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2020.01.10

 ジャック・ラッセル・テリアという犬種を知ったのは、アキ・カウリスマキ監督『希望のかなた』を鑑賞後、作品について調べた時だった。映画に出演していたジャック・ラッセル・テリアが監督の愛犬だと知り、感嘆したものだ。
 彼の犬への強い愛は自分自身の映画に起用したことでシンプルに明示されているし、愛情表現としても気が利いていると思った。彼の態度から学んだのは、愛している人や事物を撮影して形に残す行為は、自らの愛情を他者に伝える手段として適しているということだ。
 そう悟った俺がコンパクトカメラを買いに走り、常時持ち歩くようになったのは、ジャック・ラッセル・テリアという犬種名を覚えたその日であり、カメラを「ジャック」と名付けたのは、自分のカメラをきちんと愛そうと決意したからだった。
 仕事場の名画座へと向かう道すがら、「ジャック」をかまえる。その時、俺の中に倫理観のようなものが芽生える。「見る」ということに罪悪感はないのに、「撮影する」となると判断に迷いが生じる場合があるのだ。この両手に収まる小さな機械がなぜそのような感情を俺に喚起させるのか、不思議でならなかった。

 普段はとりとめなく何かを「下から目線」で見あげたり、「上から目線」で見おろしたりするが、「ジャック」で撮影する時は同じ目線のようなものを目指しているのかもしれない。道路に這いつくばったり、少し膝を曲げたり、背伸びしたりする時、俺なりの方法で対象物に寄り添おうとしているのだろう。
 たとえば対象が犬の場合、なるべくなら犬が首を上下に傾けていないことが大事だ。犬が力みなく自然と前を向いている状態がそれにあたるだろう。俺はその犬と静かに対峙し、ゆるやかな動きで同じ目線を獲得する。そうなってはじめて「ジャック」のシャッターを切るのだ。
 たいていの犬の首は太くて立派だが、肩こりになりやすいらしい。犬が何かを見あげたり見おろしたりする際、首に大きな負担がかかっているのだろう。犬にとって世界は見あげなければならないものか、見おろさなければならないものばかりに違いない。犬が首を傾けないで済むような同じ目線を有する事物は、なかなか少ないのではないだろうか。

 自宅に帰っても俺はカメラを手放さない。ダイニングで夕食をとる妻の姿を頻繁に撮影する。俺は彼女の正面の席に座り、テーブルに両肘をつき、彼女と同じ目線の高さを意識して「ジャック」をかまえる。
 彼女はボルシチを食べながら首を傾げて言う。
「ねえ、『犬』を介さないと直視できないわけ?」
 俺はカメラを「ジャック」と名付けたが、彼女はそれをさらに変化させて「犬」と呼ぶ。
「だって『ジャック』は『犬』のことでしょ?」
「それはそうだけど。『カメラ』が『犬』だなんて俺たちにしかわからない話だよ」
「人と人との関係性を説明するのってすごくむずかしい。私たちが何をきっかけにして出会ってどこでデートしていつ婚姻届けを出してって、そういったことは日付を添えて箇条書きできるけど、それだけで私たちの関係性がまっとうに説明できているわけではないよね?」
「そうだね。忘れてしまったことも多いし」
「あなたは私を覚えておくためにも『犬』が絶対に必要なんでしょ?」
「それは君を愛しているからだし、愛していることを君に伝えたいからだ」
「でもそれって卑怯でしょ。『カメラ』も『犬』も『言葉』も存在しない場所では通用しない」
「それはあまりに極端な考え方だ。現にこの世界には『カメラ』も『犬』も『言葉』もあるじゃないか。ボルシチだってそうだよ。その料理は君の舌を喜ばせ、お腹を満たし、身体を支える骨や血肉になるんだ。そのことを否定しないで欲しい」
 俺はすでに「ジャック」をかまえることを止めていた。彼女の目線は同じ高さにあったが、これが本当に同じ目線なのかどうか不安になった。ふたりの間に「ジャック」を置けばわかるのかもしれないが、この状況でカメラを向けたら彼女は余計に苛立ちを示すだろう。
 今この瞬間に使えるツールは何か。「カメラ」はだめだ。「犬」もいない。「言葉」しかない。でもその肝心の「言葉」がうまく出てこない。

 長い沈黙のあと、俺は早口になった。
「君に世界を限定してほしくないんだ。世の中は何かを選択させる問いで満ちているけど、額面通りに受け取る必要なんてない。『小型犬、中型犬、大型犬の中でどれが好きですか?』と聞かれた時に、『全部好き』って答えたっていいじゃないか。『朝の犬が良いですか、昼の犬が良いですか、夜の犬が良いですか?』と提示された時には、『朝の犬も昼の犬も夜の犬も良い』と胸を張りたいんだ。もちろん真夜中の犬も早朝の犬もいつだって素晴らしい。そうやって問いの選択そのものをこっちが増やしてみせたっていいんだ。不可視だった可能性を可視化させてきちんと示すこと、そういった態度が人々に同じ目線をもたらすんだ」
「あなたって同じ目線を主張しているわりに随分『上から目線』な感じの物言いだけど。それで平気?」
「自分の考えをわかってもらうってこういうことだろ?」
「ここはあなたが働く映画館の映写室じゃないよ。私はあなたが知っているセリフをなぞったりはしないし、脚本に記された通りの行動に出たりもしない。毎回観るたびに物語が変化していく映画があったら魅力的なのかもね」
「タイムリープは昨今の流行りの設定だ」
「みんながそれを求めているんだもん。必然でしょ?」
「何が言いたいんだ?」
「さあね、わかってもらうってこういうことでしょ?」
 彼女はボルシチをスプーンでひとすくいしてゆっくり咀嚼した。
「あなたの首って結構太いよね。メタルとかハード・ロック系のボーカリストの首みたい」
「歌は下手だ」
「遠吠えしてみてよ、犬みたいに」
 俺は唇をとがらせ、喉を震わせて高い声を出した。
「そんな風にいつも悲しい声で吠えていれば可愛いのに」と彼女は笑った。
 俺は彼女の揶揄を無視して遠吠えを続けた。街中の犬たちが俺の鳴き声を聞きつけてここに集まればいいのにと願っていた。

<第三話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。