第3回:石組の正体 ──他性の濁流をおさめる | かみのたね
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2022.02.24

第3回:石組の正体
──他性の濁流をおさめる

庭のかたちが生まれるとき / 山内朋樹

美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」。庭師たちの石組の始まりを間近で観察してきた前回に続くかたちで、連載第3回目の今回は、作庭現場初日の石組三手目までを順を追って詳細に考察・分析していきます。石組という行為の本質とは何なのか。徹底的に石の流れを見ていくことで、果たしてなにが見えてくるのでしょうか?

 

 石の求めるところにしたがう即興的石組は、石による行為の触発に支えられている。石は庭師の行為をうながすのだ。
 だが、どうやって? 庭師が自らの意図だけで行為していないという直感を持っているのだとしても、どうやって石が働きかけるというのか?
 すでに配置の定まっている初手から三手目までの石の配置を見直してみよう。

三手目までの平面図

 初手に選択された平石は沓脱石くつぬぎいしから見てやや右にずれているとはいえ、ほぼ中央の手前寄りに設定されている。他の石がまだ据えられていない状態で最も面積の広い石をこれほど手前に、しかもほぼ中央に食い込ませる布石は緊張感を感じさせる。
 二手目の大石は平石のやや左奥。平石と大石の二つは広い敷地にたいして奇妙にも中央やや右にかたよっており、敷地全体からすれば均衡を欠いた配置のようにも見える。
 このやけに手前中央やや右側にかたよった布石は三つ目の石でようやく左奥へとのびやかに開き、一時的な安定をえることになる。
 三つの石は右手前から中央奥、左奥へと流れている。大きく見れば三つの石は右手前から左奥への斜線を形成しているようであり、敷地北西隅(左手前)を中心にした緩やかな弧のようでもある。
 とはいえ、以上のような描写からしてすでに混乱したものと映るかもしれない。右手前に置かれた初手の平石がなぜ食い込んでくる、あるいは緊張感があると判断されるのか? なぜ初手と二手目の配置のかたよりは奇妙なのか? なぜ三手目が加わると一時的な安定をえるのか?
 石組の具体的な生成プロセスについてはここではじめて記述するのだからゆっくり進めよう。
 普段はすでにできあがった石組を静的な図像のように受けとることしかできないことを考えるなら、これは石組の発生を理解するチャンスなのだ。いままさに立ち上がりつつあるこの石組にはまだ照合されるべき図像もなく、次の石の配置を形成していく触発の力だけが満ちている。
 庭師として行為する古川は、この自らの布石をどう見ているのか?
 「平べったい大きな石(初手の平石)を結構手前に持ってきて驚いたんですが」──初手の配置についての驚きを伝えた、初日の仕事終わりのやりとりからはじめよう。

「そうやね。それでもうひとつ(大石)置いて重心をつくって。あっちの(鯨石くじらいし)は石の性質が違うでしょ。だからあっちに置いて、それでこっち(大聖院南玄関側)にも置くかな。たぶんね。いや置くな」。

 初手の奇妙さについての問いかけははぐらかされている。あるいは古川は奇妙には感じていない。そして驚くべきことにここでは三つの石だけではなく、初日に置かれることのなかった四つ目の石──こっち・・・の石──が置かれる可能性が語られており、さらに注目すべきなのは、石組に「重心」が想定されていることだ!
 重心!? いったいどういう理路にもとづいて石は据えられているのか?

古川 「まあこういう流れですわ(腕を敷地にたいして南西から北東に向けて振りながら)。動きがほしいからね。それしか考えられないよ」。

 衝撃である。重心が配石にどう作用するのかを訊ねたつもりだったのだが、新たな情報が追加されてしまった。どうやらここでは、庭を貫く直線的な「流れ」が想定されているようなのだ!
 曖昧になってしまった初手の平石についてはあとで語り直すことにして、会話のなかに現れたいくつかの謎──四つ目の石、重心、流れ──について検討しよう。

古川の言葉を聞きながらとった走り書き。左上にのびる矢印が「流れ」。「石の質が違う」と書かれている左上の石が鯨石。中央の重心と書いている二重の円の内側が初手の平石、その左上が二手目大石。この走り書きでは平石を円で括って重心と書いているが、実際は二手目大石も一緒に括るべきだっただろう。右下の「ここにも置くかも」と書いているのが「こっちにも置くかな」と言われた構想上の四手目

 

重心と力の場

 まず、この庭の布石には重心がある。
 石組において重心とはなにか?
 初手の平石に加えて「もうひとつ置いて重心をつくって」という言葉から理解できるのは、庭という場に、いくつかの石によって量的あるいは重量的な中心をつくるということだ。つまり最初の二手は、後に重点的に石組がなされるだろう場所にあたりをつけることを意味する。
 初手の平石と二手目大石はその量感と近接性から見て、この庭の視覚的中心をつくりだすのに充分な存在感を持つ。三手目鯨石はこの重心を足場にして、庭の左奥の隅へと布石を開いたということだ。
 つまり安定した重心をつくりあげた上で、あちらやこちらへと配石をおこなうこと。これが重心の第一の解釈だ。
 しかしこのように静的に解釈すると、「あっち・・・に置いて、それでこっち・・・にも置く」という言葉から連想される、なんらかの必然性をもった展開、あっちそれから・・・・こっちという順序とリズムのある展開を充分に理解することができない。
 あっち・・・に置かれる石は「石の性質が違う」ので重心から遠く打たれたということは理解できるとしても、なぜ次の四手目の石がほとんど一組の対としてこっち・・・へと、重心を挟んで反対側に置かれる可能性が示唆されたのだろう?
 不安定に揺らぐシーソーのようだ。重心という言葉に立ち返るなら、ここで語られた石の順序やリズムは、安定した重心を足場に両側に手を広げることと考えるだけでは不十分だろう。
 順序やリズムを前提とし、あっちに置くとこっちにも置くことになるような必然的展開が生じる庭とは、石をひとつ置くごとに変動する不安定な場として理解すべきではないだろうか? そしてこの庭において石組とは、不安定な場の重心を絶えず探り続ける試みとして考えるべきではないだろうか?
 
つまり庭を、さまざまな物体が相互に作用し、拘束しあう「力の場」としてとらえるということだ。この場が背景となって、次に据えられるべき石の配置もまた制約される。つまり庭師はこの不安定な力の場に触発され、行為をうながされるということだ。
 こうとらえることではじめて、古川が口にした順序とリズムある石組の必然的展開が明確に像を結ぶ。
 この観点からもう一度、初手から布石を見直してみよう。
 右手前に据えられる平石はその見た目の大きさと身体的近接性から、手前やや右側に大きなかたよりをつくりだす(食い込ませる)。庭という不安定な場はこの平石の量感に引きずられて大きく右手前へと雪崩なだれはじめる。つまり初手が打たれたことによって庭という力の場に大きな不均衡が生じたということだ(緊張感がある)。
 それゆえ、次に置かれる二手目大石の位置は必然的に中央より奥へと追いやられる。均衡をとり戻すにはその位置は左にずれるはずなのだが、ここで均衡を完全に回復する中央やや左奥に石を打たず、二手目を打ってもなお、場は以前として右手前にかたよるような位置に大石が打たれる(奇妙)。
 この不安定なかたよりをしずめるには大きく左へ、しかも平石と大石の量感からすれば、それなりの大きさの石を左奥に遠く外して打たなくてはならない。この距離を前提とするからこそ、古川は丸みを帯びた「石の性質が違う」鯨石を選択した。右手前に雪崩れつつある力の場を背景に、鯨石は大きく左奥へとはずして打たれることになる(一時的な安定をえる)。
 いま、三手目の鯨石が打たれたことで布石が一時的に安定したかのように書いた。しかしそれはあくまで沓脱石付近から見た範囲での庭の話だ。というのも、古川が示唆していた四手目の「こっち」の石は、沓脱石付近から東側の石組を眺めてもほとんど視界に入らない場所に想定されているからだ。
 つまり石組は、視界に枠づけられた構図のなかで完結することはない。石組は、石を置くことで庭の領域そのものをも切り開き、その不定型で不安定な場のなかで変動する重心を探り続ける試みである。ひとつの石は背景となる力の場との関係から次の石と結びつき、新たな布石がまた次の石を要求し、この場に巻き込んでいく。
 この意味で庭づくりとは、ひとつの物体が置かれるたびに変動する不安定で不定形な場に、新たな物体を次々と連鎖させつつ巻き込ませていくことであり、庭とはその結果として残る物体の配置のことだ。

 こうして石組がまさにつくられつつある現場では、平生のわたしたちがそうするように、石組を「三尊石」や「虎の子渡し」や「鯉の滝登り」といった図像的理解に還元することはできない。
 たしかにある物体や、ある物体の構成が、なにかに見えてしまうということはあるし、石が多くなると作業中に「あの石」と言ってもどの石のことかわからなくなる。だから三手目の丸みのある石が鯨石と呼ばれているとおり、この現場でも特徴的な石には動物その他の呼び名がつけられた。
 しかしこうした図像的理解は、この変容する力の場にひとつひとつの石がどう結びついているか、あるいはその物体の構成がなにをしているかについては、なにも教えてはくれないのだ。

 

流れ

 次に注目しておくべきなのは布石の流れだろう。
 南西隅から北東隅へと斜めに走る石の流れ、これは大聖院庭園の石の配置にかかわるきわめて重要な示唆である。現状三つの石の配置は古川の言う流れを想定すればある程度理解できるからだ。
 この点を意識して布石を確認すると、現時点では必ずしも明確ではないものの、三手目の鯨石の姿がこの流れに沿った線的形態として据えられていることがはっきりとわかる。視覚的足場である沓脱石から見て、鯨石が小さく見えてしまうとしてもあえてこの角度で据えるのは、この流れの構想が布石に強く関与しているからだ。

二日目の作業後に流れの北東隅から撮影した鯨石(一番手前の丸みを帯びた石)。流れに沿った線的形態がはっきりとわかる。鯨石の右隣の低い小さな石は実際の──構想上の、ではなく──四手目

 ひとたびこの流れを意識すると、鯨石の線的形態の延長線上に二手目の大石があることに気づく。たしかに初手の平石と構想上の四手目のこっちの石・・・・・はこの軸線からは外れていた。しかし実際の布石の展開を追うと、布石全体と流れとの関係はより明確になる。
 構想上の、ではなく、実際の四手目は鯨石の補足となる軽い手だった。これはおそらく鯨石を流れに沿わせたことで沓脱石から見たときに広がりがないと判断されたからだろう。この辺りに石の広がりをあたえ整えるための一手だ。
 むしろ次いで打たれた五手目こそが、古川が口にした構想上の四手目に対応する石だろう。

左上に向かう線が古川の示唆した流れ。三手目鯨石の線的形態が二手目大石と結びあったことで、初手の平石と二手目大石に構想上の四手目を加えた流れが屈折した。それゆえ構想上の「こっちの石」は位置を変え、五手目として実現していることに注目したい

 五手目は、あっちの鯨石・・・・・・に対応するこっちの石・・・・・として鯨石と二手目大石を結んだ流れの上に据えられた。こうして初日の二手目、三手目、翌日の四手目、五手目と、四つの石が流れに沿って展開したことがわかる。
 三手目の線的形態によって突如顕在化したようにも思われるこの流れはどのように定まっていったのだろうか?
 ここでは、流れの形成に作用したと考えられる、偶然とも必然ともとれる二つの仮説として、北東の隅石とサツキの収束をとりあげておきたい。
 この流れの南西の端は大聖院玄関付近にあたる。そこから見るとこれらの石がほとんど一列に連なっていることが分かるのだが、とはいえ流れの一方が玄関に突き当たっていることをことさら強調するつもりはない。少なくとも作庭中に古川はその周辺から見ることはあっても玄関に立つことはなかったからだ。
 しかし、この流れを玄関とは反対側の北東方向に辿って気づいたことがある。驚くべきことに、鯨石の背後のサツキの足元に、これまで見えていなかった既存の景石、つまりはもともとここにあった過去の景石のひとつがある!
 これが北東の隅石である。

中央奥の丸みのある石が鯨石。その右奥のサツキの下に「北東の隅石」が見える。写真はやや石組が進んだ二日目に撮影されたもの

 多くの既存景石が肥大化したサツキの木陰に隠れているなかで、この石は比較的目立つ位置にある。古川が示唆した流れの軸線上に既存景石が出てきたことは偶然なのだろうか?
 この石についてはあとでもう一度立ち戻ることにして、いまは流れにもうひとつの重要な文脈をもたらしていると思われるサツキの収束について確認しておきたい。
 この庭のなかで最も目立つ対象のひとつになっているサツキの刈り込みは東側の土塀沿い、過去の石組に沿って並んでおり、これらがそもそも既存石組に添えられた低い刈り込みだったことを想像させる。いまや過去の石組を覆い隠し、庭の中心的な視覚的対象になってしまったこの丸物は、大きくなりすぎたために相互につながり、ほぼひとつの雲のような有機的量塊となって庭の真正面に漂っている。
 しかしよく見ると不思議なかたちだ。その形態は右(南)に行くほど膨張し、左(北)に行くほど収束していく。左へ行くほど低くなり、かつ奥へと後退していくこの特徴的形態は、左奥隅へと収束する視覚的印象を強くあたえる。
 この形態がつくりだす左奥への収束はこの庭に現実的な力を及ぼす。この収束が、古川が想定する石の流れとほぼ同一の方向性を持っていることは、流れの構想にひとつの文脈をあたえた可能性を示唆するだろう。

北極星のように流れの先を示す「北東の隅石」。緑の線で記しているのがサツキの収束

 北東の隅石もサツキの収束も偶然的なものかもしれない。しかしそれらが持っている形態の力は実在的だ。ようするに流れの構想もまた、個々の石と同じように、この行為を触発する力の場によって形成されたのではないかと考えられる。

 ここまでが、初日に決定された三つの石を詳細に追うことで理解できたことだ。これら三つの石を理解するために作業二日目に打たれた四、五手目やすでにこの庭にあった既存石組やサツキの刈り込みについても考察したが、基本的には初日の決定の理解がその中心を占めている。
 前回と今回の連載では、古川が引いた『作庭記』の「こはんにしたかひて」つまり、石の「求めるところにしたがう」が意味するところを探求してきた。この言葉は行為を触発し、次の一手を拘束する「重心」や「力の場」によってよりよく理解することができただろう。
 次に、この庭には「流れ」の構想があったのだった。この流れを想定することで、これまでに配されたいくつかの石の具体的配置の理由が明らかになっただろう。この流れは個々の石を律する重心とは関係がないだろう。しかし既存石組やサツキの大刈り込みなどの形態がかたちづくる力の場に触発されて形成された可能性は残る。つまり流れもまた重心と同じくこの行為を触発する力の場に規定されているということだ。
 『作庭記』の記述、「重心」や「流れ」という古川の言葉、実際の作庭プロセスをもとにして、ぼくたちは初日の作庭現場に渦巻きはじめた力をいくらかは見透しはじめている。しかし、このはじまったばかりの作庭作業がはじまるよりも前、つまりは初手が打たれる以前、古川がはじめてこの場に立ったとき、ここに触発の力は、力の場は、存在したのだろうか?
 先ほど指摘した北東の隅石とサツキの収束がそのヒントになる。この二つの要素は初手が打たれる以前からこの場に渦巻いていたかたちの力だからだ。では、実際に布石の連鎖が開始された初手の平石はどういった力を背景に打たれたのだろうか?
 そういえば、初手の奇妙さについての問いも、先の会話でははぐらかされたままになっていた!

 

へそ石と二連

 大聖院庭園に搬入された石の多さに混乱し、初日の作業中には気づくことができなかったのだが、作業二日目となる翌四月八日、この庭のほぼ中央付近、平石のやや左奥、大石の手前あたりに、実は低くて小さな既存景石があることに気がつく。
 他の既存景石が基本的には東側土塀沿いに並ぶなかで、なぜか庭のほぼど真ん中といってもよい地点に、目立たない石がたったひとつ、孤立してあった。

中央の低く小さく見える石がへそ石

 庭のへそとでも言うべき地点に据えられていた石──「へそ石」と呼んでおきたい──が、もともとの庭のなかでどういう位置づけにあったのか、いまとなってはわからない。ともあれ、ここで重要なのは既存石組にはまったく関心を示さない古川が、この石のことだけは明確に意識しており、石組がはじまる「きっかけ」になったと考えているということだ。

「あれはきっかけだよね。あれがあるからはじめられるっていうかね。ぼくが据えてないでしょ? だからぼくのクセがないんだよね。遊び心でもあるし」。

 「あれがあるからはじめられる」との言葉からは、古川にとってへそ石が大きな意味を持っていたことがわかる。にもかかわらず、この石がその後打たれたすべての石の連鎖の「きっかけ」になっているという事実については、この騒然とした現場のなかでは多くの職人が見落としていた。この現場で最も経験豊富な職人、竹島幸代とまだ若い鷲田進の会話を聞いてみよう。

鷲田 「この庭はなにかイメージあるんですかねえ?」
竹島 「あの小さい石がスタートなんよね。」
鷲田 「え、あの平べったいの(初手の平石)じゃなくて? あの小さいの?」

 初日、古川に初手の奇妙さについて訊ねていたが、その返答は曖昧だった。古川が「こはんにしたかひて」石を据えていくのであれば、そもそもその初手はどうやって決まるのか、この庭の場合、初手の平石はどういった力に触発されたものなのかがわからなかった。
 ようするに、まだひとつも石が据えられていない無風状態の庭で、初手はいったいなにに乞われるのか?
 
たしかに石を据えはじめる前に北東隅に向けて収束するサツキの形態はあった。しかしサツキは流れの構想に影響をあたえたとしても、初手の平石の配置に関与したと考えるのは難しい。
 しかしいま、へそ石の存在が明らかになり、この小さな石が布石の「きっかけ」になったことがはっきりとした。つまり、新たな布石の背景にはより古い布石がつくりだす力の場があったということだ!
 
再度布石を見直してみると、構想上の四手目──こっち・・・の石──を示唆した南西の建物脇付近にも既存景石が二つある。これらの石は古川が半年程前、アジサイを移植しに来たときに据えたものだという。この二つの石はセットで据えられているがゆえに二つでひとつの線のように見える──「二連」と呼ぼう──のだが、この線を延長すると興味深いことにへそ石に連なっている。そして初手の平石は、このへそ石と二連の線上に打たれているのだ。

黒で塗りつぶされているのはすべて既存景石。北東の隅石、へそ石、二連の位置を確認しておきたい。

 もちろんこの一致もまた偶然的なものでしかないのかもしれない。しかしこれら既存の景石が、この庭をまっさらな白紙とはほど遠い状態にしていただろうこともまたたしかだ。
 北東の隅石、中央のへそ石、そして南西の二連──これら既存景石のなかでも目立つ四つの石は、古川が示唆した南西から北東への大きな流れの構想とはやや角度が異なるものの、ほぼそれに沿っている。最終的に古川が意図することになる流れはやや角度を変えて別様に実現されたのだとしても、当初からこの庭には潜在的な流れがあり、この流れが屈折することで最終的な流れが形成された可能性はある。
 過去の他者が据えたへそ石や北東の隅石、半ば他者でもある過去の古川が据えた二連は、作庭工事前のこの庭に無言の他なるものの力の場をつくりだし、作庭現場に立つ古川を、新たに据えられる石を、陰に陽に拘束する。
 あらかじめ存在した流れは二連から緩やかな弧を描きつつへそ石を介して北東の隅石へと抜けていた。この暗黙の石の流れとへそ石に触発されて初手の平石が置かれる。右手前に雪崩れる重心をとどめるために中央奥やや右よりに二手目の大石が置かれる──。
 この二手目が、あらかじめ存在した流れから、のちに実現する鯨石から五手目の石にかけての流れへと屈折する支点になっていたことが、いま、遡行的に・・・・理解できる。
 初手の平石、二手目の大石によって右手前に傾いた不均衡を回避するために、丸みを帯びた鯨石を左奥の北東の隅石の手前に据えた。線的にとらえることもできるこの鯨石の角度がサツキの下に見える北東の既存景石と二手目の大石をつないで線状になったとき、流れの屈折は決定的なものになった。それゆえ、二連付近に打たれるはずだった均衡のための石──こっちにも置くかな──は、大石を挟んで鯨石と対称的な位置に配置されることになった。
 流れは当初から潜在していた。しかし、石組がはじまる以前の段階では、それは未だ分散した配置でしかなく、流れではなかった。二手目の大石を支点に布石が屈折し、鯨石と北東の隅石が大石と結ばれることで流れが顕在化し、そうしてはじめて、事後的に、北東の隅石やへそ石や二連といった既存石組が流れだったと理解されるのだ。

 

他性による触発

 初手の平石は、それゆえ、初手ではない。
もちろん古川という現代の庭師がいままさにつくろうとしているこの庭のなかでは、平石は創設の石である。しかしこの創設の身振りは同時に「件名をかえて保存」することでもあり、あらかじめそこにあった無名の庭師たちの布石に触発され、その無言の力の場のなかに巻き込まれていくことだ。
 平石はそれゆえ、初手にして、少なくとも五手目の石である。
 
「ぼくが据えてないでしょ? だからぼくのクセがないんだよね。遊び心でもあるし」──。既存石組は、過去の他者がこの場に刻みつけた触発の力だ。すでに置かれた石やサツキの形態が構想に作用するように、過去の他なるものの力もまた石組に関与することになる。作庭に参与するこれらの他者や石や植物を総じて「他性」と呼ぶならば、古川の言葉からは、石組の根底に、むしろ積極的にこの他性を迎え入れようとする態度が感じられる。
 この他性こそ「こはん」の主体ではないだろうか?
 それは実際に他者が過去に据えた石かもしれず、最初から庭に露出していた岩盤やこの場をかたちづくっていた地形や植生かもしれない。そうした与件は、いまここに、新たな石組を創設するという企ての無根拠さを覆い隠す、偶然あたえられた場の肌理や摂理である。へそ石も、北東の隅石も、サツキの収束も、この意味で偶然的なものでしかない。
 石はなにもないところに突如として置かれるのではない。つまり作庭行為は決して「無からの創造」ではない。石はつねに潜在する物体や場の特性がひしめきあう偶然的な力の場のなかに置かれるのだ。
 へそ石はまさしくこの偶然性を象徴している。とはいえへそ石は、布石のきっかけではあれ、きっかけに過ぎない。ひとたび布石の連鎖がはじまってしまえばとりたてて意味のあるものではなくなってしまう。布石の連鎖がはじまれば、へそ石はもはや据えかたを変えてしまっても、場所を変えてしまっても、なんならとり去ってしまっても構わないものになる。竹島と、同じく職人の杦岡章の会話を引こう。

杦岡 「さっき、また(へそ石は)変えるかもって(古川さんが)言ってたけどなあ」。
竹島 「最後にはなくなってたりして」。

 石の求めるところにしたがうと説明される石の配置はどのように決定されていくのか? それが前回と今回の連載を貫くひとつの問いだった。この問いに、ぼくたちはいまやこう答えることができるだろう。
 石を据える行為は、あらかじめ庭に満ちている他性に、つまりは偶然的な力の場に触発され、そこに介入する行為である。石を打つたびに変容する不安定な関係のなかに発生する触発の力は次の石の配置を強く拘束し、それゆえ庭師に自分ひとりで決定しているのではないという直感をあたえる。
 これがこの現場の観察から引き出される「こはんにしたかひて」の正体だ。
 この力の場において、ひとつの石が配されるごとに場の重心は揺らぎ、新たな流れや並びが形成され、あるいは打ち消され、ふたたびつくられる。言い換えるなら、いま据えられるたったひとつのこの石は、他の石や場がつくりだす関係を参照し、そこに巻き込まれているのであり、すでに据えられている石もまたそれ以外の石がつくりだす無数の関係に拘束されている。普段、できあがった庭を見ているときには意識することができないが、いま目の前で編まれていく布石全体は、一手置かれるごとに新しいものになる。
 こうして相互に参照しあい、拘束しあうことで、そもそも偶然的な他性によりかかってたどたどしく開始された石の配置は、ただの石から石組と呼ぶことのできる、しかしいまだ仮設的なものでしかない配置へと変容していく。子どもたちが小さな足場を結びあいながら川の瀬に架けたあの橋のように。
 石組はこうして決まっていく。作業初日の午前中、ぼくが次々搬入される石の量に圧倒されていたとき、古川はこう言ったのだった。「石はそんなに多くないよ。いまは多く見えるけどね。関係性ができてくるとね」。
 ここで古川は、石組とは荒々しい石相互のあいだに関係をつくることだと言っているのであり、関係をつくることが荒ぶる物体の濁流を鎮めることだとさえ言っているだろう。のちの古川の言葉にしたがえば「おさめる」あるいは「かたづける」ということになる。
 偶然的な他性がぼくたちを触発する。他性が石を乞い、次々に石が配されていく。まだ安定しない庭の表にはおそらく他性の濁流が渦巻いている。
 この力の場をおさめる・・・・とは、つまり庭をつくるとは、いったいどういうことなのだろうか?
 しかし、いまはまだたった数個の石が据えられたに過ぎないのだ!

初日夕刻、片づけが終わったあとの現場写真。まだ三つの石の配置が決まり、穴が掘られたに過ぎない(右側の穴は初手の平石のための穴)。すでに多くを語ったが、前回と今回の分析はほぼこの時点までの観察から導かれた。作庭作業はほとんどはじまってさえいないのだ。

(第3回・了)

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2022年3月22日(火)掲載予定