第十一話 「耳が動く犬」 | かみのたね
  • Twitter
  • Facebook
2020.09.11

 食事を終えると眠くなるのは犬も同じなのかもしれない。柴犬はカタカナの「コ」の形で床に寝転んでいる。
 その寝姿を横目で確認しながら、パソコンで「探偵犬」や「捜査犬」や「追求犬」などと検索をかけた。警視庁の警察犬のページにも辿り着き、そこから他の類似サイトも調べてみる。警察犬には直轄と嘱託の二種類があること、足跡追及や臭気選別や犯人確保などの活動内容があること、各都道府県警察の中には警察犬を写真付きで個別に紹介している場合があることなど、どれも非常に興味深かった。
 家の近所で犬たちが一時的に行方不明になる事件が多発しているが、たぶん全て友部くんの仕業だろう。この柴犬はその犯人捜しのおとり捜査としてわざと放置されていたのではないかと急に不安になった。
 警察犬の犬種を紹介しているサイトをもう一度開く。ゴールデン・レトリバーやドーベルマンやボクサーなどの大型犬が主であり、柴犬は極わずかだったが、その狭い枠の中で選ばれた特別な犬なのかもしれない。
 もう一度柴犬に目をやる。犬の耳が動いている。眠っているように見せかけているだけで俺をだましているのだろうか。

 妻に出て行かれてから俺の独り言は増えた。職場では友部くんにたびたび指摘されるが、その時点では全く自覚がなく、自分が声を発していることに気づいていない。俺はさっきキーボードを叩きながら「この柴犬は警察犬で潜入捜査のためにわざと誘拐されたのかもしれないぞ」とあくまで心の中でつぶやいたつもりだった。だが、無意識のうちに声を外に漏らしていて、犬に聞かれてしまった可能性がある。
 探偵犬とおぼしきあの黒いラブラドール・レトリバーだけでも十分脅威なのに、この柴犬が警察犬だとしたら逃げ場はない。
 クリント・イーストウッド監督『運び屋』という映画には、車で麻薬を運ぶ男が運悪く警察犬と遭遇するシーンがある。男は咄嗟に痛み止めのクリームを手のひらに大量に塗り込み、警察犬の鼻を覆うようにして無理矢理その臭いを嗅がせる。犬の嗅覚を混乱させた行動は成功し、無事難を逃れる。
 この局面を乗り切るためには、あの映画の男のように何かしらのアイデアが必要だろう。その答えはシンプルだった。犬をあの場所に今すぐ戻しに行けばいい。
 俺は犬に近づいてお腹まわりを丁寧になでた。こうやって直接触れると、この犬が潜入捜査のような重大な使命を帯びているようにはとても見えなかった。明らかにリラックスしている。手を動かすたびに犬の毛が抜けて指にからんだが、それさえもその存在の確かな証明だと感じられて愛おしかった。

 愛機の「ジャック」で犬を様々な角度から写した。犬はずっと目を閉じたままだ。撮影をしている間にも、この犬を戻しに行くという決意に変化はなかった。
 撮影した写真を確認した。強い喪失感に襲われた。犬はまだ目の前にいるのに、いなくなった未来を思い描いているのだろう。出会ってからそれほど時間は経っていないのに、ずいぶん長く一緒にいた気がした。
 もう一度犬をなでた。シャンプーの匂いが鼻を突く。こんな手つきで妻の髪をすいた時もあったはずだ。犬がのどを鳴らして起き上がった。また犬の両耳が動く。俺は動揺した。油断して独り言をこぼしてしまったのかもしれない。犬の聴覚は嗅覚と同様に人間より優れているらしいから、小さな声でも聞き逃しはしないのだろう。
 胸にひっそりと隠してきた数々の秘密をどの程度この犬に打ち明けてしまったのかわからなかったが、この犬を信頼する気持ちが芽生えたのは、犬が耳を動かすだけで態度や表情を変えないからなのかもしれない。
 犬にリードを着けて外に出る。犬が用を足すかもしれないと考え、ビニール袋に適量のトイレットペーパーを入れ、ペットボトルの水も持った。犬と一緒にいることが特別ではなく、日常的な出来事のように感じた。仕事の疲れもあり、犬の散歩を面倒だと思う気持ちも理解できたし、その感情に含まれるささやかな幸福感も自然とイメージできた。
 犬が立ち止まり、電信柱の根元を嗅ぎはじめた。その様子をしばらく眺めていたため、黒いラブラドール・レトリバーが接近していることに気づくのが遅れた。中華料理屋にいた中年の男女と恰幅のいい若い男性とともに、あの黒い犬がいた。闇にまぎれて存在を上手に消している。やはり探偵犬に違いないと身体がこわばった。

「あなたの犬ですか?」
 中年の男性が声をかけてきた。彼の顔は近くで見ても柴犬にそっくりだった。
「勝手に後ろをついてきたんです。だから一時的に保護しました」
 俺はあらかじめ用意していたウソを披露した。
「やっぱりリードがはずれたんだ。危なかった」と中年の女性が安堵の表情を浮かべ、腰を落として柴犬を抱きしめた。彼女が吐く息にはアルコールの匂いが混じっている。このまま演技を続ければごまかせるはずだ。
「駅前の派出所に行くつもりでした。犬も拾得物の一種ですよね、たぶん」
 そう言って笑おうとしたが、頬の筋肉は動かなかった。ラブラドール・レトリバーの視線を感じたからだ。全てを見透かされている気持ちになり、口元を隠すようにして手でぬぐった。
「良い匂いがする。ミントかな。知らない匂い」と中年女性が犬に鼻を押しつけた。
 若い男性がラブラドール・レトリバーの首元に手を置きながら低い声で言った。
「クリント・イーストウッドの映画で犯罪者が警察犬を匂いで惑わして逃げるシーンがあるんです。なんていう映画だったかな」
 彼は犬の動きを制しているように見える。こちらを疑っていて探りを入れているのかもしれない。

「それは『運び屋』です。映画館で働いているから映画には詳しいんです。犬が出てくる映画って名作が多いですよね。『恋愛小説家』や『スナッチ』、あとは古いのだとイタリア映画の『ウンベルトD』ね。あれはほんと泣けます」
 余計な知識を披露していることに自分でも気づいていた。ウソつきは饒舌になるらしいと聞いたことがあるが、ごまかそうとしているからこそ軽口を叩いてしまうのだろう。
「まあ、いずれにせよ、飼い主さんとこうやって再会できて良かった」
 リードを中年の男性に渡すと、彼は無言で頭をさげた。
 柴犬の尻尾が左右に大きく揺れている。その姿を写真に収めたかったが、今ここでカメラを取り出すわけにはいかない。でも何とかしてこの別れの瞬間を自分の中に強く焼きつけたかった。
 言葉だ。的確な言葉で犬の状態を冷静にスケッチすれば良いのだ。
 思い出せないことに限って思い出したくなるとか、つまらない自意識のせいで美しい場面を不用意に壊してしまうとか、失ってからその貴重さに気づくとか、そういう過ちを少しでも減らさなければならない。後になって哀しくなったり、苦しんだりするのはなるべくもう終わりにしたかった。
 時間を止めることはできないにしても、どうにか形にしていつまでも忘れずにいたい。でも今はまだ言葉が出てこない。犬が遠ざかっていくのをただ眺めることしかできなかった。「また必ず会おうね」と、俺は心の中で叫んだつもりだった。その言葉が俺の口から漏れてしまったのではないかと焦った。
 とても静かだ。人も犬も振り返らない。柴犬の耳だけがかすかに反応したように見えた。

<第十一話・了>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は毎月第二金曜日に更新します。