第六話 「階段を降りられない犬」 | かみのたね
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2020.04.10

 階段を降りられない犬がいた。
 家の最寄り駅の改札を出て少し行くと、バスのロータリーが広がっていて、ペデストリアンデッキの階段がある。仕事帰りに信号待ちをしながらなにげなく階段の上に視線を向けた時、黒いフレンチ・ブルドッグを認めた。
 犬はさかんに匂いを嗅いだり階段の下を覗いたりしながら、結局はその場にとどまっていた。飼い主は制服を着た高校生くらいの男の子だったが、特に苛立つ様子もなく、犬の動きをただ静観している。
 マイク・ミルズ監督『人生はビギナーズ』には犬が飼い主とともに軽快に階段を降りるシーンがある。もしあの映画の犬が階段を降りられない犬だとしたらどうなるだろう。撮影中に監督がそのことに気づいたら、シーンをカットするか、演出を変更して俳優に犬を抱えるように指示するのではないか。
 でもあの制服姿の彼は映画の役者ではない。犬が自力で階段を降りるまで何時間でもねばるかもしれない。それは彼の意志ひとつだ。

 そのフレンチ・ブルドッグは腰の位置が高く、少し後ろ脚が長いように見える。階段を降りるとしたら頭を下にしなければならないだろうから、あの長い脚はその動作には不向きなのかもしれない。また、丸みを帯びた体躯は階段から足を踏みはずした途端、転げ落ちてしまいそうにも映る。怯えるのはもっともだ。
 あの犬に今必要なものはなんだろうか。技術だろうか、手本だろうか、勇気だろうか。
 俺は胸が痛くなった。犬に自分の境遇を重ねたからだ。妻に家を出ていかれてから俺の物語は停滞している。それは行動力のない自分自身のせいなのかもしれない。
 俺は犬を見つめた。もしあの犬が階段を降りられたなら、その姿から何かを学べるはずだし、俺自身も未来を変えられるような気がした。
 制服姿の彼がブレザーのポケットからスマートフォンを取り出し、身体の向きを変えた。その際にリードを手放して犬が放置された格好になった。犬は彼の方に視線を送るだけで動かない。彼は電話で話しながら歩きだし、俺の視界から消えた。
 犬だけがそこに残されている。信号が青になっても俺は横断歩道を渡ることができないまま、犬を見守り続けた。
 彼はなぜいなくなったのだろう。電話に気をとられているのか、もしくは犬に罰を与えているのか、それとも犬を試そうとしているのか。いずれにせよ、見過ごせない状況だ。俺はとっさに中腰になり、両手を広げて呼びかけた。
「しっかり受け止めるから。そこから逃げるんだ」

 その声をちゃんと理解したのか、犬は片方の前足をゆっくりと伸ばし、一段下の階段に置いた。そこからは速かった。犬は一気に階段を駆け降り、俺の腕に飛びこんできた。
 よだれを垂らす犬は明らかに興奮している。俺は犬を落とさないように注意しながら優しく抱いた。犬は小さく吠え、身をよじっている。俺は慎重に腰を曲げて犬を地面に降ろした。
 犬は荒い息を吐きながら舌を出したあと、跳ねるように階段を登って行った。その時、犬の長い後ろ脚は活き活きと躍動していた。きっと登るのは得意なのだろう。
 俺はその犬の脚から妻を思い出していた。彼女の身体の部位の中で脚が一番好きだった。ふたりで階段を登る際はいつも後方にいて、彼女の美しい脚をさりげなく眺めては満足したものだ。

 思い出が俺を悩ませる。それを振り切るようにして勢いよく階段を駆け上がった。
 犬はすでにおとなしく座っていた。すぐ側に電話を耳にあてている制服姿の彼がいた。
「ちゃんと犬を見ていないとダメだ」と素早くリードを拾って渡したが、彼は小さく頭をさげただけだった。その軽薄で無責任な態度に腹立たしさを覚えた。

 あの黒いフレンチ・ブルドッグと出会ってから俺は今までよりもさらに街の犬たちを意識するようなった。そんな中、ドラッグストアの前で飼い主を待っている寂しそうな犬を見かけた時は、思わず声をあげそうになった。黒いフレンチ・ブルドッグだ。すぐにあの時のことを思い出した。
 俺は犬に近づいて地面に片膝をつき、愛機の「ジャック」をかまえた。連続してシャッターを切ると、それに合わせるようにして犬は身体を動かしたり表情を変化させたりした。

 撮影に夢中になっていたためにポールからリードがはずされたことに気づくのが遅れた。飼い主が帰ってきたのだろう。ファインダーから目を離し、笑顔を作った。無断で撮影はしたが敵意がないことを示そうと思った。
 見知った人物だった。
「友部くんの家ってこっちじゃないでしょ?」
 俺の声は自然とうわずった。
「引っ越したんです」
 彼はそれほど驚いた様子もない。
「学校から遠くなるんじゃないの?」
「庭付きの一軒家で家賃の安い物件を見つけたんです。家自体はかなり古いですけど。それに犬が多いじゃないですか、ここら辺の地域。ドッグランのある公園も近いし」
 彼と犬の話をした記憶はなかったが、彼が犬好きだと知って親近感が湧いた。
「なるほどね。一軒家なら犬が飼えるし、犬仲間を増やしたいからか」
「ちょっと急いでいるんで。もう行きますね」とすぐに立ち去ろうとした。
 犬が口を開けて舌を出した。ますますあの時のフレンチ・ブルドッグと似ているように感じた。友部くんの後ろ姿をカメラに収めようとしてシャッターを切った時、犬がこちらを振り返った。目が合ったような気がした瞬間、彼と犬は路地を曲がった。

「あれ、犬がいない」
 制服姿の高校生の男の子が戸惑っていた。
「ここにいた黒い犬」
 彼のレジ袋には菓子パンと炭酸飲料のペットボトルが入っていた。
「あ、このあいだ駅前で会った人だ」と彼がつぶやいた。「犬、知りませんか?」
「言ったでしょ。ちゃんと犬を見ていないとダメだって」
 友部くんの真意は不明だが、彼が悪意を持って犬を連れ去ったようには思えなかった。なにより犬の方も積極的に行動をともにしているように見えた。
「何か知っているんですか?」と彼の表情が硬くなった。
「いや何も」と俺は答えた。「犬と本当はもっと深くわかり合いたいんだけど。犬同士がお互いの身体の匂いを嗅ぐ感じでね」
 あの犬の長い後ろ脚のことを考えていた。あれほど優雅な脚があればきっとどこまでも歩いていけるのだろう。そう思った時、妻の心の動きを少しだけイメージできたように思った。
 ちょっとごめんなさいねと、老齢の女性が俺たちふたりの間にわけいってきた。彼女はポールにリードを巻きつけた。リードの先に毛並みのいいシェットランド・シープドッグがいる。
 犬はまっすぐな視線を送ってくる。聡明さがにじむ黒く澄んだ瞳だ。
「ありがとう。わかってくれて」と俺はその瞳に向かって言った。
「あらすごい。あなたは犬と会話ができるの?」と彼女は大きく笑った。
 俺は嬉しくなった。そんなことが本当にできたらとても素晴らしいのになと、素直にそう思った。

<第六話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。