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2019.12.13

第二話 「犬を見ている犬を見ている犬」

犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作 / 太田靖久, 金川晋吾

 映画館の映写室にいると、自分が特権的な地位を獲得している気持ちになる。
 暗がりに身をひそめ、パイプ椅子に浅く腰かけて足をくむ。隣に鎮座するフィルム映写機は大きな音を立てながら熱と強い光を放ち、窓ガラスの向こうでは物語が続いている。でもそれは白いスクリーンの平面に映し出されたただの映像に過ぎない。そこには血の通った生き物は存在してはいない。
 映画愛好家の中には何度も同じ作品を鑑賞する人もいるのだろうが、多くの人の場合は一度で十分だと考えるだろう。いわゆる「ネタバレ」は嫌われる傾向にあるから、事前に情報を仕入れないように努めるのが一般的で、大半の観客は物語の展開を知らないはずだ。
 それなりの時間を映写室で過ごす俺の目は暗闇に慣れている。劇場内の最前列の左端に座る女性のメガネのレンズが時々光る様はおろか、彼女が自分の髪をさかんにいじっていることもしっかり見えている。彼女は映画に夢中になっているようだ。娘の同級生の男の子に恋をする孤独なヒロインの姿に自らの境遇を重ね、ほとんど無意識に落ち着きなく髪を触り続けてしまっているのだろう。
 彼女は今、自分は「見ている側」であって、「見られている側」だとは少しも気づいていないし、彼女がもっとも気になっている物語がどうなるのかも、たぶん未知なはずだ。

 他方、文字通り「上から目線」を獲得している俺は全てを把握している。映像の中のヒロインが次にどんな言葉を口にし、行動に出て、最終的にどうなるのか。名画座と呼ばれるこの映画館で映写技師として働いている俺は、高みにある映写室で何度も同じ映画を観ているのだから。
 現在はアニエス・ヴァルダ監督『カンフー・マスター!』が上映されている。この作品には何種類かの犬が登場するが、どれもチョイ役といった程度で、物語のスジとはほとんど関係がない。今作を観終えた人の大半が犬のことなど思い出しはしないだろう。何度も観ている俺だからこそ画面の細部にまで注意が向くようになり、数少ない犬の出番を待ってさえいるのだ。
 俺が熱心に目で追っていることを当然ながら映画の中の犬たちは知らない。それは場内の最前列にいる彼女が映写室からの俺の視線に少しも気づいていないのと同じなのかもしれない。
 俺は何気なく四方を見渡す。光の中にほこりが舞っている。この瞬間の俺のことを見ている何者かは存在するのだろうか。もし映画の中の犬がこちらに顔を向けたなら、それは俺への視線だと今なら認めてしまう気がした。
 この映画の中で最後に登場する犬だけが、映っている時間が少し長い。女の子と一緒に画面の奥から歩いてくる犬は、鎖をはずされ、しばらくするとベンチに寝そべる。女の子がその身体を押してベンチから落とすようにして追いやると、犬は画面の手前に寄ってくる。その結果、俺の方に近づいてきた錯覚をもたらす。
 俺は犬を見ている。犬は俺を見ない。俺は小さな声で呼びかけている。
「俺を見て欲しい。俺がここにいることをちゃんと知って欲しい」

『カンフー・マスター!』が終わったあと、場内に明かりがともる。最前列に座っていた女性は映画の余韻にひたっているのか、それとも次の作品がはじまるのを待っているのか、立ちあがる気配はない。
 百席ほどを有するこの小さな映画館では、一日のうち、ふたつの作品を交互に上映する。基本的に客の入れ替えはおこなわれない。だから彼女が席を立たなかったとしても何ら不思議はない。でも俺はスクリーンの中の犬に呼びかけたのと同じようにして、彼女に向かって小さく声を発した。
「すぐにロビーに出なさい。そこで出会う映画館スタッフの男に映画の感想を伝えなさい」
 俺は身体の向きを変え、映写室の鉄扉を開ける。「上から目線」の俺の声はあの女性の脳内に響いただろうか。
 せまく急な階段を足早に降りる。俺の息が自然と荒くなる。夏の犬をイメージし、口を開けてわざと舌を出した。本能にだけ従う動物になった気持ちだ。俺は彼女に近づきたい。可能ならその足にじゃれつき、今度は「上から目線」ではなく、「下から目線」で彼女を見あげたい。
 階段下の鉄扉は売店内に通じている。俺が勢いよく扉を開けたため、アルバイトで大学生の友部くんを驚かせてしまった。彼に短く謝罪し、ロビーを見渡す。メガネをかけたあの女性が劇場からタイミングよく出てくる。
「ありがとうございました」
 俺は彼女に向かって頭をさげる。口先だけの言葉ではない。彼女が今ここに存在することへの心からの謝辞だ。俺より少し若く見える彼女は、世界の悲しみを熟知したうえで陽気に生きることを選んだトイ・プードルのようだった。

 生まれたことは不幸だ、生きることは地獄だ、希望はない、絶望だけがある、でも暗い顔を浮かべたくはない。トイ・プードルはいつもあざやかに跳ねている。あの犬を抱いた時の軽さは驚愕に値する。まるで空気だ。重力という呪縛から解き放たれた天使のような犬種だ。
「ありがとうございました」
 彼女の両親は元より、そのずっと先祖に至るまで、なるべく遠くまで想像力の射程を置いてイメージし、俺はもう一度そう口にした。彼女の命のはじまりは間違いなく犬だ。あの愛くるしい表情と少しせわしない動き、ボブカットの髪は茶色く染められてパーマがかかっている。容姿も含めて全てがトイ・プードルそのものだ。
 彼女は黄色いトートバッグを肩にかけている。そこには大きく猫の顔が描かれている。アメリカンショートヘアーだろうか。猫は目を丸くして大口を開けている。こちらを威嚇するような表情だ。その猫のイラストと目が合っている気分になった。
 ためらいが生じた。動揺したことを友部くんに悟られたのか、彼が俺を横目で見た。俺は彼をひと睨みしたあと、売店を出て勢いよく彼女に近づいた。彼女が貸し出し用のブランケットを小脇に抱えていることを察したからだ。
「そちらはお預かりいたします。ご来館ありがとうございます」
 彼女が俺を見た。メガネの向こうにはつぶらな黒目があった。やはり猫ではない。それなのに、彼女のスカートの模様はシルエット型の猫が散らばっているデザインだった。ブランケットを受け取りながらさりげなく映画の感想を尋ねると、彼女は微笑んだ。
「素敵ですね、そのトートバッグ。スカートの模様も」と俺も笑顔を返した。
「猫がお好きですか?」
「猫はよくわからないんです。犬のことを考えている時間の方が多くて。今日の映画にも犬が出てきましたが、意識されましたか?」
「みんな優秀なエキストラ。私、犬の方が好きなんです。猫よりもずっと」
「じゃあどうして猫ばかりを?」
「犬みたいな人って猫が好きじゃないですか。だからこういう格好をしていると犬みたいな人が反応するんです。今のこの会話みたいに」
 彼女の口角が鋭くあがった。猫みたいな笑い方だった。
 俺は誰かに救いを求めるようにして視線を泳がせた。俺と彼女のことを友部くんだけが見ていた。

<第二話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。