第十二話 「犬たちの多彩な毛色と毛並み」 | かみのたね
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2020.10.09

第十二話 「犬たちの多彩な毛色と毛並み」

犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作 / 太田靖久, 金川晋吾

 ジャン゠リュック・ゴダール監督『さらば、愛の言葉よ』という映画には、男女の断片的な物語の合間に一匹の犬がしばしば登場する。水辺にたたずんでいたり、雪の上にあおむけで寝転がったり、ソファーでくつろいだりする姿はどれも自然な様子だ。
 ひるがえって人間はどうだろうか。「自然」とは一体どの状態を指すのだろうか。少なくとも自分にカメラが向けられている時には、人はたいてい社会的なふるまいをするのではないか。
 この「カメラ」とは他者と同義なのかもしれない。俺は妻の前では決して自然ではなかっただろうし、彼女もそうだろう。社会的であることによって物事が円滑に進む場合も多いが、時に破綻をもたらすこともきっとあるはずだ。
 その点、犬はとても上手くやっているように見える。人間たちの要望に応えて「お手」や「おすわり」をする社会性を備えている一方、道端でおしゃべりに興じる婦人たちの足元で大あくびをしてそのまま眠ったりしている。その姿はとても自然だ。

「ほら、サモエドやグレート・ピレニーズもいます」
 ぼんやりと考え事をしていたら友部くんが唐突に話しかけてきた。慌てて左右を見る。大小様々な犬たちが周りにいて一緒に歩いている。犬には体躯の違いだけでなく、数多くの犬種があり、多彩な毛色や毛並みがある。それぞれに見た目の特徴や性質の違いはあっても、どの犬もとても魅力的だ。
 この先にはドッグランを備えた大きな公園があり、今日は「犬たちのフェスティバル」と題されたイベントが開催されている。友部くんはこの手の情報をこまめにチェックしていて何度も足を運んでいるらしく、「合法的に犬と接触できて最高ですよ」と俺を誘ってくれた。
 犬たちの服やペットフードを売る店などが出店し、犬種別のパレードがあったり、徒競走や早食い競争などのゲームも行われているとのことだった。
「犬を連れていないと浮くんじゃないの?」と俺は心配した。
「平気です。これから犬を飼おうとしている人を演じればいいんです。犬のことを詳しく尋ねたり触ったりしても不審がられません」
 妻が出て行った冬が終わり、すっかり春の陽気だ。この冬の寒さは特別に身にこたえたから、気候が暖かくなったことで少しは寂しさが紛れた気がした。

「犬も季節がわかるのかな?」と俺が尋ねると、「当たり前じゃないですか」と友部くんが即答した。
「たとえば戌年に気づく犬もいますからね」
「冗談でしょ?」
「戌年の時は初詣に犬を一緒に連れていく家庭がすごく増えるんです。参拝の列に並びながら、『なんで神社に連れてこられたのかな?』ってきっと犬も不思議に思うでしょうけど、カンの良いのは絶対に見抜きます。『あ、これは自分たちの干支がはじまったんだな』って」
 友部くんは時々こんな風に現実と妄想が混ざった話をするが、奇をてらったようなわざとらしさがなく、とても「自然」だ。彼の目から見れば人間と犬にたいして違いはないのかもしれない。
 そんな風に自由な発想で日々を楽しむ術を、俺自身も少しずつ手に入れはじめていた。見落としていた風景のおもしろさに反応できたり、他人とのコミュニケーションを工夫してみたり、新しいものへの怯えが少なくなったのは、あの柴犬と過ごした時間があったからで、明らかに思考が柔軟になった。

 そのおかげだろうか、仕事の突発的な事故やトラブルにもそれほど慌てることがなくなった。それは、自分以外は他者なのだという当たり前の事実に対し、苛立ちよりも喜びが勝っている感覚で、あらゆる偶発的な出来事をおおむね楽しめるようになっていたからだ。
「向こうからもたくさん来ますね。オーストラリアン・ラブラドゥードルやチャウ・チャウも」と友部くんが明るく笑う。
 公園が見えてきた。犬たちが続々と集い、そこを目指している。カートに収まっているミニチュア・シュナウザーが近くにいて、ベビーカーに乗っていた子供時分を思い出した。あのころはいつも誇らしい気持ちだった。風景はいつだって感動に満ちていたし、風の温度で季節の微妙な変化を感じ取ることもできた。
 そんな感覚を完全に失っていたわけではないのだと気づいた。すっかり忘れていただけだ。
 公園に入ってすぐ、両脇にテント式の店舗がずらりと並んでいる。その間をたくさんの犬たちが行き来している。

「犬たちのシャンゼリゼ通りですね」
 友部くんはそうつぶやくと、手当たり次第に飼い主に話しかけ、犬との合法的な接触をはじめた。俺は犬の数に圧倒されて少し酔った感じになり、友部くんと離れ、公園の奥にあるドッグランをひとりで目指した。犬たちの声が四方から聴こえる。心の中で響く心地良いざわめきのようだった。
 ドッグランは比較的静かだった。「犬たちのフェスティバル」には色々な所から参加者が集まってきているのだろうが、ここは常連の人たちだけがいて、いつもとさほど変わらない様子なのかもしれない。
 俺はドッグランの外に設置されている木のベンチに座り、ポケットから愛機の「ジャック」を取り出し、空に向けてシャッターを切った。
「ほら、邪魔しちゃダメ」
 振り向くと秋田犬がすぐ側にいた。その後ろに俺と同い年くらいの女性がいて恐縮している。
「ごめんなさい。カメラが好きな犬なんです」
「撮っていいですか?」と俺は笑顔を返し、秋田犬を何枚か写した。その画像をカメラのモニター画面で確認しているうちに過去にさかのぼっていき、今までに撮った犬たちの姿に見入って、いちいち手が止まった。
「良い写真ばかりですね」
「みんないなくなっちゃいました」

 女性は何かを察したようで硬い表情になったが、「ここのドッグランは初めてですか? 一緒に入りませんか?」と誘ってくれた。俺は秋田犬の背中に触れた。柴犬の足だけでもあんなに苦労したのだから、この大型犬の身体を洗うのは相当大変だろうと想像した。
「犬をなでると安心します」
「新しい犬にきっとまた出会えますよ」
 ドッグランの中には名前の知らない犬たちがたくさんいた。じゃれ合ったり、匂いを嗅ぎ合ったり、追いかけっこをしてそれぞれの方法で楽しんでいるようだったが、フェンス際でじっとしている茶色いポメラニアンだけはこの場になじんでいないように見えた。
 俺は膝を落として両手を広げ、ポメラニアンに向かって呼びかけた。犬はその声に反応してこちらを見たが、動き出しはしない。
 いつまでも待てるように思った。いつまでも待ちたかった。
 犬を見つめながら唐突に引っ越すことを考えた。今度はペットと一緒に住める物件にしよう。犬を飼うかどうかはまだわからないけれど、準備だけはしておこう。
 そんな風に決意したことを、どうにかして妻に知らせたいと自然にそう願っていた。

<完>

「犬たちの状態 犬を通して世界を認識するための連作」は今回が最終話です。
長い間ご愛読をありがとうございました。