徹底的に庭を見よ! 美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした新しいかたちの庭園論。京都福知山の観音寺にある大聖院庭園作庭工事のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」。連載第7回は、第一期石組が終わった際の石組に対する住職の前回(連載第6回)の言葉により、ひと段落した石組がほぼ解体・再構成されたことをめぐる思考から始まります。
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「あの裏切れ込んでるやつは人工的違いますか、どうなんですか?」──こう問いかける住職の言葉から、中央の石組は劇的な変化を遂げることになる。
第一期石組で据えられた石はすべて、ある程度の姿を定めた上で仮置きされているだけで、いまだ確定していなかった。もちろんそうした事態は十分に予想されたことだが、この出来事を前に、あらためて「つくられつつあるもの」の不安定さに直面することになった。
こうして今後も変更が重ねられていくのだとすれば、石の姿形や位置がいまだ決定的ではないこの段階で布石や形態間の関係を分析するのは早すぎたのではないかとの思いに囚われてしまうからだ。
しかしながら、これまで書いてきたように、制作プロセスのなかでは仮置きの物体もまた制作者の判断に強く作用するのだった。裏返して言えば、むしろ判断に作用するからこそ、積極的に仮置きがなされる。
そもそも石を組むことは川に石を投げ入れる子どもたちの試みに等しいものだった。投げ込まれた石のありかたが子どもたちを触発するように、ひとたび置かれた石は庭師たちを触発し、次の石を要請する。仮置きの石は最終的な位置を変えるにしても、まずは置かれた石を足場にして石組は開始される。仮置きだとしてもその石に次々と石が編み込まれることで、石と石はより緊密に結ばれ、川面に顔を出しはじめた子どもたちの石のように、配置としての布石──橋──は相対的に安定したものになっていく。
延段の作業もそうだった。庭とはたしかな根拠、たしかな基準の上に打ち立てられるものではなかった。ひとたび線が引かれると、線はそれを見つめた庭師たちを拘束し、相互に結びつける。足で引かれた線は石を据えるために掘り下げられて下地に変わり、下地は実際に石が放り込まれることで仮置きになり、実のところ少しずつずれながらも次第に安定した構成へと変換されていく。たどたどしかった仮の線は周囲の物体の配置と折衝され、人々の意図を折り込みながら相対的に安定していく。
この推移の詳細を追うのが本稿の目的だろう。
それは目的地に到着したあとでその旅程について取材するのではなく、出発の日からつきまとい、旅行者たちがどのような判断や作業を積み重ね、どんな経路で、どんな手段で、町や田舎や山や海を横切っていくのかを描き出すということだ。目的地への到着はたしかに記念碑的だとしても、振り返ってみれば旅のピークは道行きに生じる無数の出来事のひとつに過ぎないものだろうし、終着点はトラブル続きの旅の成りゆきで異なるものへとずれてしまっているかもしれないからだ。
石の配置や組みあわせがどのようにかたちづくられていくのかを追跡するこのフィールドワークでは、作業のひとつひとつがその都度どのような仮のかたちをつくりだしているのか、その仮のかたちをもとに庭師たちがどのように動き、話し、判断しているかにこそ注目する。いま分析している布石が最終的な庭にその跡をとどめてないとしても、仮に置かれた石は、後続の、より多くの要素に結びつけられ、また別の仮のかたちをつくりだしていくはずだからだ。
いま、手元には膨大なメモと写真がある。ひとたびできあがってしまえば判断の根拠もろとも消えてしまう制作の現場の詳細なプロセス──これを明らかにすること、それこそがこのフィールドワークの狙いである。
第二期石組
作業六日目となる四月十五日から、第一期石組で据えられていた石、とりわけ中央の変形三尊石部分——連載第6回で二つの組が対を形成しているとして分析した箇所——のいくつかが覆される。この配置換えからはじまる新しい布石の系列を第二期石組と呼んでおきたい。
変更のきっかけは延段の段差と同じく、二手目大石にたいする住職の言葉にある。しかし住職の言葉にも、古川の配石の変更にもまた、仮置きされていた無数の石からの触発が強く作用していることに注意しよう。
住職の指摘のとおり、沓脱石付近から見ると複雑な表情を示す二手目大石も、裏面は切断されたかのように真っ平らな面となっている。この真言宗の僧は、庭の石組を東寺講堂に安置される立体曼荼羅、《羯磨曼荼羅》に喩えつつこう評した。
「片方から見てええ(良い)んじゃなくて、こっちから見ても、こっちから見てもええ。四方から見て整っとるんがええいうのが(ええんです)。庭もこっち隠したらええというんやなくて四方良しというのがええんです。」
その結果、四月十五日から石組の核心部──二手目大石を中心に変形三尊石風に安定していた中央の四石──に大きく手が入れられることになる。「気にいらんやったみたいやからね」──古川は笑う。
この配置換えはほとんどが石の配置換えであり、全体の布石からすれば些細な変更にも思える。しかしながら連載第6回でも詳細に論じた、石同士に「関係ができてくる」という古川の言葉を理解する上できわめて重要な局面となっており、かつ、以後の石組の展開そのものを大きく左右する分岐点にもなった。
詳細に検討しよう。
まず住職から指摘のあった二手目大石──これまで主石の位置を占めていた──に手がつけられる。大石が掘り起こされ、対を形成していた六手目の石と交換される。二手目大石はもちろん住職の指摘した「切れ込んでる」平らな面が底になるようにして据え直された。この配置と姿形を変更された大石を十三手目として扱おう。
次に脇に避けられていた六手目の石が、十四手目として二手目大石のあった位置に移される。二手目は六手目の位置に、六手目は二手目の位置に据えられた。ようするに二石の位置が交換されたということだ。

十四手目まで。二石の位置が交換される。
二つの大石の交換にともない、十一手目も十五手目として姿形を変えて奥に移され、十一手目があった場所に新しく十六手目の石が据えられた。

十六手目まで。十一手目が十五手目として十四手目の左奥に、十一手目があった場所に十六手目が据えられる。
十三手目はもともと二手目大石として主石の座にあったが、この配置換えのあともその屹立した形態と量感からいっそう強い石となり、あらためて主石の地位を手に入れたように思われる。もちろん位置の重要性からすれば中央付近を占める十四手目が主石とも考えられるのだが、その形態の特異性と量感からすれば十三手目には届かないだろう。十三手目を見た住職がこの石を「獅子」と名づけたことからも、その屹立した存在感は明らかだ。
この新たな主石については後ほどあらためて検討するとして、ここではまずその他の石について見ておきたい。
十四手目はなぜこのように据え直されたのか? 十一手目はなぜそのままではなく、十四手目の左奥に移動させられたのか? なぜ十一手目があった場所に十六手目が加えられたのか?
十四手目はこの石が六手目だったときの立ち姿はほぼ変わらず、もとの位置からスライドしてきただけのように据えられている。これはつまり、『作庭記』の言う「看所」、ようするに最も見せたい面がはっきりしているということだ[1]。次いで十四手目の左手前にあった十一手目が十五手目として、姿を変えて左奥へと移される。
連載第6回目で詳細に論じたとおり、そもそも二手目大石と十一手目は稜線その他の内的反復によってひとつの組を形成しており、この組が右隣の組とも複雑に呼応しあう対関係を結んでいた。だとすると十一手目が変更されたのは、二手目大石の代わりに据えられた十四手目や、六手目の代わりに据えられた十三手目との呼応関係を形成できなかったからだと予想できる。
十四手目までの段階を見てみよう。

十四手目までの布石。手前の石群の多くは運び込まれたときのまま置いてある。左側の人物足元から右へ十一手目、十四手目、七手目、十三手目獅子石。石相互の造形的結びつきが中央二石の山なりの稜線を除いてほとんどなくなっている。にもかかわらず、十一−十四、七−十三の組みあわせの大小や輪郭は重複といってもよいほどに単調なものになっている。
十一手目は変更前の二手目大石のとりわけ緩く右に上がる稜線と協応するように据えられていた。ところが十一手目と新たに据えられた十四手目のあいだには明示的な反復はなくなっている。もちろん、そこにも暗示的な右上がりの線を見てとることはできる。しかしながら、とりわけ組七−十三では内的反復が消滅し、組が組でさえなくなってしまっているだろう。
さらに、かつて組と組のあいだに幾重にも張り巡らされていた稜線や面の共鳴的反復は七、十四手目の山なりの稜線や十三、十四手目の右手前の面の方向性などを除いてほとんど失われてしまった。
最も重要なのは、十一、十四手目、七、十三手目をそれぞれひとつの形態として見た場合、これら組相互の関係があまりに似かよって単調に見えていることだろう。ようするに、これら四石は古川の言葉で言うところのリズムある反復というよりは、ごたごたした重複に近づいてしまっている。
それゆえ変更が重ねられる。十六手目まで進んだ様子を見てみよう。

十六手目まで進んだ中央石組。山なりの稜線の反復が白っぽい苔のついた七手目からその左の十四手目、十四手目の左奥の十五手目、左手前の十六手目と波及している。七手目の右が十三手目獅子石。
まずは十一手目の位置と据えかたが十五手目として変更された。十四手目までの状態からすれば、この変更の趣旨は第一に四石のごたごたした関係を整理することにあるだろう。
十一手目とその配置換えである十五手目を比べると、まず稜線の形状を変更していることがわかる。つまり十五手目の山なりの稜線は十四手目の稜線との関係を、つまりは組の関係を回復する一手であることがわかる。変更前の組六―七の関係を組十四−十五として別様に回復させたということだ。
しかしながらこの山なりの稜線の反復は、七手目の稜線の形状とも重なってしまっており、ともすれば単調な印象をあたえるものでしかない。とはいえ、十三手目獅子石の屹立した存在感は以前のように安定した二つの組同士による対関係を拒絶しているため、孤立した七手目を十四、十五手目に近づけることで対構造を解体し、中央石組を屹立する獅子石と複数の山なりの稜線の石群という構成に変容させたと考えられる。その代償として中央石組にはかつての変形三尊石的な図像的まとまりはなくなっている。
かつてこの中央石組が変形三尊石風に安定していたのは、中央二手目大石の高さや量感、右下段に控えた六、七手目とともに、主石の左下段に低く構えることで構図を安定させていた十一手目の存在が大きかった。十一手目が左手前に出ることで左奥へと後退する布石の流れを部分的に断ち切り、中央四石を変形三尊石という図像的まとまりとして領域化していたからだ。
しかしこの十一手目が十五手目として流れの上に移されたことで中央石組は鯨石側へと開かれる。十六手目以前の段階では、十一手目は右隣の七手目、十三手目と同じく左奥へと後退する流れにあまりにも沿ってしまっている。

写真は十六手目が打たれた直後のもの。十六手目がまだ打たれていない状況を想定して見れば、中央石組が画面外右側にある五手目から左奥の三手目鯨石へとあまりに単調に整列していることが確認できる。
十一手目に代えて据えられた十六手目は、この布石上の単調さを切り崩す要の石であり、同時に連載第6回で指摘した、流れにたいして斜交いに切り込む短い線の反復の印象を回復する一手である。
たしかに十六手目には十一手目ほどの領域化の効果はなかったし、十四手目も二手目大石と比べれば求心力に欠ける。主石が右端にずれたことで中央石組はいまや位置的な中心性こそあれ、かつてのような図像的なまとまりや対構造を持つことができないでいる。
しかしながら、この印象は以前の変形三尊石と比較しているからに過ぎないのではないか? いま目の前で繰り広げられているのは、これまでの配石とはまったく異なる性質を持った、新たな布石の系列なのではないだろうか?
後に展開された布石を辿った後であらためてこの地点に立ち返るなら、つまりは遡行的に振り返るなら、十六手目はそれほど軽い手ではない。というより、それほど軽い手ではなかったということになる。
というのも今後、この小さな石が起点となって、この庭の布石に新たな流れがつくりだされていくからだ。
斜交いの流れの発生
第一期石組では、まずは大きな布石として庭を斜めに貫く流れがあり、次いで沓脱石付近の視覚的足場から見た中央部分に安定した変形三尊石構図があり、流れに斜交いに切り込む四つの短い線が流れへのカウンターとなることで庭全体の布石が形成されていた。
ところが二手目大石と六手目の交換にはじまる第二期石組では、やや右寄りの位置により強い主石——十三手目獅子石——が現れ、流れを部分的に断ち切っていた十一手目も流れの上に移動した。この変更によって変形三尊石構図はキャンセルされ、流れにたいし斜交いに切り込む配置もほとんど解体されてしまった。
このタイミングで、もともと十一手目が占めていた位置に打たれた小さな十六手目の石は、石の方向性と左隅が落ちた形態によって十一手目とは比較にならないほど明確に北西(左手前)方向を指し示す。この石は、これまで石の配置と高低差が暗示していただけの斜交いの線を、もうひとつの流れとして先鋭化する。
先ほど、この十六手目は遡行的に振り返るなら軽い手ではなかったと言った。それは、この石が決定的なものにした新しい流れが、以後の布石を支配することになるからだ。
十七手目から十九手目までの布石を確認しよう。
まずは十三手目獅子石の右手に小ぶりな十七手目の石──住職によって「雛」と名づけられる──が打たれる。この石は住職の言う「四方良し」を実現するための手だ。つまり南側から見たときの十三手目の切り立った平滑な印象を和らげ、中間的な高さと水平の天端によって周囲の石と馴染ませる意図があるだろう。次いで十六手目が先鋭化させた北西方向への流れと平行するように二つの石が打たれる。黄みがかった十八手目、景石としてはあまりにも扁平な十九手目──その特殊な形から古川に「四国」と呼ばれた──である。

十九手目まで。十六手目が指し示す流れに平行して展開する十八、十九手目。
十八手目は色調とチャート特有の石質や形態の点から、十九手目は切石ほど平らな形状から、中央景石群から疎外されたカテゴリーとして遠くに打たれたと思われる。これは以前指摘した鯨石と子鯨石、あるいは五、九、十手目が中央から外されたのと同様だ。
さらに言えば十九手目四国石は、形態的に奥の景石群ではなく、むしろ手前の園路に使用されている平石──北西隅のコンクリート舗装の角に据えられた平石や、延段の沓脱石前に据えられた平石──に近い。景石のなかでももっとも手前に位置する十九手目は、より手前にある建築から中間の園路を抜けて奥の庭までを、切石−平石−景石とつなぐ意図があるだろう。
しかし十八、十九手目の石はたんに中央景石群から疎外されたり、建築と庭をつなぐためだけに打たれた布石ではない。この二石は園路を構成する北西隅の平石に向かって明らかにひとつの流れの上に連続しており、八手目や十三手目獅子石をも貫いているからだ。
つまり、かつて古川が示唆したこの庭を貫く流れに交差し、南東(右奥)から北西(左手前)方向へと逸出する「斜交いの流れ」の発生である。
今後混乱がないように、古川があらかじめ構想を語っていた鯨石から主石群を抜けて五手目を貫く流れを「第一の流れ」、この流れにたいして斜めに切り込むように発生してきた新たな流れを「斜交いの流れ」あるいは「第二の流れ」と呼ぶことにしよう。
十六手目と十八、十九手目は同じ軸上にはない。しかしながら石の連鎖は十六手目を端緒とする斜交い方向の流れを強化している。ここから遡って、十六手目が布石の方向性を決定づける手だったことがわかる。
しかしながら、これほど小さな石が、十一手目の移動によって解体されてしまった斜交い方向に向かう布石を再活性化させ、庭全体を支配する第一の流れに逆らう力があるとは思えない。
しかしそう見える。そう見えてしまう。
もちろん先に指摘したとおり、もともとこの位置にあった十一手目に比して、あとからこの場所を占めることになった十六手目は明確に北西方向を指向している。しかしそれだけのことだろうか? たったひとつの小さな石が、庭を貫く複数の石の配置によってかたちづくられた第一の流れに抵抗する力を持つことができるのだろうか?
第二期石組で大きな変更を受けた中央石組を再度検討しよう。
十五手目までの段階では複数の石の配置が第一の流れを強化していた。十六手目がその大きな流れに抵抗する端緒となったとすれば、この石が他の石と結びつき、より広域的な効果を発揮したからに他ならない。
十六手目を他の石との関係のなかに置いてみるなら、まずは十五、十四、七手目と山なりの稜線の性質を共有していることが見てとれる。この単調にも思える稜線の反復がこれら四つの石を同族として結びつけるとともに十三手目獅子石から切り離された群れをつくりだし、同じことだが同時に獅子石の屹立を引き立てている。
これら稜線の性質を共有する四石をよく見ると、とりわけ十六手目と右奥の十四手目は、表面の肌理や色調にかなりの類縁性を持っていることに気づくだろう。両脇の石との明白な差がこの二石の類似をいっそう際立たせている。
十五手目までの段階では、山なりの稜線の反復が十四手目と十五手目を結びつけていた。この見立ては間違いではないものの、十六手目が打たれたあとでは、以前ここにあった変形三尊石の組構造、対構造の残像を引きずっていたことがわかる。いまや十四手目にたいしては十六手目が、その肌理と色調からより強く結びついている。
あらためてこの二石を組として見てみよう。
組として見ると、十六手目の右手前の面と十四手目の右手前の面の傾きや方向性がひとつの大きな面として感知されることに気づく。というよりも、この二つの面の共有もまた、この二石をひとつの組として見ることを支える重要な要素だったということだ。
この二石にまたがる大きな面はその方向性とともに、やや高い十四手目の稜線から低く左下へと滑り落ちる十六手目の稜線とともに、左手前方向への動勢をつくりだしているだろう。

十四手目と十六手目がひとつの石であるかのように面と稜線を共有し、それらがともに左手前へと逸出する流れをつくる。
十六手目の石はひとつの小さな石ではない。
この小さな石は十四手目と結びつくことで、明確に北西方向の動勢を持つ巨石として作用している!
十六手目を経たいま、十四手目が斜交い方向の動勢を持っていたことが遡行的に理解される。組十四−十六の方向性を意識するならば、第一の流れを強化するように思われた十五手目もまた、左下に落ちる稜線や面の方向性によって、組十四−十六が指し示す斜交いの流れを支持していたことが、やはり遡行的に見てとれる。
この見立てのなかでは十三手目獅子石の効果もまた変形される。
第一の流れの上に配置され、中央石組からは疎外されているように見えた獅子石もまた、壁体のごとくせり上がる形態で第一の流れを堰き止めつつ、右手前面の方向性によって、組十四−十六と反復的に斜交いの流れを強化し、その船の舳先のような形態によって左前方へと切り込んでいるだろう。

十五手目、十四−十六の左下に落ちる稜線と右手前の面、十三手目獅子石の右手前の面が支持する斜交いの流れ。
たったひとつの小さな石によって一気に可視化されたように見える斜交いの流れは、それゆえ、十六手目の石が単独でつくりだしたものではない。第二期石組冒頭で交換や変更を受けたすべての石が、実のところ、それぞれのしかたで斜交いの流れを準備していたかのようなのだ。
一見山なりの稜線が凡庸に反復する十五手目までの中央石組は、かつてここにあった変形三尊石のように図像的領域を切り出そうとしていたのではない。そうではなく、中央石組の求心力を解体することで中央石群を第一の流れ──つまり庭全体の布石──へと開きつつ、同時に斜交い方向へ向かう造形的構造を意図せず積み上げていたということだ。
ここで斜交いの流れの発生を、連載第3回でも検討した重心の観点から見てみよう。
住職の懸念が表明される前の石組では、布石は第一の流れの上に展開しているとはいえ、変形三尊石を中心として左奥(北東)に鯨石と小鯨石、右手前(南西)に飛石型の石が三つと、ほぼ対称的に展開していた。さらに十一手目が二手目大石の左手前に出ることで、中央石組を第一の流れから部分的に切り離し、安定した図像的領域をつくりだしていた。
しかし住職の懸念が表明されたあと、主石である二手目大石が十三手目獅子石として右にずれ、重心に強烈な非対称が発生する。
この不均衡を是正するためにすぐさま第一の流れ上に十四手目が、続けて十五手目が打たれたが、獅子石の屹立と初手の平石の量感は依然として場を右に突き崩している。この非対称を打ち消す対抗的な布石として、いまだ石の打たれていない左手前方向へと伸びる強い斜交いの流れが、つまりは十六、十八、十九手目が要請された──そう見ることができる。
つまり重心の観点でも斜交いの流れそのものの起点は十六手目であり、その変容を準備したのは十三手目獅子石だということになる。
しかし準備していた、積み上げていたというのは言い過ぎかもしれない。
むしろ、異なる布石の展開のなかではまた別様のパターンを示したかもしれない無数の要素を、十六手目にはじまる布石が遡行的に斜交いの流れへと組織化したのだ。
因果系列の遡行を止める
準備していた、積み上げていたというのは言い過ぎかもしれないと言ったが、石の配置や形態の因果系列──制作実践上の造形的因果の連鎖──を辿って十三手目獅子石の右手前の面や重心上の配置が十六手目以前に斜交いの流れを準備していたとするなら、この第二の流れの起点は無限後退しかねない。
というのも十三手目右手前の面は、平面図上は離れてはいるものの、沓脱石からのパースペクティブのなかでは初手の平石の左奥面が示す斜交い方向の面と呼応しており、この石の重心上の配置もまたそれ以前の力の場を引き継いでいるからだ。
つまり解釈次第では斜交いの流れは初手の平石の形態や配置のなかに予告的に埋め込まれていたととることも可能になってくる。
十三手目獅子石の右手前面の緩やかな「 )」型の湾曲は、たしかに初手の平石の左奥面の「 〉」型の屈曲にたいしてパースペクティブ上噛みあっており、両者ともに斜交い方向の流れを支持している。それゆえ斜交いの流れの起点を十三手目に遡るなら因果系列的には初手の平石まで遡りうることになるだろう。
しかしこの噛みあわせは、斜交いの流れを準備したというよりは、以前ここにあった六手目右手前面の「 〉」型の屈曲と初手の平石の左奥面の屈曲の噛みあわせを引き継ぐ形態の呼応関係として見るべきだろう。

十三手目右手前面の「 )」型の湾曲と、初手の平石左奥面の「 〉」型の屈曲のパースペクティブ上の噛みあい。

六手目右手前面の「 〉」型の屈曲と、初手の平石左奥面の「 〉」型の屈曲のパースペクティブ上の噛みあい。
というのも、石組の生成プロセスを追うぼくたちは、住職の懸念が口にされる以前に展開していた石組の系列をすでに見ている。その系列では初手の平石と噛みあう六手目は中央四石の組関係や対関係のなかにあり、斜交いの流れを前景化してはいなかったのだから、この新たな流れの端緒は最大限遡るとしても十三手目まで──まずはここに因果系列の切断面を見ることができる。
さらに十三手目そのものについて検討するなら、この石が十六手目以前の段階では必ずしも斜交いの流れを支持したものではないことが明らかになる。というのも十三手目は、その「切れ込んで」「人工的」な面をどこから見ても隠れるように底にするなら、現在の立ち姿で斜交い方向に軸先が向くように据える以外にほとんど選択の余地のない石だからだ。
住職の指摘した平滑な面を底にすれば現在十三手目が示す天端が必然的に上になる。この天端は複雑さを持ちつつも石の立ち姿に対して水平的であり、二段の平面で構成されている。
色彩や形態のカテゴリーによる群れの分割の観点から言えば、この石はまず布石右手側の飛び石状の群れか布石右手前側の初手の平石に接近することになり、主石級の石であることを踏まえればかつての中央石組の範囲内で最も右や右手前の布石に接近する現在の位置付近におさまるだろう。
次は立ち姿の決定だが、ここで重要なのは、現在沓脱石付近から見えるこの石に特徴的な段差のある天端──『作庭記』の言う「看所」であり、この石が二手目大石だったときには正面を向いていた面──以外の面は、隠した底面ほどではないが平面的でのっぺりしているということだ。
現状左手前を指している軸先形態を反対側の右奥に向ければ、この特徴的な天端の面は隠れて単調な石になってしまう。軸先を右に向ければ中央石組にたいしてそっぽを向いているように見えるし、手前側に来る切り立った面はやはり平面的だ。左に向けても手前側の面の単調さは変わらない。この軸先形態はきわめて限定された北西方向の振り幅のなかで決定する他ない。
最後に軸先方向の微調整がおこなわれるが、第一の流れへの抵抗線の組織と初手の平石とのパースペクティブ上の噛みあわせは、もともと限定されていた振り幅をいっそう限定することになるだろう。
ようするに獅子石は、住職の要請に応えた時点でなかば必然的にこの位置付近に配され、ほぼこの立ち姿で据えられる可能性の高い石だった。北西方向を支持する右手前の面やそれを準備したと思われた重心は、それゆえ、斜交いの流れとは異なる論理のなかから現れてきた。
斜交いの流れの起点は、実のところ十三手目まで遡ることさえできない。この意味で十六手目は、布石の展開次第では異なる結びつきをつくりだすはずだった無数の要素を、飛躍したパターンに包括したことになる。
この小さな石はそれぞれの石を成立させていた局所的な因果系列の連鎖から石を切り離し、異なるパターンの一部へと変形させる。
それまで空間的にも時間的にもバラバラに打たれ、因果系列もそれぞれ異なる複数の要素が、十六手目を経たいま、まるで斜交いの流れを準備していたかのように、特定のパターンのもとに統合された。
十三手目は配置換えと同時にほとんど必然的に決定され、十四、十五手目は七手目の稜線を反復的に増幅したものだ。にもかかわらず、それらが斜交いの流れをあらかじめ準備していたかのようなのだとすれば、それらの石は遡行的に因果の連鎖から切り離され、斜交い方向を支持する面の集積に変形されたということだ。
意図しないものが蓄積されていた──この庭に、この布石のなかに。
事後的に斜交いの流れに包括された意図しないものの蓄積とその発見は、しかしたんなる偶然──非意図の蓄積と偶然的包括──に還元できるものでもないだろう。布石が蓄積し、持続させた一定程度の斉一性は、反復とリズム、第一の流れへの抵抗を大まかに指向していた古川の傾向によるのだから。
とはいえ後に実現することになるパターンが事前に明確に意識されていた──意図の蓄積と必然的包括──わけでもない。意識されることなく布石に堆積した形態を、庭が、パターンとして示したかのようなのだ。
「意図の発達についてのオブジェクト指向モデル」──この奇妙な事態を、ここでは平倉圭の言葉を借りてひとまずこう呼んでおきたい[2]。意図概念を拡張し、意図にも非意図にも還元できない、物体において生長する「非意識的意図」を導入する平倉は、この意味での制作物の意図が「外的物体の布置に非意識的に予兆゠前形成(prefigure)され、あるとき観察者=制作者の発見を介して遡行的に意識され実現される」と指摘する[3]。
斜交いの流れを支持する面の反復を「準備」し「積み上げ」ていたのは古川でもあるが、むしろそれ以上に石であり、庭である。平倉の言葉をもじって言うならば、部分的には庭が考える。
とはいえ、制作実践のなかで非意識的意図と非意図は混成状態にあるだろう。平倉の分析対象──ピカソ──は「非意図的偶然」を退けようとする。しかしながら古川の制作実践にとって、非意識的意図の遍在と事後的な我有化というモデルはあまりに──平倉自身も指摘するように──「強すぎる」[4]。
もちろんこのモデルは、庭の制作実践でも立ち会うことになった奇妙な事態──新たな石が他の石を遡行的にもとの文脈から切り離し、新たなパターンへと変形する──をよく説明する。しかし古川は最終的な我有化を周到に避けようとし、「非意図的偶然」をとろうとし、あるいは「概括的な意識の傾向」を背景とする非意識的な「予兆=前形成」でないものへと庭を差し向けようとするだろう。
古川の制作実践は、それゆえ、まずは非意図と非意識的意図のせめぎあいや交替としてとらえることができる。
多くの課題を積み残したままになるが、次回は石組の変容の端緒となった十三手目獅子石の解釈をめぐる古川と住職の密やかな対立を追跡したい。

十九手目まで進んだ現場の様子。十九手目は画面の外、左側にある。
注
[1]「かと」(森蘊『「作庭記」の世界──平安朝の庭園美』日本放送出版協会、一九八六年、六八頁)。
[2]平倉圭『かたちは思考する──芸術制作の分析』東京大学出版会、二〇一九年、一二二頁。平倉は同書第五章において、パブロ・ピカソ《ラ・ガループの海水浴場》(一九五五年、東京国立近代美術館蔵)とその制作プロセスを記録編集した映画、アンリ゠ジョルジュ・クルーゾー監督『ミステリアス・ピカソ──天才の秘密』(一九五六年)とを干渉させることでピカソ他の制作実践についての驚異的な分析をおこなった。《ラ・ガループの海水浴場》の思考──ピカソではなく──は「異なる時点に絵画上に現れて蓄積する形態群を架橋することで実現される」。これを意図の点から言い直すなら「概括的意図の下でなされるローカルな問題解決が、それ以上の規模での反省的総合を介さぬまま物質的に蓄積し、ある段階で相転換するように突如グローバルに架橋される」(同書、一二一頁)。作庭現場でも観察されるこうした事態を、平倉は「意図の発達についてのオブジェクト指向モデル」(一二二頁)と呼んだ。
[3]同書、一二〇頁。
[4]同書、一二二頁。「本節での「意図」の描像は、実際の絵画ないし絵画的意図の形成過程に対して強すぎる」。撮影時の絵画制作は疎外的・寸断的なものだった。平倉は編集や音楽によってアニメイトされた絵画の印象にもとづく意図の描像を修正し、次節ではさらに絵画の「思考」をピカソ自身も巻き込まれていく複数の人間と非人間的技術装置の絡み合い──ピカソ他──によって実現される「合成的形象」として再定義する(同書、一二五頁)。本稿もまた古川の制作実践に沿って別のしかたでこの意図の描像を修正することになる。
(第7回・了)
この連載は月1回更新でお届けします。
次回2022年8月22日(月)頃掲載予定