『ストーリー』をめぐって 「物語創作のバイブル」を読む | かみのたね
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2019.12.10

『ストーリー』をめぐって
「物語創作のバイブル」を読む

/ 佐藤善木

第一章「ストーリーとは何か」
その1  ストーリーとは生きるための素養である

 

本の表題に掲げられているとおり、マッキー氏は「ストーリー=物語」というものを、映画作りの最も重要な要素としてとらえています。

「すぐれたストーリーはすぐれた映画になる可能性があるが、ひどいストーリーからはひどい映画がほぼまちがいなく生まれる。この基本がわかっていない査読者は解雇されても仕方がない」(P30)

勿論シド・フィールドだって、ストーリーという要素を最重視していたので、その点においては変わるところはないのですが。

大きく違っているのはマッキー氏が、「何故我々がストーリーを求めるのか」「(そもそも)ストーリーとは何か」という本質論を語っている点です。

マッキー氏はまず「ストーリーとは生きるための素養である」という、批評家ケネス・バークの言葉を引用します。古来人間が多くの物語を紡いできたのは、「(自分以外の他者の)さまざまな生き方のパターンをきわめて個人的、感情的な体験として味わい、そこから人生の知恵を学びたい」と強く感じているからだと語り、それは今日の映画においても変わらないと言います。

勿論、人生の知恵を学ぶという点においては様々な学問もありますが、それらのものが理性に訴えるのに対し、ストーリーは見る者の感情を強く揺さぶる点、伝わりやすさがあると、マッキー氏は語ります。

その一方でマッキー氏は、ストーリーとは単に感情に訴えるだけのものではない、ということも指摘しています。何故ならそこには「意味づけ」という、理性的な要素が加えられているからだと。

「すぐれたストーリーは人生からは得られないものを与えてくれる。それは、意味のある感情体験である。人生において、経験が意味を持つのは、後日振り返ったときである。芸術では、経験した瞬間に意味を持つ」(P138)

たとえば実人生で、失恋や死別などの経験をしたとして、その経験にどんな意味があるか、その場でわかる人はいないでしょう。それは時を経たのちになって、初めて見えてくるものなのです。

しかしストーリーとは、人の経験と、その意味づけを、一つの作品の中で、同時に描くものなのですね(愛する男性との別れの経験。その後様々なことを経て、彼との別離にも、何かの意味があったと思えるようになる、までを一連で描く)。

「人生が感情から意味を切り離すものであるのに対して、芸術はその二つを結びつける。ストーリーは、こうした神秘の瞬間を意のままに作り出すことができる」(P138)

いわば経験とその意味づけ、感情的なものと理性的なものを融合させたものがストーリーであり、だからそこには映画の芸術性が凝縮しているのだと、マッキー氏は言うわけです。(逆に言うと、ただただ感情が羅列されるだけのストーリーでは、駄目だということですが…)。

 

その2 ストーリーと人物描写は一体である

 

あらゆる劇作において「ストーリーと登場人物の描写と、どちらが重要か」という論争があるのですが、マッキー氏はこれを「空疎な議論だ」として斥けています。

「構成と登場人物のどちらが重要かという問いには意味がない。というのも、構成が登場人物を形作り、登場人物が構成を形作るからだ。このふたつは等しいものであり、どちらが重要ということはない。それでも、いまだに議論がやまないのは、作中人物のふたつの重要な側面―実像と性格描写のちがい―について、広く混同が見られるからだ」(P125)

マッキー氏は、その人間の持つ表面的な性格(の描写)の下に隠された真の姿――実像――を明かしていくのが、本当の人物描写だと言うのです。そのためには、その人物を追いつめていく必要があると、氏は語ります。

「人間の実像は、緊迫した状況でおこなう数々の選択によって明らかとなる―重圧がかかるほど、深い部分が明らかになり、おこなう選択はその人物の本質に迫るものとなる」(P126)

たとえば人々から尊敬を受ける、温厚で紳士的な大学教授がいたとして。その彼が、ハイウェイでスクールバスが炎上しているのを見たら? その時彼は、勇敢な行動が取れるだろうか? あるいは彼が、妻から突然離婚を宣告されたら? 突然教授職を解任されたら? その時彼は温厚でいられるか? さらに教室に突然ゾンビが現われたら? 彼は、学生を置いて逃げ出さずにいられるか?

というように、ある出来事を起こし、緊迫した状況を与えることによって、その人物の本性を浮かび上がらせていくのが、真の人物描写だと言うわけです。従って「ストーリーと人物描写は一体だ」ということになるわけです。

 

その3 ストーリーとは性格や価値観の変化である

 

勿論、登場人物の本性が明かされたらそこで終わり、ということではありません。脇役ならそれもありですが、主人公の場合は、醜い本性が露になったとしても、そこで立ち止まらずに、改善に動き出すはずです(メロスが挫けても、再び走り出すように)。それこそが「ストーリーの形成」となるのです。

ここで大事なことは、ストーリーと人物描写との連動性を忘れないことだと、マッキー氏は指摘します。

「すぐれた作品では、登場人物の実像が明らかにされるだけでなく、物語が進むに連れて、よい方向であれ悪い方向であれ、内面の性質が変化していく」(P129)

出来事を良い方向に進めるうち、彼の内面も良い性質に変化していく(あるいは、彼の内面が変化したことで、出来事が良い方向に進んでいく)。その逆に、出来事の負の連鎖が、彼の内面を歪めていく…といったようにです。

前者で云えば、仕事第一で家庭を顧みなかった男が、妻に去られ、家事と育児に対処するうち、新しい価値観に目覚めていく『クレイマー、クレイマー』。

後者で云えば『ジョーカー』。名作と呼ばれる作品では確かに、ストーリーと共に、主人公の性格や価値観自体の変化が描かれているのです。

「ストーリー主義」というと、やたら「派手な事件、イベントを起こすこと」だと誤解されがちですが、本当のストーリー主義とは、こういうことを云うんでしょう。

マッキー氏は「ストーリーの冒頭における主人公の人生の価値と、結末における価値とを比べたとき、最初の状況から最後の状況へと大きな弧が描かれている必要がある」(P57)と言い、これを映画の弧=「アーク」と呼んでいます(後に詳しく述べますが、このアークに基づくプロットこそが、古典的で王道的なストーリー設計ということになります)。

以前僕は、押井守監督から『あしたのジョー』を例に、「ストーリーとドラマは別だ」という話を聞かされたことがあります。

「少年院の不良少年がボクシングを学び、ライバルとの戦いを経て世界王者に挑戦するというのは『ストーリー』。その過程で、彼が高貴なる内面性を獲得していく様が『ドラマ』である」と。

今にして思えば、この話はマッキー氏の話と共通していますね。

世界王者に挑戦する物語は数あれど、「俺ァボクシングなんざどうだっていいんだ。拳キチ親父をだまくらかして、その日暮らしの銭を掠め取れればな」とうそぶいていた不良少年が、「頼むよおっちゃん。俺はまだ、真っ白に燃え尽きちゃいないんだ…」と語るまで内面性が変貌していく作品はないし、それこそが『あしたのジョー』の魅力ですしね(余談ですが)。

 

その4 ストーリーで最も重要なのは「葛藤」の表現

 

マッキー氏は「ストーリーにおいては、葛藤なしには何も進まない」(P255)と語り、それこそが最も重要な要素であると指摘しています。

それには二つの理由があるそうですが、一つめは比較的単純で、観客の興味をひきつけるためです。

「思考と感情が葛藤に引きつけられているかぎり、観客は時間を気にせずにストーリーを旅することができる」(P255)

登場人物の身に切実な葛藤が起きれば、観客は我を忘れてストーリーに没入していく、というのは当たり前の話ですが、真理でもあるでしょう。

これについてマッキー氏は、面白い例を出しています。

「ラブストーリーを書くときにいちばんの問題となるのは『ふたりを邪魔するものは何か』ということだ(中略)。ふたりの人間が出会い、恋に落ち、結婚して家庭を持ち、死がふたりを分かつまで支え合う……これ以上退屈な話があるだろうか」(P119)。

要するにラブストーリーといっても、その実態は「邪魔者との対立、葛藤の物語」だろうと、マッキー氏は看破しているわけです。古典作品ならば「娘の両親」「三角関係」、現代の作品であれば「難病」「文化の違い」、それに「死別」(『ゴースト/ニューヨークの幻』)。葛藤や障害を乗り越えて得られる「愛」でなければ、観客は満足するはずはないと、言うわけですね。

二つめはもっと次元の高い話で、表現の本質論であり、人生論でもある指摘です。少し難しいですが、引用してみます。

「ストーリーは人生の隠喩であり、生きるとは、永久につづくかに見える対立や葛藤と付き合いつづけることだ。ジャン=ポール・サルトルが述べたとおり、現実の本質は欠乏であり、時空を問わず不足が解消されることはない。この世界にじゅうぶんと呼べるものなど何もない。食料も、愛情も、正義も、そして時間も、満ち足りてはいない」(P255)

サルトルの話は、この世界にはそうしたものが(物量的に)足りていない、という指摘ではなくて、「人間は常に自分の足りないものを追い求める存在なので、いつまでたっても欠乏(感)が解消されることはない」という意味にとるべきと思います。

食料が足りない時は食料を求め、それが満たされれば愛情の不足を嘆き、それが満たされたとしても、今度は人生の寿命の短さを嘆く…というようにです。

従って葛藤は人間にとって不可避であり、そこから目を背けて良い作品を作ることはできないと、マッキー氏は言うわけです。

「人生とは、愛や自尊心を見つけられるか、内面の混沌に平穏をもたらせるか、あるいは、巨大な社会に偏在する不平等や去り行く時間についての究極の問いを投げかけることだ。人生は葛藤に満ちている。それが本来の姿だ。脚本家は、その苦闘をどこでどのように配置するかを決めなくてはならない」(P257)

序章で紹介した、映画『アダプテーション』のセリフは、マッキー氏のこうした思想から取られているのでしょう。

人の現実が一見、淡々と見えていたとしても、その奥には常に葛藤が潜んでいる。それに気づかず、抉り出そうともしない輩には、脚本を書く資格がないと、マッキー氏は思っているのでしょうね。

ただマッキー氏は、葛藤には社会的な葛藤から、恋人など対人関係にまつわる葛藤、「生きる意味を問う」などの内的な葛藤まで、様々なレベルがあり、そのいずれにも優劣がないことも、指摘しています。

つまり、必ずしも「劇的な大きな葛藤を起こせ」という意味ではないことは、留意しておく必要はあると思います。

 

その5 ストーリーは観客との戦いか

 

これは少し余談になりますが、マッキー氏の観客論が独特なので、紹介しておきましょう。

マッキー氏はストーリーを設計する時、観客という要素は大変な重みを持つと語っています。

「観客は驚くほど感受性が豊かであるだけでなく、照明の落とされた映画館や劇場に腰を据えるや、IQが25も跳ねあがる。映画を観ていると、スクリーンに映っている物事をじれったく感じることはないだろうか。あるいは、登場人物が実際に動くよりも先に何をするか予想がついたり、かなり前に結末がわかったりしないだろうか。観客はただ頭がよいどころか、ほとんどの映画よりも賢明だ」(P17)

IQが25も跳ねあがる、という表現が言い得て妙ですよね。映画にノッてくると、その分頭も冴えて、どんどん先が読めるようになるというのは、経験上も納得できます。

そう言われて気づいたことがあります。

実際のところ映画やドラマの魅力は、ストーリーが全てというわけではありません。セリフの魅力もあり、映像の魅力も、アクションの魅力もあります。

しかしながら、我々が作品を見ながら想像するのは、多くはストーリーに関することなんですね。「この人は今、どんな感情だろう」と画面を見ながら想像し、そこから「この人はこれからどうするだろう」とか「この先の展開はこうなるだろう」と予想するのが普通で、「この次はこんな映像が来るだろう」とか予想することは、基本的にありません。描かれた映像やセリフに対する評価はしますが、基本的に受身なのです。でもストーリーだけは、観客の方でも先の展開を、自分の頭で「組み立てて」いくわけです。

要はストーリーという分野だけは、作り手と観客の想像力の「ガチンコ」勝負になるわけで、考えてみるとこれは恐ろしい話ではあります。

マッキー氏も「脚本家にできることは、自分が習得した技巧を余すところなく使い、集中した観客の鋭い知覚の一歩先を行くことだけだ」(P18)と語っています。監督もまた、そのストーリーを確からしく見せ、その世界に引き込むため、あらゆる技巧を駆使しなければならないでしょう。

そういう意味でも、ストーリーという要素は、映画やドラマ作りの、最も重要な要素なのかも知れません。

ストーリー
ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則

ロバート・マッキー=著|越前敏弥=訳|堺三保=解説

発売日:2018年12月20日

A5版|536頁|本体:3,200円+税|ISBN 978-4-8459-1720-4


プロフィール
佐藤善木さとう・よしき

1960年生まれ。1986年にテレビマンユニオンに参加。
2000年にSFホラー映画『押切』の監督&脚本、2009年に NHKドラマ『ツレがうつになりまして』の演出等を務める。
2013年には讀賣テレビの開局55年記念ドラマ『怪物』(主演・佐藤浩市、向井理)の企画&プロデュース、2015年にはNHK・ BSプレミアム『玉音放送を作った男たち』(主演・柄本明)の企画&演出&脚本を務める。
脚本作品として映画『恋文日和』(2004年)、テレビドラマ『ケータイ捜査官7』(2008年)などがある。
明治学院大学社会学部で「表現法(脚本)」の非常勤講師を務める。

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