徹底的に庭を見よ! 美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした新しいかたちの庭園論。京都福知山の観音寺にある大聖院庭園作庭工事のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」。石組の組み直しと、それがもたらした意図しないパターンの発生について考察した前回からの続きで、今回は「あってないような庭」と「ありてある庭」というものづくりの意図のせめぎあいについて考察します。
─
あってないような庭、ありてある庭
屹立する十三手目の獅子石は高さや量感において際立ち、石相互の関係や重心を動揺させることで主石の地位を占めることになった。それにたいして十三手目以前の石は、石の「求めるところにしたがう」という『作庭記』の記述にしたがい、揺らぐ力の場のなかで重心を探る試みだった。その配石も形態的、色彩的カテゴリーによる群れへの分割、第一の流れ上への分布、形態の反復などに規定されており、いくつかの初期条件を設定すれば自動的に走り続けるプログラムに似ていたかもしれない。
そこから現れるのは違和感のない、しかし特異点を欠いた「求めるところにしたがう」石の網状組織である。
「(古川さんは)あってないような庭がええんや言わはるんですね。この辺にも石像寺や長安寺には重森三玲(や重森完途)の庭があるんですけど、そっちはもう素人から見たらちゃんとした庭なんです。見るからにええ庭。」
住職によれば、古川が理想とするのは「あってないような庭」だ。「ちゃんとした庭」「見るからにええ庭」ではなく、あると同時にない庭。
この言葉の真意はいまだ明確ではない。しかし、続けて語られた住職の言葉を聞くとその意味するところが見えてくる。住職が言及したのはかつて古川が据え、紫陽花園となっている大聖院南側斜面の階段脇に現在もひっそりと立つ句碑をめぐって交わされたやりとりだ。
「裏に句碑がありまして、こんなおっきい石運んできたんやけど、古川さんは三分の二ほど地面に入れてしまうんですよ。石は埋めんとあかん言うんですね。私たち素人は大きい派手なものをと考えてしまうけど違う。」
数十年前に寄贈されたこの句碑は、かなり大きな石に句を刻んだものだったようだ。その威容は、本来なら本堂の脇などの平らな場所に記念碑のごとく屹立するはずだった。しかし当時その設置を担当した古川はあえて紫陽花園散策路入り口の階段脇を選定し、しかも石の大部分を地中に埋めてしまう。
句碑はたしかに目が落ちやすい場所にあり、文字が刻まれているため目立っているのだが、あまりにうまく周囲に溶け込んでいるので気づかずに通りすぎたとしてもおかしくはない。

大聖院南側斜面に続く階段の脇にある句碑。本来はかなり大きな石だったというが、周囲から突出することなく、まるで階段工事で掘削された斜面の一部であるかのようにおさまっている。
あると同時にない──それはこの石がいまや地衣類に覆われて苔むしているからというだけではない。そうではなく、そもそも石の姿がそもそもその場所の摂理にしたがっているからだ。
ようするにこの句碑は、寺や神社の境内で壁体のごとくそびえ立っている一般的な石碑と異なり、句を刻んだ石を意図的にここに据えたというよりは、階段工事の掘削の際、偶然露出した非意図的な岩にあとから句を刻んだかのようなのだ。
「あってないような庭」と「埋め」ること、それにたいして「見るからにええ庭」と「大きい派手なもの」。この対比された二つの語彙の系列の具体例をもう少し増やしてみよう。すでに作業初日の四月七日にもこの対比は現れていた。
即興的に石を決めていく様子に驚いた住職との会話のなか、『作庭記』の「こはんにしたかひて」を引いた古川は、「それがわからんのですわ」と首をかしげた住職にたいして、そばにいた竹島とともにこう答えていたのだった。
竹島「石組は抽象画に近いんだと思います。意味はないけど、意味を作っていくというか。全体の関係のなかで組み合わせていくんです。ここの姿が面白いっていう判断は経験から来てると思うんです。(だから)古川さんは直感的に判断できるんですね。」
古川「そういう意味では最終的にこうなっちゃう。」
竹島「変なことをしないようにすれば決まるんですよね。」
住職「有名なところは石が立ってるでしょ。小堀遠州とか重森三玲とか。」
古川「あれが変なことなんですわ。地形が大事で、後ろが崖だったり立体的になっているといいんですけどね。」
住職「でも龍安寺とかは……。」
竹島「あれは寝ている方ですね、埋もってる方。」
会話の流れから相互に理解しあっているように思われる古川と竹島によれば、庭とは「変なこと」を避け、経験の厚みに裏打ちされた直感的判断から生成されるものだ。それゆえ、庭はどのようにつくるかというよりも、むしろ半ば自動的で必然的な流れから「こうなっちゃう」ものだという。このことが『作庭記』の「求めるところにしたがう」の記述と連続的に解釈されるという。
変なことをしないようにすれば決まるがゆえにあってないような庭になる──つまり違和感のない、特異点を欠いた、求めるところにしたがう石の網状組織。
これらの言葉には庭師たちの立場が鮮明に現れている。庭師たちにとって、自らがつくったものは、あるいは庭というものは、特異な相貌をまとって屹立するなにかではありえない。だからこそ、突出する「立ってる」石にたいして、地形との関係で「寝ている」あるいは「埋もってる」石が重視される。
そういうことなのだろうか?
素材や条件の「求めるところ」、つまりそれらの本性にしたがえば必然的にこうなるもの、その無名の技でつくりだされるものは、あってないようなものになる──この制作観は新たな造形的達成とともに作家名を刻印し、歴史的な「作品」を、つまりはあってないものではなく、撞着的な表現をすればありてあるものを残す近代以降の芸術家たちの制作観とは大きく異なっている[1]。
こうした職人たちの立場にたいして、住職は自らをつねに素人の側に位置づけ、あえて「見るからにええ庭」、「大きい派手なもの」、「石が立ってる」庭について古川に問い続ける。開創千三百年になる寺の住持としていくつもの文化財を抱える住職の意図はここにある。それはこの両極的な二つの制作観を折衝することだ。
「いい庭つくってください。自分の作品残すつもりで」──これは作庭作業中に住職が幾度となく古川にかけた言葉のひとつだ。「庭でもなんでも個人よりお寺に残した方が残」ると言い、その「文化を人にお示しするのも寺の仕事」と言い切る住職は、寺が時代時代の文化的達成の保護区となり、博物館のように収蔵展示機能をも果たしてきた歴史を踏まえている[2]。
寺でなにかをつくれば良かれ悪しかれ残ってしまう──さまざまな努力と幸運が積み重なればいずれ文化財に登録されてしまうかもしれない──がゆえに、さらにはそのなにものかを少なくとも一時代の文化的達成として人に示し続ける責務を負うがゆえに、住職は作者名や成立年代とともに記憶される作品という形式にこだわる。
「文化財は年代とか作者が分かった方がええでしょ。あっちの敷石にも名前があって、過去帳見たらそこの誰それのご先祖やいうことが分かりまして、古川さんも石に名と年代でも書いといてくれたらええんですけど。」
もちろん制作された事物は自動的に残るわけではない。それがどのようなものであり、どこに、どのような形で残り、どうやって周知されるかという経路の重要さも、また寺に残されたからといって災害や人災による破壊を免れるものではないこともまた住職は知っている。
それゆえ住職によれば、住職という者は、あるいはこれから住職になる者は、「数を見て目を養う」ことを必須とし、古い物品をおびただしく抱えるがゆえに古いものの価値が分かるまでは「寺づくり」をしないようにすべきだと言う[3]。
連載第2回で記したように、かつて建物が湿気るという理由で埋められてしまった観音寺の旧庭は少年時代の住職にとって重要な景色だった。その憧憬の庭に代わって、新しく「後世に残る庭」「本物の庭」あるいは「きちっとした庭」をつくるのが住職の悲願だった。
だからこそ住職は、職人たちの匿名的な技による「あってないような庭」に全面的に賛同することができない。求めるところにしたがう穏やかな石の語らいとして形成されつつあった第一期石組を打開したものこそ「ありてある庭」を希求する住職の言葉であり、その言葉を起点に変更された十三手目獅子石だった。
ようするに、この現場ではものづくりにたいする二つの考えが相まみえている。
雑話的批評
第一期石組の主要箇所が変更されるきっかけとなった住職の言葉は、二手目大石の裏面の平板さを指摘したものだった。しかしその背後には、求めるところにしたがう石の網状組織に満足せず、あくまで特異性によって屹立する「作品」を希求する住職の態度があった。
住職がそもそもは「立ってる」石を希望していただろうことは先の会話で暗示されている。しかし変更以前の石組では、石はすべて先行する石の特性を参照するがゆえに周囲から突出するものはなく、主石のひとつだった変形三尊石中央の二手目大石でさえ、「変なこと」にならないように「寝て」いたのだ。
もちろんこの大石を配置転換した十三手目獅子石も、寝ているわけではないものの立っているというほどでもないし、連載第七回で検討したように先行する形態的文脈から完全に切れているわけでもない。だが、住職の希望によって「切れ込んで」「人工的」な面を底にせざるをえなかったからこそ、つまり古川の意図から、あるいは造形的な因果系列から偶然的に切れたからこそ、この石は「求めるところにしたがう」以前の姿とはまったく異なる屹立を示すことになり、なかば周囲から隔絶した形態を持つことになった。
この特異な形態は、結果的に住職の期待に応えるものになる。
「どう思われます、あの石(十三手目獅子石)? 最初裏が切れてましたでしょ? ひっくり返っとったんが九十度返って。表情があって、形も特徴あって、あれはこの庭のシンボルになりますわ。」
ここであらためてこの石が据えられた経緯を振り返ると、獅子石をかたちづくったのは「ありてある庭」を希求する住職の意図だけでもないし、「あってないような庭」を理想とする古川のかたちの論理だけでもない。そこには、この現場に参加するすべての人々のあいだで交わされ、しかし物体に書き込まれて消えてしまう、庭園史と造形的分析と趣味判断についての言葉の積み重ねがあった。
会話のひとつひとつはたんなる雑談に過ぎない。しかしその総体はこの庭に特化した批評的な雑話となっており、制作に携わる人々を緩やかに方向づけ、拘束する。つくることを中心に交わされるこの無数の評言は、それゆえ、批評的雑話というよりむしろ雑話的批評と呼ぶべきものだ。
二手目大石についての懸念が示された四月八日から、この大石が十三手目獅子石として据え直される十六日までのちょうど中頃の四月十一日、休憩中の庭師たちのもとに大きな書籍をたずさえて住職がやってきた。縁側に腰掛け、おもむろにページを繰りながら、住職は少年時代にはまだあったかつての観音寺の旧庭の話をはじめる。連載第2回で住職が「ええ景色」だったと語ったあの庭の話だ。周囲に庭師たちが集まる[4]。
「手前に縁側があって、池、築山、竹藪があったんです。子どもの頃そこで釣りをしてね。これ(永明寺庭園)がよーく似ててね。橋はなかったですけど。」
開かれたページに映し出されているのは観音寺の旧庭ではなく、島根県の津和野町にある永明寺庭園。この庭が、少年時代の住職が遊び、火災の事後処理で失われた憧憬の庭によく似ているようなのだ。
「昔は外で釣りしてたら寺の子が殺生しとると言われたり、告げ口されたりして、帰ってきたら親に怒られるんです。そやから庭の池で親の目を盗んで鯉を釣るんが楽しみやった。あの庭はここが焼け落ちたときに潰してしまいましたけど、今になってあれが良かったんやと思う。寺の建物もその時分は茅葺きで、冷暖房は効かんし、隙間風がすごくてね。広くて暗くてがらんとして嫌やったけど、歳とってみてから、ああ、あれは良かったんやなあと思うてね。やから若い時分に寺づくりせんと、古いもんの価値がよく分かるようになってからせんといかんと思うんですわ。」
永明寺庭園の池や橋の構成、住職の思い出についてひとしきり歓談したあと、古川が書籍を受けとりパラパラとページを繰る。その手が桂氏庭園のページにさしかかったとき、住職が不意に口を挟んだ。
「こんなんいいんですかねえ?」──住職の指は白砂に据えられた低い石の上に置かれた特徴的な三日月型の石を指している。山口県防府市の名刹、月の桂の庭。古川が答える。
「ここまでやったからいいんですわ。これが月ですからねえ。で、これがウサギですわ。森(蘊)さんは嫌いでしたけどねえ。で、ウサギが月を見て妊娠するという。まあこういうのは思想が優先ですよね。」
古川の「あってないような庭」の立場からすればありえない特異性を持つ、台座に乗った三日月のような景石について柔らかく質問しつつ、住職はおそらくずっと気になっていた京都市の天龍寺曹源池庭園の座禅石へ、そしてここ観音寺大聖院庭園の初手の平石へと話をつなげていく。
「夢窓国師の天龍寺ありますでしょ。あれは平らな石があったりしてね。座禅石や言うて。(目の前の庭を見ながら)手前のあれ(初手の大石)は傾いてますけど、それですか?」
「いや、手前にあると普通座禅石じゃなくて礼拝石になるんですわ。まあ、そういうのにこだわりすぎたらダメですよね。」
この会話の時点ではまだ十三手目獅子石は打たれていない。だからこそこの段階での住職は、なにか特定の意味──古川の言葉では「思想」──をもつ石、あるいは意味の器としてふさわしい特異な形態を持った石の誕生を希望しているのであり、初手の平石にもなんらかの意味を求めているだろう。
それにたいして古川は、師の森蘊を引きあいに出しながら並外れた意味を持つ石は自身の趣味ではないことを匂わせながらも、むしろ「ここまでやったからいい」のだと引き受けた上で、同時に、石に付与される意味に「こだわりすぎたらダメ」だと牽制する。石に名前を書いてほしいという住職の示唆も慎重にはぐらかすことになるだろう。
「(初手の平石を指差しつつ)あれは何なんですか?」
「いや、あれは別に(笑)。」
「あれに名前つけてもらって、石に名前でも書いとってもらったら百年後、国の名勝とかになって(笑)。」
「いや、これは座禅もなんもできん庭ですわ。」
月の桂の庭を話の枕にして、景石について住職があれこれと古川に訊ねているだけのようにも思える場面ではある。しかしながら先に指摘したとおり、ものづくりにたいする立場の対立を念頭に置くなら、ここでは両者の庭園観──あってないような庭とありてある庭──が水面下でつばぜりあいをおこなっているようにも読める。
同じ庭を見ながら、両者はまったく違うものを見ている。
しかし連載第5回で検討したとおり、両者は無関係に進んでいくのではなく、互いが互いの意図を媒介するようにして作庭作業は進んでいく。事実、この数日後に古川は住職という他の意図を汲んで中央石組を修正したのであり──「あの石は気に入らん言うたら古川さん嫌やったやろうけどよう聞いてくれて」──、しかし連載第7回で詳細に分析したとおり、古川は「思想」とは異なる形態の必然的展開──平滑な面を底にすることで出現した形態の偶然性と隣接する初手の平石の屈曲との噛みあわせ──から十三手目を決め、しかし住職は同じこの石の際立ちに象徴性を見てとり──「あれはこの庭のシンボルになりますわ」──獅子という名をあたえたのだから。
両者の意図が、物体の論理が、さらには庭園史や趣味判断にまつわる雑談の総体が綯い交ぜとなっていく。休憩中のちょっとした会話として流れていったかのように見えたこのやりとりだが、数日後に据えられた十三手目獅子石を経たいま読み返すなら、この会話に見られる評言の数々もまたこの石の成立に深く関わる重要なやりとりだったことがわかる。
失われた観音寺の旧庭園から永明寺庭園、月の桂の庭、天龍寺曹源池庭園を経て再び観音寺大聖院庭園へ——短い休憩時間のなか、雑談の形式を借りて連想ゲームのように交わされた言葉とイメージ、そしてそれらにたいする各々の寸評の数々が、意図する、しないとは別の次元で、この庭にとってしか意味をなさない雑話的批評を紡いでしまう。
少し名前のあがった近場の石像寺や長安寺の庭、著名な龍安寺庭園、そして重森三玲や小堀遠州の作風や『作庭記』の引用、さらには立っている石や埋まっている石への評価までもが住職や職人たちの日々の会話のなかで交換され続け、ただこの庭の物体のありかたのなかに書き込まれて消えるだけの膨大な註釈をつくりあげる。
この作庭参加者たちの無数の語りこそ、古川のあってないような庭と住職のありてある庭を直接対決に陥れることなくこの庭の成りゆきを緩やかに方向づけ、拘束し、折衝させる。
このことを踏まえ、もう一度十三手目獅子石を見るならば、この石はたんに「寝ている」と「立ってる」、「あってない」と「ありてある」が折衝された姿というだけでなく、まるで桂氏庭園の、あの三日月型の景石とその台座の遠い反響であるかのようにも見えてくる。
もちろんこの姿はこれまで何度も指摘してきたように、平らな面を底にした時点で現れる他なかった偶然的形態でしかない[5]。それにもかかわらず、住職がこの石に象徴性と獅子の姿を見てとったように、この庭を拘束する雑話的批評が、かたちの本歌取りとしてこの石を見ることを強いるのだ。

大聖院庭園を南側から見る。中央やや右、スコップが立てかけられているのが十三手目獅子石。桂氏庭園の三日月状の景石およびその台座の遠い反響であるかのようにも見える。
庭の閉ざされと開かれ
十六手目を起点に、あるいは巨石と見立てられた組十四—十六を起点に、斜交いの流れが現れたのだった。この軸線からやや南西にずれているものの、続いて据えられた十八、十九手目四国石、北西の隅石の連鎖がすでに配置されていた八手目、十三手目獅子石に連なることで、この流れは明確になった。
斜交いの流れは第一の流れに加わることで、これまで北西角から大聖院庭園に入って布石を見る者──地元の人々や紫陽花シーズンの順路──にとっては横方向の広がりしかなかった布石に北西隅の平石から十三手目主石へといたる強烈な軸を、南側の山門を潜って庭に入る者──大聖院を訪れる正式な順路──にとっては第一の流れの軸線だけでは得ることのできなかった布石の広がりを感じさせる。

北西角から見た布石。斜交いの流れがあたえた北西隅の平石から十九手目四国石、八手目をとおって十三手目にいたる軸。横方向の広がりは第一の流れ。南東角から見た場合軸と横方向への広がりをあたえる流れが逆になる。
視点を沓脱石付近に移すと、斜交いの流れは第一の流れと干渉し、布石の動勢に一段と複雑な経路をあたえることになる。組十四―十六が形成する軸と、北西の隅石から十九、十八、八、十三手目が形成する軸──斜交いの流れが二重になっていることで、布石にジグザグとせり出してくる動勢が現れる。
この動勢の経路は一本道ではなく、逸れたり寄り道をしたりを繰り返し、始点も終点も複数ありうるが、そのひとつをとり出してみるならこうなる。
左奥(北東)の鯨石から第一の流れに沿って十五手目を通過する視線はこの流れに拮抗するかのように左奥にやや傾斜する姿勢で据えられた十四手目で淀み、ひとつの巨石であるかのような組十四―十六の南西側の面の統一、左手前に向かう方向性、左下に落ちる稜線によって斜交い方向に折り返す。しかしこの斜交い方向の流れを延長する石がないためにこの支流はいったんそこで閉じ、視線は再び第一の流れと合流して七手目を経て、屹立する十三手目獅子石でまた淀む。十四手目と同じく南西側の面と舳先形態の効果によって斜交い方向の流れが再起動し、目は八、十八手目へと支流を辿り、また本流へと戻る(十九手目四国石、北西隅の平石は低く視界から外れていることもあり正面から見た場合それほど強い効果を持たない)。
もちろん流れを辿ろうとする目はこの説明のとおりにジグザグに走るわけではない。むしろ最も強く働いている第一の流れの上を疾走しようとしては、とりわけ組十四—十六、十三手目獅子石がきっかけとなって支流である斜交いの流れにひっかかり、逸らされてしまい、再び第一の流れに立ち戻り続ける運動が繰り返される。
流れを追っては淀み、折り返すこの運動は鯨石から五手目まで抜けることもあれば、途中でひっかかって折れることもあるのだが、布石全体を走査しようとする速く反復的な目の運動の総体が、ジグザグにせり出してくるような石の流れの印象とリズムをこの庭にあたえる。
奥へと退行していくのではなく、むしろせり出してくる感覚をあたえるのは、おそらくはまず位置価として重要な中央石組付近が起点となり、庭全体に目を走らせる際に石の連鎖が手前へと展開するからだ。このとき、奥の鯨石に始点としての重要性はない。しかし鯨石は中央石組からはじまった視線に一瞥されるだけで事後的に流れの起点であるかのような印象をあたえる。
とはいえ、この動勢はいまだ明確ではない。のちの布石でこのジグザグ状の動きはよりはっきりとしてくる。そのとき、あらためて詳細に分析しよう。
二重の斜交いの流れが現れたことで庭の構造はいっそう分節され、複数の流れ、複数のリズムが生まれはじめている。庭はたんになんらかの図像や意味を代理する挿絵となるだけでなく、造形的な関係が幾重にも張り巡らされた構造体としても見ることができる──これがここまでの連載で記述してきた石組の分析(連載第2、3、6、7回と今回)が示していることだ。
ところが現場でフィールドワークをしながら、あるいは机に向かってこの文章を打ち込みながら、ぼくは二つの視点のあいだで引き裂かれていた。
最後にこの点を記してこの回を終えたい。
第一期石組では、第一の流れの構想を基準に「求めるところにしたがう」全体的な布石がおこなわれた。形態と色彩の類似や位置の隣接、輪郭線の反復、対相互の共鳴やリズムによって「関係性ができて」いる状態がかたちづくられ、中央に相対的に閉じた変形三尊石が形成されたのだった。続く第二期石組では、中央石組の組み替えによって変形三尊石が開かれ全体の布石に合流するとともに獅子石の屹立が決定づけられ、庭の各所に意識されることなく堆積していた形態が事後的にパターンとして現れることで、二重の斜交いの流れがかたちづくられた。
しかしここまでの石組の分析は、本稿の趣旨からすれば当然のことといえば当然のことなのだが、庭という限られた空間の内部を分析する試みだった。この態度は、ある意味では庭を閉じた造形作品として扱い、敷地内の造形要素間の関係として庭を分析することを意味している。
ところが、こうした造形要素間の関係の記述にたいして、この閉ざされた庭の構造の外部を志向する古川の言葉や庭の要素もまたフィールドノートに蓄積していた。「作品」の単位を淀ませるこの観察結果もまた、このフィールドワークにおける重要な記録だろう。
フィールドノートには迷いとともにこの二つの観点が、つまり庭を開かれたものととらえるか、閉ざされたものととらえるかという両極的なメモが同時並行的に記述されている。これは先に指摘した古川と住職の対立、つまりは作品という単位を認めない「あってないもの」へと向かう制作観と、新しい造形的達成とともに作品を残すことを求める「ありてあるもの」へと向かう制作観との対立を、ぼく自身が抱えているということではないだろうか?
この乖離は、第一の流れがなぜ構想されたのか、その意図について古川に訊ねたときに決定的なものになる。
「石組はこうでしかありえなかったんだよね。それで、この石の続きが本堂(大聖院)を超えて裏にもつながってるというか。裏の山まで(第一の流れの五手目方向の延長。句碑と紫陽花園のある南西側斜面と堂山)。そうなってるだろうなーと思わせるような、ね。山の岩盤の一部がここに見えているようでないと。庭の隅に続く反対側の線(第一の流れの鯨石方向の延長)は土塀を越えてずーっと下につながっていてね。下手したら(裾野の平野部や川を超えて)向こうの山までつながってるんだよね。」
虚を突かれた──あまりに遠大な構想に驚かされる。その日はフィールドワークを終えての帰りの道中、この言葉が頭から離れなかった。
石組を庭園内部の造形的関係として分析することで頭がいっぱいになっていたぼくにとって、この言葉は鮮烈な衝撃だった。もちろんフィールドノートは庭を外部へと展開していくような局面も記されていた。しかしそれ以上にこの庭をひとつの閉じた作品として分析することに集中していたぼくは、東と北は植栽背後の土塀、西は大聖院の建物とその足元の犬走り、南は門から玄関へと続く石畳に区切られた敷地のなかに見える造形的関係の細部ばかり見ていたのではないだろうか?
借景に代表されるように、もちろん庭の構想は積極的に庭の外部をとり入れる。あるいは庭につくられたせせらぎを外部の用水路や川から引いてくることもあるし、まるで背後の山から流れ込んでくるかのように組むこともある。だが古川のこの言葉に衝撃を受けたのは、外部を庭の内的構造にとり入れるのではなく、庭を外部へと開き、解体していくようなニュアンスがそこに響いていたからだった。
あってないような庭という、禅の公案のような古川の理想をここに読み込むならばどうなるだろうか? 冒頭の句碑を思い起こそう。あの階段脇にたたずむ句碑は、閉じた庭という単位を超える広がりに接続されていたのではないだろうか?
あると同時にない──あの句碑があるようでないのは、一般的な屹立する句碑と異なり、石の姿が場所の摂理にしたがっているからだった。だからこそこの石は、偶然露出した岩に句を刻んだかのようなのだ。同時にいくつかの会話のなかで語られてきたように、古川や職人たちは立ってる石よりむしろ寝ている、あるいは埋まっている石を好む。
これらの言葉を踏まえていまいちど古川の言葉に耳を傾けよう。古川は「地形が大事」だと言った。そこからわかるのは、古川は決して立っている石が嫌いだと言っているわけではないということだ。そうではなく、石が屹立しているとしても「後ろが崖だったり立体的になっているといい」。これまで造形的な軸や線として理解してきた第一の流れの構想もまた、いま明らかになったとおり「裏の山」と「向こうの山」のあいだにあるこの庭で「山の岩盤の一部がここに見えている」という事態を指向している。
これらの判断を総合するならば、立っている石と寝ている石のあいだに対立があるわけではないことがわかる。むしろ、石がたんに立っていて「変なこと」になっている庭と、地形との関係次第で石が立っていることも寝ていることも可能な「あってないような庭」とのあいだにこそ対立がある。
石組の支持体とは地形であり、石組とは露出した岩盤である!
先の言葉が示していたのは、庭という閉じた構造体が石をとおして所与の地形へと拡張される可能性だ。
「石組はこうでしかありえなかった」──古川は庭の最終的な我有化、あるいは作品化を、つまり「ありてある庭」を拒否し続ける。しかしここで語られた言葉は庭を、あるいは石組をひとつの造形的な関係として分析してきたこれまでの観点を否定するものではなく、むしろ拡張するものだ。庭は内部の造形的関係の束でもあり、同時に外部との造形的関係の束でもある。ここからは、それゆえ、庭を外部との関係のなかで描かなければならない。
とはいえ、石組はたんなる岩盤でもない。このこともまた確かなことだろう。
フィールドノートには迷いとともに二つの観点が記されていると言った。たしかにノートに記されていることは完全に中立的ではないかもしれない。それでもそこに記されているのは、庭のスケッチや人々の会話のメモの連なりである。だとすれば、記述対象である古川もまた、この両極的な揺らぎのなかでつくっている可能性がないだろうか?
もちろんここまで見てきたとおり、そこにはさまざまな他の意図や物体の論理、雑話的批評等が絡みあっており、この庭の制作はすでに古川の意図のみに還元することはできない。そうだとしても、庭内部の造形的関係と、庭外部との関係とを折衝しようとする古川自身の揺らぎもまたそこにあり、この振幅がフィールドノートに転写されている──そう考えられないだろうか? 実際、このあとの布石では、この庭の閉ざされと開かれのせめぎあいが間欠的に交替していくことになるのだ。
しかしその前に、次回からはまた視点を作業者の側に移し、石組ではなく延段をつくる職人たちの仕事を詳細に見ていきたい。連載第4、5回の続編である。
注
[1]「ありてある」は、たんに古川の「あってない」に対比したものだが、この撞着的表現は山田晶の自然神学論『在りて在る者』(創文社、一九七九年)から借りた。「モーセがシナイ山上において神にその名を問うたとき、神は「われは《在りて在る者》なり」と答えた」(同書、三頁、および訳は異なるが『旧約聖書』「出エジプト記」第三章十四節参照)。神学的解釈に立ち入る意図はないが、神学と芸術論が重ねられてきた西洋の歴史を踏まえるとおもしろい対比ではある。
[2]住職「庭でもなんでも個人よりお寺に残した方が残りますね」。竹島「たしかに代が代わると……」。住職「平山郁夫さんも(このあたりの寺に)残されてるでしょ。ここ(観音寺)でも千三百年ですからね。寺の住職はせやから古いもんの良さが分かるようにならなあかんて言うとるんですけどね。息子にも。お経覚えるんと一緒にね」。文化を人に示すことについては次の註釈を参照。
[3]「文化を人にお示しするのも寺の仕事です。庭を潰してしまったうちの老僧ではありませんが若いうちに寺づくりをしたらダメですね。いろんなものを見て勉強して、本当に人の心を癒やすものをつくっていかんと。庭つくろう思っても、まずいい人を探さなあかんでしょ。それで数を見て目を養う。そうするとやはり見る目が育っていくわけです。古川さんもいろんなもん見てきたんですな。ありものではなかなか庭はできんですから。まず先人が築いたものをベースにして、基礎がないといけないんですね。私らも若い時分は庭は芸術やと思ってませんでしたけどね。」
[4]ここで住職が開いたのは『探訪日本の庭2 山陰』小学館、一九七九年。
[5]古川自身もこの類似については明確に否定しており、初手の平石同様、一般的な「二段石」だという認識を示している。
(第8回・了)
この連載は月1回更新でお届けします。
次回2022年9月26日(月)頃掲載予定