諏訪敦彦×ロバート・クレイマー対談 コントロールの外側にある協働 | かみのたね
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2020.02.17

クレイマー:今日私は、山形国際ドキュメンタリー映画祭の「アジア千波万波」(アジア地域の映像作家などを対象にしたプログラム)でキルギス映画を2本とカザフスタン映画を見たのですが、3本とも素晴しかった。どの作品も言葉はないのですが、とても強力な物語のセンスを持っており、撮影された世界に関する膨大な情報を私に与えてくれました。これらの作品がドキュメンタリーなのかどうか、私にはわかりません。また撮られた国の現実も知りません。ただ映画が存在するのです。アジアの映画、西側の映画、ドキュメンタリー映画、フィクション映画……そのような区別はなく、ただ映画が存在するだけなのです。
良い映画とは、作品を作った人々が、自身の経験を正直に出した作品です。悪しき映画とは、何か隠している、あるいは複雑すぎて十分に語られていないといった印象を与える作品なのです。大部分の作品は悪しき映画で、良い映画はほんのわずかしかありません。どこで作られたか、どんなジャンルかは問題ではないのです、ただ映画なのです。

諏訪:クレーマーさんの考えは、私が映画を撮るときに一番フィットする考えですが、そのことはとても孤独なことでもあります。闘いですね。

クレイマー:そうです。非常に孤独ですが良いことではありませんか。あなたはあなたの仕事をすればよいのです。幸せである必要はありません。もちろん、無理に孤独になる必要はありませんが……。かつてベトナムのハノイにいたころ多くの若い映画人と同様の会話をしました。彼らは、社会のリアルな生活を未だに見せようとしない政治権力との関係において孤独です。そして、ベトナム以外の国の作品を見られないという意味でも彼らは孤独だったのです。彼らとは異なるかたちで、私も孤独です。なぜならば、私はハリウッドに行かず、自分が知っており、また見たことがある事物と対話を続けることが良いことだと信じ、そのようにしたのですから。多分あなたは、自分が置かれている状況によって孤独です。でも、この日本で孤独であるということはあなたを破壊してしまうのでしょうか? あなたの気を狂わせるのでしょうか? それよりも、あなたを正直で、まっすぐに物事を見つめる人にするのではないですか? 孤独であると感じるのであれば、それはあなたが自分のやるべきことをやっているということなのです。

諏訪:孤独であることに耐えなければものの見方がわからないのだなあと、第1作を撮りながら気がついたところです。

クレイマー:素晴しい! 私たちは非常に素晴しい会話をしていると思います。テレビでこんな素晴しい会話をしたことがありません。というのも本当のことを話しているからです。
例えば、私の生活の手段は映画を作ることです。映画の配給では稼げません。映画の制作によってお金を得るのですから、私は1本そして次にもう1本と作らねばならないのです。そうしなければ生活が成り立たないのですが、作るものはどんな映画でもよいというわけではありません。私が自分の計画を提案する場合、テレビ局サイドやプロデューサーに「それほどとんでもないものではない」と理解させる方法を見つけなくてはなりません。「制作費は出さない」と言われるかもしれませんが、いずれにせよ彼らに私のやりたいことを理解させられるぐらい明確である必要があります。
あるいは、誰かが私に計画を持ちかけたときにこう考えるのです。「このアイデアを取り上げて何か誠実なことができるだろうか? 自分の考えを盛り込むことができるだろうか?」と。これは非常によい練習なのです。そのように映画を作る際の考え方は、空手や合気道といった武術からきています。その企画に飲み込まれてしまわないほど、そしてこれを食ってしまえるほどに自分は強いだろうかと考えるのです。
あなただけが孤独ではありませんが、誰かの企画に飲み込まれないためには賢くなければなりません。でないと全くの自殺行為になります。先行する世代の良き例は、ゴダールやクリス・マルケルでしょう。

諏訪:孤独であると述べましたが、一方で、私は『2/デュオ』で俳優だけではなく、プロデューサーをはじめとする素晴らしいスタッフに恵まれ、幸福な共同作業をすることができました。

クレイマー:そのような友人をもつのは、とても大切なことです。そのような意味でも、山形国際ドキュメンタリー映画祭は非常に重要です。特に今年はとても不思議で、かつ元気づけられます。というのも自分をドキュメンタリー映画の作家ではないと考えているこの私が審査員なのです。また、古典的な基準からすれば明らかにドキュメンタリーではない多くの作品を上映して、しかも「ドキュメンタリー映画祭」であり続けている。つまり、この映画祭の関係者たちは、映画に関する思考の変化に応えているのであり、そのことにとても元気づけられます。映画祭のニュースペーパーの第1号に新しいカテゴリーである「パーソナル・フィルム」に関する長い記事が載っていました。私はこのカテゴリーに同意はしませんが、このことについて話そうと試みることに惹かれます。われわれの映画を存続させるためには、この映画祭の関係者たちのような友人が必要なのです。
フランスやドイツにおいてARTE(アルテ)という文化番組専門の放送局があるのですが、そこに所属する人々の中には、これまでとは異なる方法で制作された映画を擁護しようとする人たちがいるのです。彼らのように、映画は文化であるべきだと考える人は未だに存在する。詩とか音楽のような何か、単に商品でない何かとしての映画を信じている。それはとても素晴らしいことです。

諏訪:クレイマーさんも、映画に関わり始めた当時から、そのような素晴らしい友人たちが周りにいたのでしょうか? 集団的な制作からキャリアをスタートされてますね?

クレイマー:「ニューズリール」(1960年代のアメリカで展開されたドキュメンタリー運動)を立ち上げた当時、私たちは何者でもなかった。そして、映画制作を考えていること以外は、ほかの映画制作者とは全く似ていませんでした。誰も映画を作ったことがなかったので、どうやってカメラを使うのだろう?どうしたらこれができるのだろう?と自問しながら進めていったのです。テレビ局にも、ハリウッドにもコネがなく、ただ「われわれは映画を作らなくてはならない。なぜならわれわれの物語はわれわれが見る映画では語られていないからだ」と述べた人間たちが作ったグループだったのです。
そのとき私は、ともに映画を作る友人に、自分の考えを押しつけようとはしませんでした。彼らに何か考えがあるなら、私は人間として、座り込んで彼らのアイデアを聞き、そして私の考えを伝え、話し合ったのです。スタジオ的な作り方からみたら無駄に思えるかもしれません。しかし実際は素晴しいことだったのです。共通の経験とはこんなふうに獲得するものなのだと知りました。私は、映画が自分の生活から切り離されたものであることを全く望みませんでした。そして映画に、人々の仕事や私が信じた政治的な信条といったものと同じ価値を持たせたかったのです。私が話しているのは、映画のひとつの在り方です。パリでどうやって暮らすかとか、私たちの友人は誰であるかといったことを話すのと同じ話し方で映画を語りたいのです。生活状況を語るときと、映画の状況を語るときで話し方を変えるようなことはしたくありません。

諏訪:制作中、スタッフにインタビューなどをすることで、映画をかたちにしていったということですね。

クレイマー:私は「インタビュー」という言葉は嫌いです。われわれは決してこの言葉を使いません。インタビューという言葉には、主体と客体という考え方が含まれています。客体とはインタビューされる人ですが、私が欲するのはそのような対象ではなく、人々との関係なのです。誰であろうと問題ではありません。ただ特定のこの人物と、ある種の関係を作りたいだけなのです。
アメリカの国道1号線を辿る『ルート1/USA』で、私はいろいろな人と知り合いました。私は彼らに「君が自分の人生で何を重要と考えているかを私に示してほしいんだ。私は何よりも君が示してくれるものに興味がある」と言ったのです。私のやり方は、基本的にこんな具合です。その人が、農民であろうと大統領であろうとそんなことはどうでもいいのです。俳優に対しても同様に振る舞います。まず、ある状況の中でどのようなことを居心地よく感じるかを知りたいのです。演技を要求する前に、その場面に関する私の考えを全て説明することはできるのですが、そんなことよりも、その人がどうやって目の前の状況の中で生きたいと考えているかのほうが重要なのです。

諏訪:つまり、先ほどおっしゃられた通り、コントロールしないことを大切にしている、と。

クレイマー:そうです。そしてそれは、協働する人々だけでなく、観客に対しても同じです。スクリーンと観客の関係性をメジャーが作る映画とは異なるものにしたいという考えは強くありますし、それは私の心の中でずっと変わってこなかったことでもあります。できる限り会話的で、開かれた映画を目指しています。それは、基本的に観客の見方をコントロールして、物語を良し悪しで測らせるハリウッド映画や昨今の物語映画とは正反対の態度です。そのためにメジャーの作品は、もっともっとコントロールして、もっともっと音響を使い、もっともっと特殊加工を用いるのです。私はそのようなコントロールを観客にも行いません。そして、自分の人生をコントロールできない、生き残ることに懸命な人々とともに働くのです。そんな人々との関係の中、私が彼らに抱いた尊敬の中に映画が存在するのです。それこそが、私の映画の真の主題なのです。

* * *

構成:フィルムアート社編集部

誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために──制作・教育・批評

諏訪敦彦

2020年1月16日

四六判|496頁|定価:3,000+税|ISBN 978-4-8459-1913-0


プロフィール
ロバート・クレイマーRobert Kramer

1939年、ニューヨーク生まれ。1965年に『FALN』で監督デビュー。1960年代、ベトナム反戦運動の熱気の中、ジョン・ジョストらとともに、ドキュメンタリー映画運動ニューズリールを創設。ニューズリールでは、集団制作により多くの作品を制作する。1980年からはパリに在住し、ヨーロッパでも活動。1982年にはヴィム・ヴェンダース監督の『ことの次第』の脚本を共同で執筆した。監督作には、『アイス』『マイルストーンズ』『ルート1/USA』『ウォーク・ザ・ウォーク』などがある。『ルート1/USA』は、1989年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀賞を受賞。1999年11月10日に逝去。

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プロフィール
諏訪敦彦すわ・のぶひろ

1960年、広島県生まれ。1985年、東京造形大学造形学部デザイン学科卒業。在学中から山本政志や長崎俊一らの作品にスタッフとして参加する。1985年、在学中に制作した『はなされるGANG』が第8回ぴあフィルムフェスティバルに入選。大学卒業後はテレビのドキュメンタリー番組を多数手がける。1997年、『2/デュオ』で商業デビュー。同作はロッテルダム国際映画祭やバンクーバー国際映画祭などで賞を獲得する。その後、1999年『M/OTHER』で第52回カンヌ国際映画祭にて国際批評家連盟賞を受賞し、2005年『不完全なふたり』では第58回ロカルノ国際映画祭において審査員特別賞と国際芸術映画評論連盟賞を受ける。その他の長編監督作に『H Story』『ユキとニナ』『ライオンは今夜死ぬ』がある。また東京藝術大学大学院映像研究科の映画専攻にて教授を務めるほか、子供を対象にした映画制作ワークショップ「こども映画教室」に講師として多数参加するなど、映画教育にも深く関わっている。長編最新作である『風の電話』は2020年1月24日に公開。
『風の電話』公式サイト:http://www.kazenodenwa.com/

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