第十話 「犬があごを乗せる」 | かみのたね
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2020.08.14

 バスルームで柴犬の汚れた足を洗う。慣れない作業のため犬の背中を不用意に濡らしてしまったが、どうにか前足は終えることができた。
 後ろ足に関してはどうすれば良いだろうか。右手の親指のケガのせいもあり、中途半端な支え方になってしまう。犬の右後ろ足を右手で持ち上げ、左手でポンプ式のシャンプーボトルの頭を押し、少量の液体を手のひらに乗せる。それを急いで足の裏にこすりつけようとした途端、犬が激しく動いたため手を離してしまった。犬の濡れた身体から水が飛び散り、俺の目に入った。
 作戦を練り直す必要があると思った。洗面器に溜めたお湯の中に犬の足を入れて立たせ、その場で洗う方法を試すことにした。犬の片足を一瞬だけ持ち上げ、素早く洗面器を滑り込ませる。再びシャンプーを出す。犬の脚の中央部あたりを優しくつかみ、手首を軽くひねりながら徐々に下へ滑らせていく。
 上手くいきそうな感じだった。おとなしくしている犬を見ていたら、妻が戻ってきた感覚があった。なぜそんな錯覚が起きたのかすぐにはわからなかったが、犬から漂うシャンプーの匂いのせいだと気づいた。
 それは妻が愛用していたシャンプーだった。ボトルに目を向けると、「ダメージを受けた貴方の大切な髪のために」と書かれている。ノンシリコンの高価なオーガニックシャンプーだと彼女は言っていた。俺のシャンプーが切れた時に勝手に使うと、ものすごい剣幕で怒られたものだ。どれだけすすいでもミントの匂いが残るらしく、鼻の利く彼女にいつもバレてしまうのだ。
 慌てていたとはいえ、彼女のシャンプーを犬の足を洗うために贅沢に使ってしまい、罪悪感が芽生えた。だが、その懐かしい匂いのおかげで今自分はひとりではないと感じることができた。

 犬に付いた泡をシャワーで洗い流し、タオルで拭いた。ドライヤーをかけるべきか迷ったが、犬自身はその湿った足を気にしていないように見えた。
 犬がダイニングキッチンに向かった。その爪がフローリングの床を鳴らす。犬はあらゆる物の匂いを嗅ぐことで全てを把握しようとしているようだ。
 この賃貸マンションを選んだのは妻だった。物件探しの内覧の時、彼女はいつも最初にキッチンを調べる。設備の古さや使い勝手を気にしているのかと尋ねたら、それだけではないと答えた。前の住人が大切に使っていたかどうかが最も重要なのだという。クリーニングの済んだこぎれいなキッチンでどうやってその痕跡を見抜くのか俺にはわからなかったが、彼女なりの着眼点があるようだった。
 犬が冷蔵庫の前でさかんに鼻を鳴らしている。空腹なのかもしれない。犬用のペットフードを買ってくる必要があるだろう。
 ただ気がかりなのはこのマンションがペット不可の物件であることだ。連れ込んだ時は誰にも見つからなかったが、俺がいない間に犬が吠えたり暴れたりした場合、他の住人に怪しまれ、管理会社に通報される危険性がある。数年前にその手のドラブルがあり、不動産会社の担当者から「絶対に規約を破らないでくださいね」と警告を受けていた。
 犬が椅子の足を何度もひっかいた。何をしているのか最初は理解できなかったが、椅子に座りたいという意思表示なのだと気づいた。椅子を大きくひくと、犬は軽やかに飛び乗り、腰を落とす。テーブルに鼻を近づけ、何かを探しているような仕草をくり返す。やはり食べ物を欲しているようだと察した瞬間、犬と目が合った。

 妻がそこにいると思った。俺と彼女は共働きで家事は当番制であり、夕食の担当もそうだった。彼女は椅子に座り、料理をしている俺をただ眺めながら黙って待っている時があった。
 犬は視線をそらさない。俺はとっさに呼びかけようとした。でも上手く声が出ない。妻のことを何と呼んでいたのかすぐには思い出せなかった。
「今日の夕食当番を忘れていたわけじゃない。ごめん。故障した映写機の修理で残業したから少し疲れていたんだ」
 俺はテーブル上の財布を手にし、外に飛び出した。ドラッグストアにもペットフードが売っていたはずだ。急いでいたら、先ほど犬を連れ去った現場に戻る形になった。中華料理屋の側の街灯周辺に中年の男女と、黒いラブラドール・レトリバーを連れた恰幅のいい若い男性がいた。犬は街灯の根元の匂いを嗅いでいる。
 身体がこわばった。あれは探偵犬だと思った。黒いラブラドール・レトリバーの写真に「探偵」と赤文字で書かれたポスターを街中で見かけたことがあった。
 ジョエル・エドガートン監督『ザ・ギフト』という映画には、犬が誘拐される場面がある。俺はあの映画を家で観ていた時、犬がいなくなったシーンで一時停止し、スマートフォンで検索をかけた。ネタバレすることもいとわずにこのあとの展開を事前に知ろうとした。もし犬に悲劇が訪れて飼い主の元に戻らないストーリーなら、これ以上観るのを止めようと思ったのだ。
 フィクションですら犬が誘拐されることに胸を痛めたはずの俺が、今はその犯人であるという事実に愕然とした。いたたまれない気持ちを抱えたまま横を過ぎる。ラブラドール・レトリバーは俺の動きを追って首を振ったようだが、犬嫌いをよそおい、絶対にそちらを見ないように努めた。

 ドラッグストアで柴犬専用のドライフードを買い、中華料理屋の前を避けて少し遠回りして戻った。
 玄関ドアを開けた時、犬がいなくなっているかもしれないと不安がよぎった。あの眼光の鋭い有能そうな探偵犬がこの場所を突き止めた場面を想像する。
 ダイニングキッチンに入る。柴犬は先ほどと同じ体勢で椅子に座ったままだ。非常に落ち着いている。この犬はもしかしたら大物なのかもしれない。俺はスープ用の皿を二枚食器棚から取り出し、片方の皿にドライフードを山盛りにして、もう片方には水を注いだ。
 犬の背筋が伸び、姿勢がさらに良くなった。その堂々とした態度に感心した。敬意を払いたくなった。給仕になった気分で深く一礼してから、それぞれの皿を犬の前に静かに置く。妻と一緒に暮らしはじめたころは夕食を作って彼女の反応を見るのを楽しみにしていたが、いつの間にか料理が面倒で適当になり、彼女もわざわざ感想を告げることはなくなっていた。
「口に合うかどうかわかりませんが」と俺はもう一度頭を下げた。「手抜きで申しわけありません」

 犬は水をひと舐めしたあと、ためらうことなくドライフードを食べはじめた。慌てることなく奥歯できちんとかみ砕いているのがわかる。しっかり味わっているのかもしれない。
 俺は愛機の「ジャック」を手にして向かいの席に座った。犬が食事している様子を何枚か収めた。犬は全て食べ終えると丁寧に皿を舐めた。皿からこぼれ落ちた粒も舌を伸ばして口に運んだ。俺は皿を片付けた。
 犬は満足したのか、テーブルにあごを乗せて休むような体勢になった。俺も真似てみた。自然と目の高さが合う。俺は「ジャック」をテーブルの端に置いた。犬と俺と「ジャック」が三角形のそれぞれの角になった格好だ。
 このカメラで犬や風景を撮ってきたが、自分自身を写してこなかったことに今さらながら少し驚いた。ファインダーを覗き、犬と自分の位置がフレームに収まることを確認した。セルフタイマーをセットして席に戻り、背中を丸め、犬と同じように再度テーブルにあごを乗せる。
 視界の隅で赤い光が数回明滅する。シャッターが切られるまでのカウントダウンだ。俺と犬は見つめ合ったまま、少しも動かなかった。

<第十話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。