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2020.03.13

 現実の風景に架空の事物を重ねて妄想するのは、誰もがたびたびすることではないだろうか。
 渋滞の車の隙間を忍者がさっそうと走っていく様をイメージしたり、満員電車にゾンビがまぎれているのを発見した気になったり、柳の木の下の暗がりに幽霊がいると思いこんでみたりする。そうやって見飽きた日常の景色に自ら刺激を与えて気分を変えようするのは、一種の現実逃避なのかもしれない。
 離婚届を置いて家を出て行った妻を追いかける気力は湧かなかった。仕事を終えて家に帰るまでの道すがら、様々な幻影がとりとめなく眼前に現れる。国道沿いの歩道で犬の匂いをかすかに嗅ぎとった気がした。この匂いもただの錯覚だろうかといぶかしみながら、辺りに視線を投げた。
 駐車場のある大型のドラッグストアの入口近くにジャーマン・シェパードが座っていた。リードが銀のポールに巻かれ、犬は店内に顔を向けて鳴いている。その細く甲高い声を聞いていると、犬のさみしさや不安が伝わってくるようだった。自然と犬に近づき、地面に片膝をついて目線を合わせた。犬の背中をなでながら小さくささやく。
「残念だが生き残ったのは俺たちだけのようだ」

 フランシス・ローレンス監督『アイ・アム・レジェンド』という映画は、殺人ウィルスの拡散により自分以外の人間が絶滅したと考えている孤独な主人公の物語で、彼は廃墟と化したニューヨークの街で唯一のパートナーである愛犬のシェパードと暮らしている。
 この映画のような設定を俺も小さいころからイメージして遊んでいた。自分以外の他者がすべて消えた世界でひとり生きるという妄想は、忍者やゾンビや幽霊を幻視することと似ている。
 犬は鳴き止み、顔をなめてきた。熱く湿った舌が頬にあたった瞬間、結婚を決意した夜のことをふいに思い出した。つき合って三年目の記念日だった。夜の公園で彼女にキスした時、その感触がいつもとは違う気がした。互いの身体の芯が熱くなったのを感じて、思わずプロポーズしていた。
 あの公園にもドッグランがあった。シェパードとボルゾイの大型犬同士が豪快にたわむれている様子を彼女とふたりで眺めたことがあった。シェパードは甘えるようにボルゾイに身を寄せるが、ボルゾイはつかずはなれずの距離を保ち、シェパードをからかっているように見えた。
 あの時のシェパードと甘え方がよく似ていると回想した。首周りをなで続けると、シェパードは目を細め、鼻を俺の胸に強く押しつけてきた。
「うちの犬に勝手に触らないでください」
 振り返った。両手に荷物を持った中年女性が俺を睨んでいる。
「まさか生き残っている人がいたとは」と驚いた演技をしてみたが、その意味が伝わるはずもなく、むしろ彼女の不信感は増したようだった。
「連れ去ろうとしたわけじゃないですよね?」
「すいません、ただの犬好きで」
「最近多いらしいんです。飼い主を待っていた犬がいなくなる事件」

 それは俺も知っていた。電信柱や駐車場の壁に行方不明の犬を探してほしいと呼びかけるチラシを頻繁に見かけていた。ただそれらは数日経つとはがされているようで、すぐに別の犬のチラシが貼られるのだった。
「犬が誘拐されているってことですか?」と俺は尋ねた。
「まあでもね、不思議と戻ってくるらしい。同じ場所に」
「犬自身の意思で逃げ出すケースもあるのかもしれないですね。でも後悔してまた戻ってくる」
「うちの犬もそんな時がある。テーブルのクッキーとかをつまみ食いしたあとにね。こっちが叱るより先にちゃんと反省しているっていうか」
 シェパードが素早く下を向いた。飼い主が不在でさみしかったとはいえ、初対面の男に甘えてしまったことを恥じているような仕草だった。
「うちの犬はね、身体が大きい割に気が小さいっていうか」
「弱いから逃げるんですかね?」
「さあね、犬に聞いてみなさいよ」

 俺はシェパードに顔を近づけた。
「いつ戻るのかわからない相手を待ってなきゃいけないなんてすごくつらいよね?」
 立派な体躯やりりしい顔つきだが、ナイーブな犬なのかもしれない。瞳がうるんでいる。この見た目のせいで誤解を受けることも多々あるのだろう。
「この犬、写真に撮ってもいいですか?」
「変なことに使わない?」
 俺はバッグから愛機の「ジャック」を取り出し、同じ目線を意識しながらカメラに収めた。
 犬が口を開けたため、さっき俺の頬を舐めてくれた舌が覗いた。その表面の熱さを容易にイメージできた。
「犬を連れ去りたくなる人の気持ちもわかるし、逃げたくなる犬の気持ちもわかるような気がします」と、再度シャッターを切った。
「犬のことを『わかる』とか言っちゃう人って苦手なんだよね、私。おこがましいでしょ。服を着せたりするのも微妙。散歩の時に身体を汚したくないのはわかるけど、リボンとかフリルがついているのはね」
「装飾したっていいじゃないですか。だったら人間の食事だって基本的には水と塩だけで充分ってことになります」
「極論でしょ、そんなの。犬の本当の気持ちなんて誰もわかりはしないじゃない」

 ふたりが会話している間、シェパードは舌を出し入れしながら俺と女性を交互に見やっていた。はやく帰りたがっているのだろう。ずっとここで待ち続けてようやく飼い主が戻ってきたのだ。その体感時間は実際より長いものだっただろう。
 俺はシェパードの首元に顔を埋め、少し舐めた。鋭い毛先が舌にあたって痛みが走ったあと、苦い味が広がった。決して心地良い感触ではなかったが満足感があった。
「二週間前に妻がいなくなったんです」
「だったら追えばいいじゃない。あなたは待ちぼうけの犬じゃないでしょ?」
「このドラッグストアにも探しに来て、店内を歩き回りました。どこかに彼女がいるんじゃないかって期待しながら」

 女性は両手に持っていた荷物をまとめてひとつにしてから、銀のポールに巻きついていたリードをはずした。
「世界にひとりきりになったと思えば諦めもつくでしょ。残っているのはゾンビだけ。もちろん私もそう。次の瞬間にあなたを襲うかもしれない」
 彼女は真顔だった。本気なのか冗談なのか区別がつかなかった。
「せめて犬が一緒にいれば」
「やっぱり怪しい。あなたが犬を連れ去っている犯人じゃないの?」
 シェパードは身体の向きを変えて歩き出した。二度とこちらを見なかった。
 俺はその後姿を見送りながら自分の舌先に指で触れた。彼女とキスした夜のことも、あの犬の首筋を舐めた時のことも、どちらもすでに遠い思い出でしかなかった。

<第五話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。