第八話 「犬の温かい脇の下」 | かみのたね
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2020.06.12

 人の体重を正確に当てるのが得意だった。
 特別な能力があったわけではない。対面する相手の両脇に手を入れて持ち上げる単純なやり方だ。ジムのベンチプレスで身体を鍛えることに夢中だった二十代のころの話だ。
 これは女性たちには非常にウケが悪かった。試させてほしいと申し出ても、初対面の相手はもとより、ある程度仲の良い知人ですらかたくなに拒否した。
 でもまれにそれを面白がってくれる女性がいた。妻もそうだった。彼女は俺の友人が飲み会に連れてきた会社の後輩だった。自己紹介の時に名前や職業と一緒にその特技を明かした途端、彼女は立ち上がり、「今ここで私にやってみせてください」と明るく笑った。
 人との相性を探ることは難しい。男女の関係となるとなおさらだ。接点を見いだせない相手に好意を向けて懸命にアプローチを繰り返しても、結局は徒労に終わるケースがほとんどだろう。
 その点、俺の特技は面倒な駆け引きをはぶき、シンプルにする面があった。これを面白がってくれる女性とは感性が似ているとすぐにわかる。そのやりとりを入口にして意気投合し、友人になったり、つき合うことができた。
 俺は将来の妻になるその女性を軽々と持ち上げ、「洋服の分をさし引くと四十二キロだね」と発表した。この時のコツは実際に体感した体重よりわざと少なく見積もることだ。「すごい。正解です」と彼女は大げさに驚いた表情を浮かべたあと、こっそり微笑んでくれた。

 俺たちはみんなから拍手をもらい、並んで座った。改めてビールで乾杯する。
 彼女は自然な華やかさを備えていて、目と耳が大きいのが特徴だった。その雰囲気からパピヨンを連想した。
「映画館で働いているんですよね? 好きな映画って何ですか?」
 彼女からの質問に変に身構えずにいられる。相手の女性の体重をすでに知っているという事実は、コミュニケーションにおいて特別なアドバンテージなのかもしれない。
「好きな映画はたくさんあって決められないけど嫌いな映画は即答できる。犬が死ぬ話」
 彼女は大きくうなずいた。
「わかります。ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』とか。映画の中でフランス革命が起きて人がたくさん死んだとしても、犬だけは絶対に死なないで欲しいって私も思ってました」
「好きな犬種は?」
「パグですかね。見た目に愛嬌があるから。実家で飼っていたし」
 そんな会話を交わした十数年後、彼女が離婚を切り出して家を出ると宣言した最後の夜、俺は彼女の脇の下に手を入れて持ち上げた。最近はめっきり運動をしなくなって筋力が落ちていたから、少しよろめいた。彼女は文句を言いながら足をばたつかせた。むかしのように微笑んではくれなかった。

 映画『マリー・アントワネット』にはたくさんの犬が登場するが、最初に出演するのはパグだ。オーストリアの大公の娘であったマリー・アントワネットの愛犬という設定で、彼女がフランスのルイ十六世のもとへ嫁ぎに国境を越える際、離れ離れになる。
 パグの両脇に他人の手がさし込まれ、彼女の元からいなくなる。彼女は泣き出しそうな表情を浮かべるが、過去を捨てなければ新しい世界に進めないことを覚悟して、悲しい別れを受け入れるのだ。
 史実においては、マリー・アントワネットが愛した犬はパピヨンだといわれている。だからフランスで彼女が王妃になってからはパピヨンが登場するのだろうと思いながら映画を観ていたが、予想に反し、彼女はまた別のパグを飼っていた。
 監督の演出の真意はわからないが、パピヨンがパグに変わるだけで物語が内包する意味は変わってくる。当たり前だが、パグはパピヨンではない。あの映画に感じた違和感を今も鮮明に思い出せる。
 俺たちふたりの関係にもそれに似た感触がある。俺は妻をパピヨンだと思ったが、本当はパグだったのかもしれない。初めて彼女と会った時、俺は運命を感じた気になったが、きっとお互いの感性は根本の部分でズレていたのだろう。だから見知らぬ誰かの手が彼女の脇の下に伸び、彼女を持ち上げてどこかへ連れ去ってしまったのだ。

 俺はまだドラッグストアの前から動けずにいた。銀のポールにはリードが巻かれており、その先に黒いフレンチ・ブルドッグがいて、こちらを見上げている。妻のことを思い出して落ち込んでいる俺に対し、同情でも嘲笑でもなさそうな静かな視線を向けてくる。
 俺は膝を折って犬に顔を近づけた。犬は後ろ足だけで立ち上がった。俺はとっさに犬の両脇に手を入れて身体を支え、持ち上げた。

 犬の足が地面から浮いている。犬にとって不自然な状態なのだろうが、特に嫌がる様子はない。犬の脇の下はとても温かい。それだけで慰められた気持になる。寂しい夜に確かな体温を持った生き物が側にいてくれたらどれだけ心が休まるだろう。
「体重は十二キロだね」と俺は話しかけた。「正確な数字を言ったよ。別に恥ずかしくはないでしょ?」

 犬は舌を出して自分の鼻をなめ、小さなくしゃみをした。
「うちの犬だ」と声がした。振り返ると例の高校生の男の子がいた。「その変なくしゃみ」
 俺は平静をよそおった。「さっき通りかかったら戻ってましたよ」
「ありがとうございます」と彼は頭を下げ、「心配したぞ」と犬に向かって微笑んだ。俺のことは特に疑っていないようだった。
「さあ帰ろう」
 彼はためらいなく犬の脇の下に手を入れ、俺の腕の中から犬を奪った。犬の短い尻尾が小刻みに揺れる。
 彼と犬がいなくなっても俺はそこにとどまった。また別の新しい犬がこの銀のポールにつながれるのを期待していた。
 向こうの角からパグとパピヨンを連れた三十歳くらいの派手な女性が現れた。性格がまったく違いそうなその二匹の犬を同時に飼う心理とはどういうものなのだろうか。
 彼女は柑橘系の香水の匂いをただよわせている。慣れた手つきで二匹のリードを銀のポールに巻きつけ、店内に消えた。
 俺の目の前にパグとパピヨンがいる。パピヨンは左右に落ち着きなく歩き回り、甲高い声で何度も吠える。パグはそれを気にする素振りも見せず、ゆっくりと身体を伏せた。おなかだけでなく、あごも地面に着けてしまっている。
 俺は二匹を交互に見やり、比較した。どちらの犬が俺と気が合うのだろうか。
 ドラッグストアの入口の方に視線を向けるが、飼い主の彼女が出てくる気配はない。身体が熱くなる。犬を連れ去りたいという衝動が強く芽生えた。
 パピヨンに向かって手を伸ばした。その脇の下に手を入れようとした瞬間、犬は素早く身をかわして唸り、鋭い歯をむき出しにして俺の右手の親指を噛んだ。

<第八話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。