第四話 「犬の尻尾が不規則にゆれている」 | かみのたね
  • Twitter
  • Facebook
2020.02.14

第四話 「犬の尻尾が不規則にゆれている」

犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作 / 太田靖久, 金川晋吾

 離婚を決意した人は、それを相手に切り出すまでに平均してどれくらいの時間を必要とするものだろうか。「熟年離婚」などという言葉もあるが、何十年も耐え忍んだ末に相手が弱ったタイミングで復讐のごとくそのカードを切る場合もあるだろうし、食後のデザートの種類をふいに変更するようにして、思いつきのような態度で別れを告げることもあるのかもしれない。
 ただどんなシチュエーションにしろ、結論はたったふたつしかない。その意思を相手が受け入れるか、断るか。その時、人は別れの理由を説明すべきなのだろうか。一度くだされた結論がくつがえることはあるのだろうか。
 俺と妻のケースの場合、「離婚」という言葉を持ち出したのは彼女の方だった。
「悪い部分があるならなおすよ」とふいを突かれた俺は動揺した。「すべて箇条書きにしてよ。一日につきひとつずつ、それをきちんと消化していくから」
 彼女は笑った。そして数時間前に彼女が口にした言葉を再度くり返した。
「成犬になってもその手の遊びが好きな犬もいれば飽きてしまう犬もいる」と。

 彼女が俺の職場の名画座に来たのは久しぶりだった。事前にその旨の連絡もなく、内心はとても驚いていたが、態度には出さないように注意した。幸いなことに、アメリカンショートヘアーのトートバッグを持った例の女は来館していなかったため、気持ちが浮ついておらず、妻にすぐに気づくことができた。
 彼女は特別変わった様子はなかった。明るくもないし、暗くもない。チケット代を払おうとする彼女の手を俺はつかんだ。
「いつだって君はタダだよ。俺がここに存在する限りね。忠犬のごとく君のことを待ち続けているのだから」
「私ね、あなたのそんな言葉を素直に喜べたこともあったし、酔うこともできた。子犬時分に夢中でボールを追いかけたみたいにね。成犬になってもその手の遊びが好きな犬もいれば飽きてしまう犬もいる。その選択は犬自身にもコントロールできない領域なのかもしれない」
 彼女はお金を友部くんに渡した。彼は俺の顔を見て戸惑いの表情を浮かべたが、俺が何度かうなずくと、それをレジスターに入れてチケットを発券した。今日の最終上映はスパイク・リー監督『25時』だった。
「映画が終わったらロビーで少し待っていてほしい。仕事をすぐに片付けるから。一緒にどこかで何か食べよう」
 ブザーが鳴った。本編前の予告がはじまり、劇場から音楽が漏れ聴こえてきた。
「今は君の隣の席に座ることはできない。だけど映写室で観ているよ。同じ時間を共有しよう」
 彼女は首に巻いていたベージュのカシミアのマフラーをといた。のどをきちんと開くための儀式のようでもあったし、犬が自らの首輪をはずした仕草にも思えた。

「婚約する前に私の父親に会いに実家に来た時があったよね。あなたは犬のネクタイをしてた。怖い顔のやつ」
「ピットブル。この『25時』に出てくる犬と同じだよ。原作と違って映画に出演しているのは雑種かもしれないけどね。ほら、ポスターにも写っている黒と白の犬。ピットブルは大型の闘犬だ。結婚を反対された時は君のお父さんと闘うつもりだったから気合を入れるために選んだんだ」
「あの時は気にならなかったし、私もむしろちょっとおもしろがっていた部分もあったくらい。でも今になって思い出すとね、すごく不快。真剣な場にあんなふざけたガラのネクタイ」
「今それを言うのは卑怯だ。過去は変えられないし、間違いのない人生なんてあり得ないだろ?」
「納得されることを言われたからって納得するとは限らない」
「それもずるい。納得したなら納得してよ」
「ねえ、過去に戻ってもう一度私の父親に会いに行くとしたら、あのネクタイを選ぶ?」
「今の君が嫌がることをしたいとは思わない」
「でもあのピットブルのネクタイこそが私の父親の胸を打った可能性だってある」
「絶対にない。あのネクタイは俺にとってだけ意味があったんだ」
「違う。私にとっても意味があったということだよ。時間を経て意味がうまれてしまったって言い方が正確かもしれないけどね」

 俺は視線を逸らした。友部くんが劇場のドアを半開きにした状態で押さえていた。
「映画がはじまるよ」
「あのネクタイ、今もとっておいてある? もしあなたがあのネクタイを今も大切に思っているのだとしたらギリギリ可能性は残されているのかもしれない」
「たぶん捨てた。あんな変なガラのネクタイ」
 彼女は声を出して笑い、手を叩いた。その所作には、夢中でボールを追いかける子犬のような無邪気さが宿っていた。俺が好きな彼女だった。

「成犬になってもその手の遊びが好きな犬もいれば飽きてしまう犬もいる」
 彼女からそのフレーズを聞いた時、一度目はそれほど意識しなかったが、二度目は少し違った。彼女がその言葉に深い意味を込めている気がしたからだ。ただそれが一体何なのかはわからなかった。俺たちは無言になった。
 かつてはよくふたりで通ったカフェ・バーを過ぎた。深夜でも客が絶えない人気のイタリアンレストランにも彼女は興味を示さない。塩ラーメンが看板メニューのラーメン屋の換気扇から濃厚な香りがただよい、真冬の風に乗って流れてくる。
 彼女はコンビニに入った。カウンターに向かい、おでんを注文しはじめた。彼女の意外な行動を俺は店外からただ見守っていた。
「ドッグランに行こう」
 コンビニから出てきた彼女は湯気がのぼる器を両手で支えていた。すぐ裏手に大きな公園があり、その中にドッグランがあるらしい。
「この時間に犬なんていないよ。それよりもどういうことだ。別れようだなんて」

 彼女は器に口をつけてツユをひと飲みしてから歩き出した。公園の入口の門は開かれていた。照明がいくつかあるが、背の高い木々が影を作っていてかなりうす暗い。俺は自動販売機であたたかいココアを買い、スチール缶を強く握りしめた。
 曲がりくねった歩道を行く。ドッグランのフェンスの外側に設置されたベンチに背もたれはない。石のベンチは冷えきっており、ふとももからの震えが全身に素早く広がった。
「ねえ、『25時』ってけっこうシリアスな映画だよね? でも主人公が飼っている犬だけはさ、上機嫌に見える。喜んでいるのか興奮しているのか理由はわからないけど、たいてい尻尾を振っているから。犬だけが、ううん、正確には、あの不規則にゆれている犬の尻尾だけが、私には信じられるように思う」
「あの犬は演技が下手なだけだ。それはもちろん愛嬌でもあるけど」
 ドッグランは空っぽだった。犬たちの姿をイメージしようとしたが、寒さのせいもあって集中できなかった。俺は立ちあがった。彼女はフェンスの向こうを指さす。
「どの犬も尻尾を振っている」
「犬はもういい。俺たちの話をしよう」
 ふたりの関係はもうダメになってしまったということくらい、俺にもわかっていた。
 ダッフルコートのポケットから「ジャック」を取り出し、シャッターを切った。フラッシュがたかれた一瞬だけ、ドッグランの中で躍動する犬たちの姿が見えた気がした。

<第四話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。