第七話 「あおむけの犬」 | かみのたね
  • Twitter
  • Facebook
2020.05.08

 ジム・ジャームッシュ監督『パターソン』にはブルドッグが出演している。その映画を犬たちと観ている。
 友部くんが暮らす古い一軒家の和室には四十インチのテレビがあり、彼と俺の他に四匹の小型犬がいた。そのうちマルチーズとヨークシャー・テリアとペキニーズの三匹は最初からあおむけの態勢だったから、本当に映画を観ているのかどうか怪しかった。
 物語が半ばを過ぎたころ、ペキニーズがいびきをかきはじめた。鼻が短い犬種はいびきをかきやすいと聞いたことがあるが、その現場に遭遇したのは初めてだった。
 友部くんは三匹のおなかを順になでながらリモコンをあやつり、ボリュームを下げた。眠っている犬への配慮なのかもしれない。
 ちゃんと画面を凝視しているのは黒いフレンチ・ブルドッグだけだ。座椅子に座る俺に寄り添ったまま動こうとしない。密着した身体から生暖かい体温が伝わってくる。その横顔を確認すると、しっかり内容を理解したうえで夢中になっているように感じた。
「友部くんが飼っている犬たちなの?」
「違います」
 昨夜、ドラッグストアの前にいた犬を彼が連れ去るのを目撃したが、かなり手際が良かった。ここにいる全ての犬をあの要領で集めたのだろう。
「どうするつもり?」
「それぞれ元の場所に戻します。レンタル屋さんにディスクを返しにいくついでに」
 映画はすでに終盤にさしかかっている。飼い主たちが家を留守にしている間、ブルドッグが大切な物を破壊してしまったため、帰宅したふたりが落胆するシーンだった。
「不用意に犬を寂しくさせてはダメですよね」
 マルチーズもいびきをかきはじめた。その無防備でゆるみきった姿態を眺めながら、妻は今どこで寝起きしているのだろうかと想いを巡らせた。

 俺と妻との関係において、どちらかが飼い主でどちらが犬だとか、そんな風に立場が定まっているわけではないが、妻がいなくなったことをきっかけにして彼女の帰宅を待つ犬の気分になる時間が多くなった。
 留守番をしている時の彼女も寂しさを抱え、何かを壊したい衝動にかられることがあっただろうか。俺自身そういうことは何度もあったのに、ひとりきりで過ごす彼女の状態をほとんど想像してはこなかった。
「犬だって一日二十四時間を生きているんです。飼い主には想像力が必要です」
「室内用カメラがあるよね、留守番しているペットを見守るための」
 自分の過去を間接的に責められた気持ちになり、話題をそらそうとした。
「そういう問題じゃないです」
 あぐらをかく友部くんの背筋はしっかり伸びている。急に彼を頼もしく思った。彼は偏差値の高い有名私大の学生ではあるが、仕事場では覚えの悪いアルバイトスタッフの部類であり、手先も不器用なため、映写機を扱いたいという彼の希望をいつも適当に聞き流していた。
 だが自分の見立てが誤っていたのかもしれない。彼の控えめなたたずまいにボーダー・コリーの姿を重ねた。ボーダー・コリーが最も賢い犬種であるという研究発表を知っているがゆえの単なる刷り込みなのかもしれなかったが、一度そう感じたことでイメージが上書きされた。

「映写機のことを今度教えるよ」
「ありがとうございます」
 物語は終わり、画面はスタッフロールになった。それを合図のようにして三匹の犬が起きた。友部くんも立ち上がり、デッキからディスクを取り出した。
「そのフレンチ・ブルドッグはお願いします」と彼がディスクの穴に指を入れた状態で言った。「例のドラッグストアに昨日と同じ時間に戻してください。飼い主はそのタイミングで探しに来るはずです」
「飼い主に俺が見つかったら?」
「むしろ感謝されますよ」
 俺がイメージしたのは、知らない誰かと妻が家を訪ねてくる場面だった。もしそんなことが起こったら俺はどんな行動をとるだろう。ふたりを罵倒するのか、それとも感激して思わず頭を下げてしまうのか、自分でも予測がつかなかった。
 フレンチ・ブルドッグに顔を向ける。犬もこちらを見つめている。秘密を分かち合っている仲間のようだった。犬は素早くあおむけになった。俺は笑った。俺の心をなごませようとしているのかもしれない。犬の飼い主であるあの男子学生はこの犬のことを想って胸を痛めているだろうか。
「では行きましょう」
「自信がない。犬を散歩させたことなんてない」
「犬を大切にする気持ちがあれば自然と適切な行動がとれます」
 友部くんの家を一緒に出て十字路で左右に分かれた。三匹の犬を連れた彼の後ろ姿を見送ったあと、視線を落とした。犬が俺を見上げていた。赤い首輪に赤いリードがつながれている。
「苦しくない?」と声をかけたが、犬は応えない。

 歩きはじめてすぐ、リードをどのくらいの長さでキープすれば良いのかと戸惑った。自分の方に犬を寄せるべきなのか、ある程度自由にさせるべきなのか。
 立ち止まって迷っていたら、荒い運転の自転車がすごいスピードで向こうから迫ってきた。恐怖を覚え、慌ててリードを手に巻きつけて犬を足元に近づけた。
 犬は地面や電信柱に鼻を押しつけ、臭いを嗅ぎながら進む。足早になったり、突然角を曲がったりする。その不規則な行動に振り回されて気が抜けない。
 側溝のふたの穴やわずかな段差や店舗前のスロープの傾斜にも注意が向き、風の温度や街の音にも敏感になり、世界が立体的になったように感じられた。意識が鋭くなったため神経が消耗して疲れはしたが、よく見知った風景に新鮮な驚きを見出していた。
 携帯電話が振動した。「無事に返却しました」という友部くんからの連絡だった。それは映画のディスクのことなのか、犬たちのことなのか、詳細は不明だったが「お疲れ様でした」とだけ返信した。
 ドラッグストアに着き、銀のポールに犬のリードをつないだ。はやくこの場を離れた方が良いと頭ではわかっていたが、飼い主が現れないケースを想像すると、簡単には動けなかった。
「かわいい犬」
 幼稚園の制服を着た女の子が声をかけてきた。

「ありがとう」と早口で答えた。せわしなく辺りに視線を送る。俺はいったい誰を待っているのだろうか。
 国道を走っていたバスが減速して少し先で停車した。音を立てて前側のドアが開き、たくさんの人が降りてきた。街灯の薄明りだけを頼りにして、そのひとりひとりの顔を懸命に確認した。
「お名前は?」と女の子は俺と犬を交互に見ている。
「ない」
 女の子は笑いながらたわいのない質問を次々にぶつけてくる。まともに答えるのが面倒になり、こちらからも彼女に尋ねた。
「おうちで留守番している時は何をしているの?」
「勉強。うちはね、お部屋の天井にカメラがある。パパとママが外で見ている」
「嫌じゃないの?」
「しょうがないでしょ。カメラがないとわかんないんだもん。パパもママも私のこと」
 俺はとっさに犬に視線を投げた。座っていた犬が突然寝転んだ。女の子は手を叩いて喜び、あおむけになった犬のおなかをいつまでも丁寧にさすっていた。

<第七話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。