『ストーリー』をめぐって 「物語創作のバイブル」を読む | かみのたね
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2019.12.10

『ストーリー』をめぐって
「物語創作のバイブル」を読む

/ 佐藤善木

第二章「ストーリーの設計パターン」
その1 ストーリー・トライアングルとは

 

こういったストーリーにまつわる本質論を語った上で、マッキー氏はストーリーの設計パターン(のバリエーション)について、語って行きます。

「ストーリーを設計するパターンはあまりにも多いが、無限というわけではない。この技巧の極点を結ぶと、さまざまな型を内包する三角形が生まれ、ストーリーの宇宙を図式化できる。この三角形のなかに脚本家の宇宙論がすべて含まれ、現実や生き方についてのあらゆるとらえ方がそろっている」(P60)

驚くべきことに、マッキー氏はその「ストーリー・トライアングル」と呼ばれる三角形の図式の中に(下図参照)、ハリウッドのみならず、全ての映画のストーリーは収納可能だと語っているのです(この点がハリウッド式一辺倒だったシド・フィールドと違っています)。

ストーリー・トライアングルの最上部にあるのは、「古典的設計」、古代から現代ハリウッドまで脈々と受け継がれてきた、王道のストーリー設計です。

「能動的な主人公がみずからの欲求を達成するために、おもに外的な敵対勢力と戦う。ストーリーは連続した時間に沿って、因果関係の明確な矛盾のない架空の現実の中で展開する」(P60)

概ね単独主人公で、その主人公が何らかの目的で行動を始め、様々な葛藤、困難を経て、望むものを得て(あるいは失って)、その結果新たな価値観を得る…という、前に述べた「映画の弧=アーク」に則ったストーリー設計で、アークプロットという別名が与えられています。

最近の例で云えば、人種的偏見を持っていた男が、黒人歌手の運転手を務めるうち、深い友情と尊敬を覚え、偏見を捨てて行く『グリーンブック』は、古典的なアークプロットと云えるでしょうし、前にもあげた『ジョーカー』は、主人公が闇に墜ちていく、下降型のアークプロットでしょう。

しかしマッキー氏は、このアークプロットがストーリーテリングの至高の形ではないと言い、三角形の左下に「ミニマリズム」に基づくミニプロット、というパターンを配置します。

「ミニマリズムの場合、その名のとおり、脚本家は古典的設計の各要素からはじめて、それを最小限にしていく――アークプロットならではの特徴を縮めたり押し固めたり、切りつめたり刈りこんだりする。こうしたミニマリズムのさまざまな具体例を、わたしは『ミニプロット』と呼ぶ」(P61)

アークプロットが、大きなストーリー曲線を描くものだとしたら、これはその曲線を(何らかのやり方で)小さくした、「小さなストーリー」という風に解釈したら良いのでしょうかね。

マッキー氏は幾つかの具体例を挙げています。

① 外的な葛藤(社会との戦い、敵との戦い、人間関係の悩み)より、主人公の内面の葛藤(生きる意味、自己否定からの脱却など)に焦点を当てた作品。
② 主人公が受け身的で、周囲で起こる事件にも傍観者的である作品。
③ ある時代、ある街、ある集団の中で生きる、多数の人物を同時並列的に描いた作品。

①②は、主人公が大きくストーリーを動かさない(従って映画全体のストーリー曲線も小さくなる)という意味での「小さなストーリー」、③は、主人公が複数いて、ストーリーが分割されている、という意味での「小さなストーリー」と考えられるでしょうか。

これも最近の例で云えば、事故で子供を失い、心を閉ざしてしまった主人公が、少しずつ過去を乗り越えていこうとする『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は①、激動の時代のメキシコを生きた一人の家政婦を、然しながらあくまでも静かに描写した『ROMA』は②、1960年代末のハリウッドを、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピットらが演じる複数の主人公で描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は③の色彩が強いと云えるのではないでしょうかね(ちなみに主人公が複数いても、全員が共通の目標を持って共闘したり、争ったりして、ストーリーラインを共有する場合は、アークプロットとみなされるそうです)。

マッキー氏自身は、ミニプロット的作品として『赤い砂漠』(64)『野いちご』(57)『パリ、テキサス』(84)『サクリファイス』(86)『ファイブ・イージー・ピーセス』(70)『ショート・カッツ』(93)『テンダー・マーシー』(83)と云った作品をあげています。

パッと見ても、「アート的」と呼ばれる作品が多いですよね。大きな出来事、大きなストーリーを追いかけず、その分、細部の描写を充実させ、芸術性や文学性、リアリティを高めた作品、とも云えるのかも知れません(各シーンが長めで、全体のシーン数が少なくなる傾向もあるでしょう)。

ただストーリー性は優先されてはいないが、ゼロではなくて、きちんと機能している点も、マッキー氏は指摘しています。たとえそれが小さな変化だとしても、映画の冒頭と結末で何かが変わって行く点では、アークプロットと同じと云うことです。最後にマッキー氏は、ストーリー・トライアングルの右下に「反構造」型のアンチプロットなるものを配しています。

「この反構造型のプロットは、(ミニプロットのように)古典的要素を減らすというよりその逆を行き、伝統的な形に抗することで、形式的な原則という考えそのものの弱点を突き、おそらくは揶揄しようとしている」(P62)

要はかつてのヌーベルヴァーグに代表される、既成の映画作りの原則そのものを破壊した作品ですね。物語の時間軸が前後していたり、混乱していたり(アラン・レネの諸作品)、何が現実かわからなくなる不条理劇(ブニュエル作品)や、いわゆるメタ映画(ゴダール作品)のことを指しています。

こうしてストーリーの三角形を解説してきたマッキー氏ですが、一方でこうした形式上の対比や相違は厳密なものではなく、実際の作品は、それぞれの属性を兼ねている場合が多いことも、指摘しています。言われてみれば、是枝裕和の『万引き家族』や『そして父になる』なども、家族各々の物語が描かれるミニプロット性と、その中で主人公(的人物)の価値観が変容していくアークプロット性が兼ねられているようにも思えます。

マッキー氏が指摘している例でいうと、『バートン・フィンク』は、「三角形の、三つの極それぞれの性格を併せ持ち、三角形の中央に位置づけられる」作品だそうです。

若い劇作家が、ハリウッドで名を成そうとするところから、ストーリーがはじまる――アークプロット。だが彼は創作の壁にぶち当たって、内的な葛藤にまみれる――ミニプロット。それは幻覚を生み、観客からは何が現実で空想か、わからなくなっていく――アンチプロット。といった具合にです(それでいうと、あの『新世紀エヴァンゲリオン』も、敵との戦い、主人公の異常なまでの内的葛藤、最後は心象世界に入り込んで、訳がわからなくなる…と、同じ構造を持っている気がしますが)。

いずれにしてもこうして、ハリウッドのみならず、全ての映画作品のストーリー設計パターンを、包括的に論じた例はあまりないと思うので、画期的な分析だとは思います。

ちなみにマッキー氏は「このことは作品の良しあしとは全く関係ない」と前置きしながら、次のように語っています。

「ストーリー設計がアークプロットから遠ざかり、ミニプロット、アンチプロットへ向かうにつれて、観客の数は減っていく」(P80)

その理由としてマッキー氏は、古来人間が、古典的設計のストーリーを用いて、自分の経験や記憶を語ってきたことを挙げています。物事を明確な因果関係で結んで説明していくことに、我々は慣れている。ミニマリズムや反構造に基づいて思考する人は(芸術的資質の高い人だとは思いますが)、あまりいないのだと指摘しています。

「古典的設計のストーリーは時間、空間、因果関係にまつわる人間の知覚の型を明示し、そこからはずれると人は反発を覚える」(P81)

なので脚本家は、ミニマリズム的作品に伴うリスクについては、理解しておいた方が良いと云うことです。

 

その2 ハリウッド映画対芸術映画~理想の脚本とは

 

これまで語ってきたのは、ストーリーの設計パターンによる分類なのですが、マッキー氏はこれとは別に、ストーリーがハッピーエンドに向かうか、悲劇に向かうか…という志向の違いで、いわゆるところの「ハリウッド映画」と、ヨーロッパ的な「芸術映画」との対比があることを指摘しています。

娯楽志向対芸術志向…と言ってしまうと簡単なのですが、その根底にあるのは、アメリカとヨーロッパ。新大陸に渡った人々と旧大陸に残った人々との、人生観の違いではないかと、マッキー氏は指摘しています。

「ハリウッドの作り手は、人生は変わりうる――それもよいほうへ――とあまりに楽観的に考えがちだ。それゆえ、この考えを具体化するためにアークプロットに頼り、ハッピーエンドにする確率が高い。非ハリウッド映画の作り手の場合、変化についてはあまりに悲観的で、人生が大きく変わっても実態は変わらず、ややもすると苦しむ羽目になると考える傾向がある」(P78)

いわゆる自己啓発本の多くがアメリカ発であるように、アメリカ人に「良き変化による成功」譚を好む傾向が(映画に限らず)あるのは確かでしょう。一方ヨーロッパでは、歴史的経緯から、社会的変化もまた新しい混沌を生み、出口はないと考える人も多い。そうした傾向が、ストーリーに対する姿勢に反映しているのではと、マッキー氏は分析しています。

「ストーリーに対する姿勢は二極化した。ハリウッドの素朴な(よい方向への変化に無邪気にこだわる)楽観主義に対して、『芸術映画』の素朴な(人間の状況は悪いか停滞していると無邪気に決めつける)悲観主義がある(中略)真実はつねにその中間のどこかにある」(P78)

マッキー氏自身は、楽観と悲観、どちらか一方ではなく、その両方を含んだ二面性のある作品こそが、最も難度が高く、価値も高い作品だと考えているようです。

「楽観と悲観が人生の両端にあることをだれもが知っている。人生は明るく希望に満ちた日ばかりではなく、泥にまみれた失意の日ばかりでもない。その両方だ。最悪の経験からも何かしら学べるものがあり、豊かな経験のためには大きな代償を払う必要がある(中略)。二面的でアイロニーに満ちた結末のストーリーは、長く心に残り、世界のどこでも受け入れられ、観客から最大の愛と敬意を勝ちとることができる」(P158)

マッキー氏は『クレイマー、クレイマー』や『愛と追憶の日々』(主人公はかつて望んでいたものを失ったり、捨て去ったりするが、そのことによって新たなものや価値観を得る)、『アニー・ホール』や『マンハッタン』(愛とは喜びと苦しみの両方であるが、それでも人は愛を求めて行く)、そして『ディア・ハンター』、『普通の人々』、『レインマン』などの作品をその例として挙げ、「この種の映画はアカデミー賞を獲得しやすい」と、総括しています。

 

その3 これからのストーリー設計

 

まだまだマッキー氏の思想について語るべきことは膨大にあるのですが、枚数の関係もありますし、興味のある方は著作を読んでいただくことにして、僕なりの感想を書いて、締めさせていただきましょう。

マッキー氏の「ストーリー・トライアングル」を見ていて、少し思ったことがあるのです。

確かにいわゆるアークプロットが、最も商業性が高いのは事実でしょう。然しながら、最近若い観客、視聴者にウケている作品というのは、単なるアークプロットではなく、そこにミニマリズム(ミニプロット)やアンチプロット的な要素を入れた、いわばハイブリッド的な作品が多いのではないかと。

『新世紀エヴァンゲリオン』もそうでしたが、庵野秀明氏の『シン・ゴジラ』は、対ゴジラ戦という大ストーリーと、それを語る必要以上に過剰に詰め込まれた、集団劇的ディティールが共存している作品でした。さらにビジュアル面では、黙示録的な幻視性、幻想性も描かれていました(東京壊滅の場面など)。

また新海誠監督の『君の名は。』、『天気の子』も、隕石接近や気候変動という大きな背景設定がありつつ、それ以上に登場人物の心象描写や細部の美術に、力点を感じる作品でした。

テレビドラマでいうと『3年A組――今日から皆さんは、人質です』は、毎回教師に人質にされた生徒のミニストーリーが描かれ、その積み重ねによって、(教師の真意など)ストーリーの全体像が見えてくるという、ミニプロットとアークプロットを組み合わせたような作品でした。

またアメリカのテレビドラマ『THIS IS US』は、過去と現在のエピソードを行き来しつつ、三人の兄妹を描くという、難度の高い構成ながら、全米で大ヒットの作品になっているそうです。

映画やテレビドラマが量産され、多くのストーリーが猛烈なスピードで消費され、語られつくしている昨今。作品に個性を与えるためには、古典的王道的なストーリーに、何かしらの工夫、ひねりを加えていく必要があるのかも知れません。

逆に、いわゆる「作家性の強い監督、脚本家」たちが、古典的なストーリー設計をうまく活用することで、広い大衆性を獲得していくという、そういう時代になっている…とも云えるでしょうか。

そういったことを考える上でも、あの「ストーリー・トライアング」は、とても有効であると、思っています。

 

終章 結びに代えて

 

結局、伊丹十三さんが言っていたのがシド・フィールドだったのか、それともロバート・マッキーであったのかは、よくわからないままなのですが、ただ、『マルサの女』のようなストーリー性の高い作品も、それ以前には『タンポポ』のような、ミニマリズム的な作品も手がけていた伊丹さんなら、(両方読んだとしたら)マッキー氏の方に、より深みや面白味を感じたのではないかなあと、それだけは思います。

マッキー氏の言葉自体が、表現として奥行きがありますしね。

『エンターテインメント(楽しませる)』とは、知性と感情が満たされる結末まで、ストーリーという儀式にどっぷりと浸からせることだ」(P22)

「ストーリーというオーケストラのあらゆる楽器を鳴らすことができなければ、古い曲を口ずさむしかない」(P20)

こうした、切れ味がよくて詩的でもある言葉表現自体が、インスピレーションの源泉になるような気がいたしますね。

最後に一つ。

実は現在、ロバート・マッキー氏の影響は、映画テレビ業界にはとどまらないものになっているのです。

というのもマッキー氏は、ビジネスや宣伝、広告の分野に、物語的なストーリー・テリングの手法を応用するという「ストーリーノミクス」理論を提唱しているからです。

「人を説得するための強力な方法は、ある考えを一つの感情に結びつけることです。その最良の方法は、人の心に訴える物語を語ることです」(「ストーリーが人の心を動かす」より)

実際、マイクロソフトやナイキ、ペプシコーラ、メルセデス・ベンツといった大企業が、マッキー氏のノウハウを取り入れて、広告戦略を展開しているというのですから、少々驚きますね。

「ストーリー」は、映画、ドラマにとどまらず、時代そのものの大きな潮流になっているのかも知れません。

そう云った視点で、もう一回この特集を読み直してみるのも、一興かと存じます。

 

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ストーリー
ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則

ロバート・マッキー=著|越前敏弥=訳|堺三保=解説

発売日:2018年12月20日

A5版|536頁|本体:3,200円+税|ISBN 978-4-8459-1720-4


プロフィール
佐藤善木さとう・よしき

1960年生まれ。1986年にテレビマンユニオンに参加。
2000年にSFホラー映画『押切』の監督&脚本、2009年に NHKドラマ『ツレがうつになりまして』の演出等を務める。
2013年には讀賣テレビの開局55年記念ドラマ『怪物』(主演・佐藤浩市、向井理)の企画&プロデュース、2015年にはNHK・ BSプレミアム『玉音放送を作った男たち』(主演・柄本明)の企画&演出&脚本を務める。
脚本作品として映画『恋文日和』(2004年)、テレビドラマ『ケータイ捜査官7』(2008年)などがある。
明治学院大学社会学部で「表現法(脚本)」の非常勤講師を務める。

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