第九話 「犬の爪で地面が鳴る」 | かみのたね
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2020.07.10

 友部くんに映画のフィルムのつなぎ方を教えていた。
「フィルムの端にある二本の線が音声信号。それを目安にすれば表と裏を間違えないから。ひとつひとつ慎重にやるんだよ」
 俺は右手の親指に包帯を巻いていた。そのため手本を見せられず、口頭で伝えただけだったが、彼は手際よくスプライサーを操って作業をこなしていく。犬のおなかをなでた時と同じ丁寧さでフィルムのつなぎ目に貼ったスプライシングテープをこすり、きちんと気泡をつぶしてしっかり密着させた。その手つきを見て、さらに複雑な仕事を教えても良いだろうと思った。

「次は映写機の構造とかフィルムのかけ方だね」
「指、どうしたんですか?」
「犬に噛まれた」
「あの黒いフレンチ・ブルドッグに?」
「違う。パピヨン」
 それって比喩か何かですかと、彼は笑った。
「どういう意味?」
 彼はリワインダーの電源を入れ、回転速度を少しずつ上げた。リールが回転して徐々にフィルムが巻き取られていく。
「あんな風に犬が歯をむいて噛みついてくるとは思わなかった」
「中途半端に怯えるからいけないんですよ」

 フィルムの巻き取りが終わったため、リールの回転が自動で遅くなる。
「犬は完璧に見抜きますからね」と、友部くんは真顔になった。
 コルネル・ムンドルッツォ監督『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』という映画には、飼い主の少女と離れ離れになった犬が様々な困難の末に凶暴化し、久しぶりに再会した少女に向かって歯をむき出しにして威嚇する場面がある。少女は後ずさりするが、犬に昔を思い出させようとして懸命にコミュニケーションを図る。
「あの映画と一緒です。まずは犬を信じ切ることが大事。次は頑張ってください」
「絶対に無理。だって一度噛まれたんだよ?」
 俺は右手を掲げ、わざとらしく顔をしかめた。

 仕事終わりの帰り道だった。担々麺と水餃子が人気の中華料理屋の側の街灯に青いリードが巻かれ、柴犬が放置されていた。ガラスの向こうの店内を覗くと、中年の男女の客がカウンター席に一組だけいて、壁のメニューを眺めている。その男の横顔が柴犬に良く似ていたから、あの男が飼い主なのだと思った。
 犬は立ったり座ったりを繰り返している。凶暴な感じには見えなかったが、パピヨンに噛まれたトラウマがあったため、警戒しながら距離を詰めた。犬の口がわずかに動く。今にも歯をむき出しにするのではないかと身構えた。
 愛機の「ジャック」を取り出した。カメラ越しに向き合うと、不思議と恐怖心が消えた気がした。視線の高さをそろえてシャッターを何枚か切り、カバンに仕舞った。犬を見つめながら胸に手をあてる。ここに怯えが潜んでいるのかどうか良くわからず、犬の確かな目を通して自分の本当の感情を知りたいと願った。

 犬が小さくうなずいた。俺はもう一度中華料理屋に目を向けた。男はビールを飲みながらカウンター内の店主に対して何か叫んでいる。俺は素早く街灯からリードをはずした。
 リードを手に巻きつけて犬を足元に寄せる。歩くスピードはどれくらいが良いのだろうか。はやく立ち去りたいという焦りと、犬のペースに従いたいという気持ちがせめぎ合う。
 柴犬が先に歩きはじめた。どこに行くのか決まっているような迷いのない足どりだ。犬の爪で地面が鳴る。その軽快な音がとても新鮮だった。犬の足音を意識して聴いたのはこれが初めてかもしれない。
 俺は小走りで犬を抜き去り、両手を後ろに回して犬の前を歩いた。そうすると犬は視界から消え、普段と変わらないひとりきりの帰路に戻る。でも耳を澄ませば違いがわかる。後方であの音が小さく鳴り続けている。俺は振り返る。すぐそこに犬がいる。その瞬間、妻との思い出が蘇った。

 飲み会で知り合ったあと、妻と正式に交際する前に何度かふたりきりで会った。あれは終電を逃した彼女のためにタクシーを拾おうとして俺がひとりで先にバーを出た時だった。繁華街を走り抜け、国道沿いの歩道に出た。アルコールのせいで足元をふらつかせながら息を切らして来た道を振り返った。
 彼女は少しも慌てず、ゆっくり歩きながら好奇心にあふれた目で左右を眺めていた。初めて地球を訪れた宇宙人が人間に擬態して街に降り立ち、その夜の美しさに感動しているような仕草だった。彼女の靴音だけがやけにはっきり聴こえた。俺が見落としている世界の秘密について彼女は何か気づいているのかもしれないと感じ、酔いが一気に醒めた。
 あの夜を回想しながら犬を観察する。柴犬はパンケーキのような色合いだ。尻尾は「の」の形にくるりと巻かれ、コンパクトに収まっている。地面の匂いを嗅ぎながら時々身体を揺らしている。俺も犬にならい、自分の鼻に意識を集中する。犬の体臭をかすかに嗅ぎとることができた。
 犬が俺と一緒にただ歩いている。それだけのことなのに、今自分はかけがえのない瞬間を生きているのではないかという想いで胸がいっぱいになった。

 すれ違いざまにこちらに笑顔を向けてくる老人がいる。わざわざ立ち止まり、犬を見つけたことを母親に教える少年がいる。黒い柴犬を連れた人が路地から出てきた時はお互いに驚きあったあと、短く挨拶を交わして別れた。その間もずっと犬の足音は聴こえている。俺は視覚や聴覚や嗅覚など、あらゆる感覚を研ぎ澄ませ、全身で犬の存在を感じていた。
 手を伸ばせば背中に触れることもできた。犬の毛は思ったよりも固く感じたが、なで続けているうちにその適度な刺激が心地良くなり、夢中になった。犬はずっと目を細めたまま俺のなすがままにさせている。尻尾を伸ばすとどうなるのだろうかと試してみたら、すぐに元の形に戻った。
 このまま犬を自分の家に連れ帰っても良いものだろうか。大学生の時にひとり暮らしの自分のアパートに同級生の女の子を初めて招いた夜を思い出した。あの時よりもずっと緊張している。
 トイレはどうするのだろうか。どこでどんな体勢で眠るのだろうか。何を好んで食べるのだろうか。何を快適に思い、何を不快に感じるのだろうか。部屋の温度や湿度はどれくらいを保てば良いのだろうか。汚れた足はどうやって洗えば良いのだろうか。
 犬のことに関しては先輩である友部くんに急いで連絡した。
「犬のことを色々教えてください。よろしくお願いします」
「スプライシングテープの中に入った気泡はちゃんと指でつぶしてね」と返信があった。昼間の映写室で俺が彼に伝えた言葉だ。
「どういう意味?」と送ると、「ひとつひとつ慎重にやるんだよ」と返ってきた。「大丈夫。結構見込みあるから。自信持ってやりなよ」と続く。
 それらは全部、今日俺が彼に言ったフレーズだった。
「まずは犬を信じ切ることが大事」
 今度は俺が彼にもらった言葉を送信した。笑っている犬の顔のイラストが彼からすぐに戻ってきた。

<第九話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。