幅150メートル×奥行15メートルほど)。それでも北の海で安心して泳げるのは、貴重なこと。泳いでは浮かんだりして、水と戯れる。ゴーグルを装着して水中を覗くと、白い砂地に茶色い昆布がゆらりと揺れている。やはりここは寒流が流れ込む北の海だ。
泳ぎ疲れて浜に上がると、黄色い声が響きわたる。この日は平日のため、小さな子どもを連れた母親が多い。子どもはひたすら波と戯れては、砂遊び。小さなサンドキャッスルに満足したら、また海へと駆け出す。
水平線付近にはうっすらと雲がかかっているため、約30キロ沖に浮かぶ利尻岳(利尻島の利尻富士、標高1721メートル)の姿を拝むことはできなかったが、快晴であればここからくっきりと遠望できるという。海水浴場周辺の景色もまぶしい。海に沿って、緑鮮やかな丘陵がどこまでもつづいている。
それにしても、不思議だ。
ただ水に浸かるだけなのに、どうして海に入るとこんなにも充ち足りた気分になるのだろう。先ほどまでの焦燥感は、嘘のように消えてしまっている。
イギリスの作家、ロジャー・ディーキンの『イギリスを泳ぎまくる』という本がある。
著者は四季や天候を問わず英国のあらゆる水たまりを求めて、ひとりで旅をした。川、湖、池、泉、プール、水浴場、そして海、と。たとえ悪天候であっても、水温が15度(!)を下回ってもだ。そんな著者は、水に浸かる効能を次のように述べている。
泳いでいるときの物の見方、感じ方は独特だ。水中では人は自然のなかにいる。地上にいるときよりずっと強固に自然の一部、要素として組み込まれるので、自己の存在を強く実感できる。自然のなかで泳げば、周囲の動物と同条件に身を置くことになる。(中略)
自然の水には古来、癒しの力が潜む。水の自己再生力はなぜか泳ぐ者にも伝わり、水に飛び込む前は暗い顔でふさぎ込んでいた僕が、水から上がれば上機嫌で口笛を吹く。重力から逃れ、裸という絶対的解放を手に入れることで、自由と野生が目を覚まし、自然との一体感が増してゆく。(『イギリスを泳ぎまくる』青木玲訳)
このように、自然の水に浸かるという行為は、野生感覚ともいえる、日ごろ眠っている感覚を呼び覚ます行為なのだろう。水に浸かることは、陸や山とは違って「ほぼ裸」で身体を晒すということを意味する。それゆえに自然に包まれれていることをひときわ感じやすい。そうして身体の感覚が研ぎ澄まされるからこそ、生きていること(自己の存在)を実感できる。きっと、それが充足感の正体なのだろう。
坂の下海水浴場には海の家はなく、自動販売機といった類もない。ごくごくシンプルな海水浴場ではあるものの、オープンしたのは1973年と長い歴史を刻んでいる。
稚内の平均最高気温は8月でも20度を少し上回る程度で、25度を上回ることは滅多にない。この日(8月5日)は気温が25度だったので、貴重な海水浴日和だった。水温も24度あったものの、例年は20度程度というから、やはり最北の海水浴場だ。
いちばん特徴的なことは、開設期間の短さ。2019年の場合は、7月14日から8月11日まで。お盆の前には、もう閉鎖されてしまう。例年お盆の時期からは最高気温が20度を下回ることも多くなるため、どうしても開設期間は短くなる。
また期間の短さだけではなく天候のことも考えると、開設期間中でも海水浴を愉しめるのは限られた日数になってしまう(実際、今夏の旅を終えてから気象庁の稚内天気データを振り返って調べてみると、7月14日から8月11日までの開設期間中に晴れ間があった日は、たった13日間。一時も曇らなかった晴天の日は、私が訪れた8月5日を含めてわずか3日間だけだった)。
そのことを考えると、坂の下海水浴場における「夏の青さ」というのは、現れたかと思うと幻のように消えてしまう。そんな陽炎のようなビーチだ。
しかし「だから北の海は海水浴には適さない」ということでは、決してない。
束の間だからこそ、短い夏、貴重な晴れ間の愛おしさはいっそう増す。短ければ短いほど、濃く立ち上ってくる夏がある。浜にいる誰もが、短い一夏を大切に噛みしめる。
雨のはじまり
そんな晴天の海を満喫した翌日は、晴時々薄曇。
この日も車で坂の下海水浴場に立ち寄ってみると、昨日よりは少しだけ曇って風が吹いていたものの、昨日と同様に多くの人が海水浴を愉しんでいた。
その光景に安堵する。まだ夏は終わっていない、と。
そのことを確認して、この日は海には浸からず、宗谷岬周辺にまで足をのばして別の景色を堪能した。
そのまた翌日の8月7日。
やはり、崩れてしまった。
天候は「雨時々曇一時霧雨」。週間天気予報を調べると、晴れ間は昨日までだったようで、この日以降は曇か一時雨の予報がずらりと並ぶ。もしかすると、もう晴れ間が現れることなく、今年の海水浴期間(~8月11日)は終わってしまうのかもしれない。
もう夏は終わってしまうのか――。
この日(8月7日)は昼前に、坂の下海水浴場を訪れた。
気温は20度とやや肌寒く、どんよりとした雲が覆う。ぱらぱらと小雨が降ったり止んだり。それでも、海水浴場には今日も遊泳可能を示す「青旗」が掲げられていた。
しかし、浜辺の光景は一変していた。
輝いていた海も空も色を失ってしまったかのように、灰色でのっぺりとしている。
そして、海にも浜辺にも誰もいない。
静かな浜辺に、海水浴場の音楽が所在なさげに流れている。
誰もいない海水浴場は、少し淋し気に映る。
小雨交じりの曇天ではあるものの、海況を観察すると風も波もなく穏やか。水温計を浸すと、水温は21度。気温(20度)よりも水温の方が1度高いことになる。
どうしたものか……。
誰もいない寒々とした海にひとりで入るには、ほんの少し勇気がいる。
えいっと気持ちを奮い立たせて、水着に着替える。念のため、監視員のいるプレハブ小屋を覗いて「(海に誰もいませんけど)ひとり入りますね」と声をかけた。そして気合を入れて、ちゃぷりと足を水に浸す。
ああ。いけない。
やはり、冷たい。
一昨日とは水温に3度の差があるうえ、天候も小雨交じりなので、いっそう冷たく感じてしまう。足先、ひざ、と少しずつ浸かるものの、腰あたりの深さで立ち止まってしまう。なんとか少し時間をかけて腹、そして最後の関門、胸・肩まで浸かる。
このスリリングな感じは懐かしい。小学校時代の水泳授業を思い出す。逃げ出したくなるような冷たいシャワー、悲鳴を上げながら嫌々冷たい屋外プールに浸かった記憶……。
でも、いったん肩まで水に浸かってしまえば、もう一安心。徐々に水温が心地よく感じられるほど身体が順応していく。
そうして、誰もいない海をひとしきり泳ぐ。
小雨交じりの海をひとりで泳いでいると、身体中に静かな悦びが充ちてくる。
愉快だ。
ただ理由もなく愉快だ。
全身が冷たい水に包まれ、頭上からは、ぽつぽつと小雨が降ってくる。
のっぺりとした海面に雨の波紋が現れては、消えていく。
雨音だけが静かに響く海に、親密の情がわいてくる。誰もいない静けさのせいか、晴天の日以上に自然に包まれている感覚を覚える。
泳ぎを止めて上半身を海面上に晒していると、寒い。気温よりも水温の方が少し高いので、水に慣れてしまえば全身を水に浸していた方が温かい。風呂のように、すぐに腰を落としてちゃぷりと肩まで海に浸かる。
今度はゴーグルを装着して水中を観察してみる。砂地の浅瀬は、澄んでいる。一昨日よりも穏やかな海況かつ誰も泳いでいないため、浅瀬の砂が巻き上げられず、水の濁りが生じていない。海底の白い砂地には波の跡が刻まれていて、ゆるやかな曲線を帯びた縞模様が広がっている。
しばらく水中を観察していると、魚が近寄ってくる。
おそらく10センチ大のウグイ(現地ではユゴイと呼ばれる)の群れだろう。気づけば自分の周りを取り囲んで、ぐるぐるとゆっくり回遊している。魚は真ん丸な眼を興味深そうにこちらに向けてくれる。私が少し泳いで移動すると、しばらくすると群れも追いかけてきて、またぐるりと取り囲む。なんだか人なつっこい魚だ。
私が浅瀬の砂を巻き上げるので、エサを探しに寄ってくるのだろうか。それとも寄る辺のない小魚が流木に集まってくるように、近寄ってきてくれるのだろうか。いずれにせよ、雨の日の孤独なおじさんに寄り添ってくれるなんて、心優しい生き物だ。
海の「不審者」
1時間ほどで身体が冷えてきたので、海から上がる。
ちょうど正午の時間帯となったものの、やはり海水浴客は誰もいない。これから少々辛いのは、着替えだ。屋外にあるシャワーは、もちろん冷水。晴天の一昨日は、何よりこのシャワーが心地よかったが、今日は気温が下がったうえに陽射しもない。
シャワーのレバーをひねると、勢いよく冷たい水が降ってくる。思わずへっぴり腰になる。お尻を突き出すようにして、下半身にしか水を浴びせられない。時間をかけて水に慣れたところで、思い切って頭からシャワーを浴びる。上半身に着ていたラッシュガードを脱いだら、もう濡れたままの水着姿で駐車場に停めた車に乗り込もう。誰もいないので、更衣室を使わなくても、車の中でささっと着替えたほうが早いし、寒くないだろう、と。
そうして車に乗り込もうとしたタイミングに、運悪くも乗用車が1台、するすると脇に近づいてきて停まった。
そそくさと2人の男性が降りてきて、足早に近づいてくる。小雨が降っているので、私はシャワーのあとは身体も拭かず、上半身は裸でびしょびしょの状態だ。
「すみません、海に、入られていたんですか」と訊いてくる。
そして、「海上保安庁の者ですが」と。
なるほど。
中年男がひとりで小雨の中、海に浸かっていたのが「不審者」に映ったと見える。
「どこから来ました?」「ずっと水の中を眺めてましたけど、何かいましたか」などと、今すぐ着替えたいのに矢継ぎ早に質問してくる。海上保安庁の職員ということは、稚内海上保安部であろうから、沿岸の見回りを担当しているのだろう。密漁者や不審者はいないかと。実際、2018年の11月には、坂の下海水浴場付近に北朝鮮の漁船と思われる無人の木造船が漂着したこともあるので(『朝日新聞』北海道本社、2018年11月16日朝刊参照)、沿岸の監視は重要な役割であることは理解できる。
しかし私は、愚直な役人が好きではない。職務に忠実なことは大切だが、忠実すぎて一般人にやたらと疑いの目を向けるようでは、クレバーとはいい難い。職務に忠実であることが至上命題となって、健全な一般人の時間を不用意に奪ってしまうとなると、役人は単なる懐疑的なヒマ人だ。
街中で警察の職務質問を受けた際のように、ついつい苛立ってしまう。しかも繰り出される質問を聞いていると、遠く離れた位置から(気づかれないように)長らく私の行動を監視していたことが窺い知れる。そうして、ちょうど海から上がったタイミングを見計らって私に近づいてきたわけだ。私が車に乗り込んでしまう直前に声をかけてきたのは、海で違法となる魚介藻類を採取していないかも、その場で手元などを見て確認したかったのだろう。警察でいうと「不審者」をマークしつつ、しかるべきタイミングに声をかけて、何かあった際は「現行犯」と同じ行動だ。
私は東京から遊びに来ていること、雨でも海は愉しいことなどを手短に伝えて、「ごくろうさまです、では」と、こちらからやんわり切り上げた。
まったく、愉快ではない。
海上保安庁の2人は職務に忠実すぎて、他者への配慮が足りない。何者かを探ることばかりで、「相手が上半身裸で、びしょ濡れで寒い」という気遣いがすっかり抜け落ちている。
やっと車に乗り込み、全身を拭いてそそくさと着替える。
駐車場を去った海上保安庁の車を横目で追うと、少し遠くの茂みで車を停車させた。
やれやれ。疑り深い連中だ。私と別れたあとも、念のため離れた位置から監視しているのだろう。ただし、海水浴場という公共の敷地内から早々出て行ったことだけは評価できる。海水浴場は(誰もいないとはいえ)あらゆる人々に開かれた、愉しむための場所だからだ。そうして海上保安庁は遠くで車をしばらく停車させたのち、やがて去っていった。
それにしても、と思う。
冷たい水に浸かって全身が悦びで充たされたというのに、傍から見ると私は単なる「不審者」なのか、と。
先に引用した『イギリスを泳ぎまくる』の著者も、寒い悪天候でも海などに入るため、時に嫌な目にも遭っている。役人に呼び止められたり、遊泳禁止の立て看板に苛立ったりと。それでも著者が泳ぎつづけるのは、信念があるからだ。やりたいことを自由にやり通すという信念、システム化された「生きにくい時代」に風穴を開けるという信念だ。
僕らの大半が生活する世界は、看板や標識、公式見解でしだいに埋め尽くされてゆく。現実が仮想現実に置き換えられる。歩いたり、自転車に乗ったり、泳いだりすることが、破壊活動のようにみなされるのは、これらが常識を破り、公式見解を無視し、この国〔イギリス〕に残る野生を復活させようとするからだ。(同前)
残念ながら、日本も同じだろう。「看板や標識、公式見解」によって、下手をすると私たちはいとも簡単に管理されて自由を狭められてしまう。「危険」「立入禁止」「部外者お断り」などと。そうして「決まり事」「危険回避」といった大義名分によって、知らず知らず管理されやすい人間に飼いならされてしまう。もっというなら、生産性のないことなどせず、やれ働け、もっとお金を稼げ、どんどん消費しろだの、国家や組織に都合のいいように操られてしまう。
国家や組織はともかく、やはり個人にとって大切なことは「自由に生きる悦び」までをも売り渡してしまわないことだろう。ついつい世間の目を気にして委縮してしまうと、人生の愉しみまでをも奪われかねない。
そう、「不審者上等」くらいで、ちょうどいいのかもしれない。
着替えを終え、監視員のいるプレハブ小屋を覗いて声をかける。今回の旅でこの海水浴場を訪れるのは、今日が最後。愉しかった旨、感謝の念を伝えるべく、少し立ち話をする。
監視員は近くに住む中高年の夫婦だった。毎年この時期だけは、監視員の仕事をしているという。この日、海水浴客が誰もいないことについては、「まあ肌寒いと、こんなもんだよ」「今日はずっとこんな感じ(誰も来ない)かもね」と。
監視員は毎日「管理日誌」を記しているので、少し見せてもらった。
(一昨日の)8月5日(月)、来場者96人(うち遊泳者数59人)
(昨日の)8月6日(火)、来場者67人(うち遊泳者数23人)
となっている。坂の下海水浴場は「週末の晴天の日で来場者は多くて100人くらい」とのことだったので、私が一昨日泳いだ8月5日は、平日ながらも晴天だったので「大いに賑わった日」だ。
やはり海水浴場は天候次第。翌日の6日は、晴れたものの時々薄曇りで、少し風もあった。だから来場者も少し減ったのだろう。そうして本日(8月7日)のように、晴れ間は一切なく小雨交じりの曇天となってしまうと、来場者はぱたりといなくなってしまう。
これまでの来場者の傾向を伺うと、大半は稚内市に住む人の利用で、遠方や観光客による利用はほとんどない、とのこと。自家用車での来場が大半で、たまに学生同士なら市内からがんばって自転車で来る人もいるそうだ(実際に一昨日、駐車場には2台の自転車が停まっていた)。
今回の旅では、私はレンタカーを用いたが、よくよく調べてみると稚内市内を走る路線バス(宗谷バス)を使って、坂の下海水浴場を訪ねることも可能だった。バスは1時間に1本程度は運行されている。何かと便利なJR稚内駅前から路線バスに乗車して「坂の下停留所」で降りれば、海水浴場までは200メートルほどの距離しかない。それでも監視員は「(今では)バスでわざわざ来る人は、まずいないと思うけどね」とのこと。
昼過ぎ、結局私以外の海水浴客を見届けることなく、海水浴場をあとにした。
晴れの日も、誰もいない雨の日も愉しい、坂の下海水浴場。
ここでふと北欧で広く浸透している、ことわざを思い出した。
昨年と一昨年、私は連続してフィンランドに関する本の編集仕事に携わっていたので、唐突ながら北欧の格言が降りてきた。
それは「悪い天気なんて存在しない。ふさわしい服装を準備すればいいだけのことだ」といった言葉だ。北欧諸国では「悪天候だから外出を控えて家にいる」とは、あまり考えないようだ。とくに親は、雨の日も雪の日も子どもを年中外で遊ばせるという。それによって、小さなころから「悪天候に対する耐性」がつくられるという。それは(季節や天候を問わず)自然と触れ合うスキルを育むと同時に、心身の健康を育むことをも意味する。そうして育った北欧の人たちは、森や湖、海といった自然に触れる時間を生涯にわたって慈しむ。たとえ、悪天候の日であっても。
そのことを考えると、どうだろう。
やはり、雨の日であっても外に出かけたい。旅に出たい。
そして、雨の日の海へ、行こう。
(次回に続く)