徹底的に庭を見よ! 美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした新しいかたちの庭園論。京都福知山の観音寺にある大聖院庭園作庭工事のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」、連載第10回です。
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確たる基準のない庭づくりのなかで、庭師たちはDIY的結束によって物と物とを結びつけていくのだが、この綱渡りはそれほどスムーズには行かないようだ。というのも、その場その場で即興的に編まれていく複数の物のあいだには、当然のことながら解決しえない矛盾がたびたび生じてくるからだ。
物体間の、そして作業者たちのパースペクティブ間の矛盾や軋轢として現れるこの歪みは、いったいどのように折衝されていくのだろう?
庭師たちはこうした歪みを「偸む」あるいは「捨てる」という、危うい言い回しで表現される折衝の技法によっておさめていく。これらの技は、互いに矛盾しあう物事を矛盾するままに、相互に意見の異なる人々をも異なるままに巻き込みながら撚りあわせる狡知である。
今回検討されるこうした庭師の知恵は、基準を欠いたままに庭というひとつの造形的構成をかたちづくるための具体的な技術であると同時に、多様性に呻吟するぼくらの日常を別様に照らす共存の技法でもあるだろう。
形式の水準と物体の水準
「なんかこっちから見るとおかしいな」
作業を眺めていた古川が不意にそうつぶやき二人の作業者に近寄る。古川が咎めたのは大聖院の犬走り前に据えられた板石のフロアの据え方だ。犬走りの端の延石から十二cm落ちで三枚並べられたあのフロアである。
このフロアは、延石の長辺にたいして板石の長辺が直角になるように三枚横並びで据えられる。長方形の板石の組みあわせが、より大きな長方形のフロアになるということだ。いままさに最後の一枚の調整段階なのだが、その三枚目がどうやらしっくりおさまらない。
庭師は板石を据える際、まずは下地をしっかり固め、次に板石の場所を定めて置き、最後にドンツキと呼ばれる直径二〇cmはありそうな重くて太い丸太を上から何度も打ち落として板石と下地を圧着、安定させていく。レベルを乗せて水平面を確認し、水平面がおかしい場合は叩く位置をずらしながら地面にしっかりと固定していく。叩くことで板石と下地は強力に圧着され、下地そのものも充分に圧縮される。おびただしい来園者がこの石を踏みしめることになるのだから、たんに並べておくだけでは板石が沈んだり、歪んだりしてしまうのだ。
さて、作業者たちが板石のあっちを叩き、こっちを叩きしている様子を、古川はこの写真の視点側、つまりは沓脱石付近から眺めていたのだが、先の台詞を述べて近寄り、作業していた竹島、杦岡とともに板石を三人でとり囲む。

「なんかこっちから見るとおかしいな」。古川は写真視点側から見てそう言うと板石のフロアに近寄った。右端の作業者が突き棒で板石の下に土を込め、板石の端を僅かに上げようとしている。その左の作業者はスコップで板石を少し抱えてその作業を助けながらレベルの気泡を凝視している。奥のユンボは延段の下地をつくっているところ。
なにが問題となっているのだろうか? 二人の作業員が奥で見つめている板石をよく見てみよう。なにがおかしいと思われるだろうか?
見たところ奥の板石は先に据えられた手前の石と同じく綺麗におさまっているようにも見えるし、板石の小端がつくりだす左端の辺もうまく通っているように思われる。しかし、いままさに据えようとしている石の奥側の辺に注目すると、この辺が左に行くほど柔らかく落ち込んでいるのがわかるだろう。もちろんこのフロアには雨水が石の上に溜まったり建物側に流れないように、やや左側を落とした水勾配がつけられているけれど、それを考慮に入れても左上端の落ち込みは極端に強くなっている。
延石との関係が直角ではなく、この板石の左側がやや手前に寄ってしまっている可能性もあるが、この歪みが左上端に局限されていることからすると、板石の奥側の辺が曲がっているか、この石の天端の面そのものが左上端に向かって緩やかに落ち込んでいる可能性が高い。
しかし板石の向こう側で作業している庭師たちから見れば、この辺は一直線に通って見えているはずだ。つまり作業者は作業者のパースペクティヴから見た精確さで板石を据えようとしていると見るべきだろう。板石を据える最終段階で作業者が二人とも板石の向こう側にまわる必要が生じてしまったために──一人が板石の向こう側をスコップで持ち上げながらもう一人がその隙間に土を込める──、この上端の線の歪みが見落とされてしまったのだ。
板石を三枚並べてフロアをつくる。規格化された長方形の石をたんに並べていくだけのことだから、レゴブロックを並べていくような単純作業と思われるかもしれない。しかし物と物とのあいだには、つねに予想外の齟齬が生じてしまう。
具体の世界では、物のかたちはいびつに揺れている。庭で使用する素材のなかではもっとも規格化されている延石や板石でさえ、たんに並べるだけでは直線、水平、直角、平行をつくりだすことができない。ぼくたちの目は直線や直角で構成されたものの微細な歪みを瞬時に見てとるし、周囲の建築物が直線や水平や直角などの比較項にもなる。それゆえ規格化された石材の揺れは、石の特性ではなく、たんなるエラーと感じられるのだ。
こうして次々に発生する物体相互の矛盾や軋轢を折衝するためにさまざまな測定と調整がおこなわれる。抽象的な直線、平行、直角、水平等々をいびつな石材によって構成すること。これは形式の水準と物体の水準のあいだの折衝であるように思われるが、実際にここで重要なのは物と物の折衝である。前回の連載で描写した「水平らしきもの」同様、「かのような」「らしきもの」を仮設すること。設計図にあわせるのではなく、この現場で、あらためて物体相互のあいだに揺らぐ関係の束をつくりださなければならない。DIY的結束の出番というわけだ。
古川はさっそく、問題のある板石ではなく、三枚の板石からなる長方形のフロア全体が正しい形をしているかを調べさせる。このとき、個々の板石よりもフロア全体を問題にするのは、歩行による視点移動をともなう庭においては、一枚一枚の板石以上に背景となる地面からわずかに浮き上がるフロア全体の輪郭こそが浮き立って見えるからであり、庭全体を眺める視線にとっても、このスケールのなかではフロア全体の方が重要な要素として見えるからだ。
再度測定される平行、直角、水平。これらすべての要素は板石を一枚据えるごとに測定しているので問題はないはずだが、複数枚あわせると板石相互の辺の位置や高さや傾斜角のわずかなずれが全体としてのフロアに歪みをあたえることがある。もし狂いがあれば、石相互の譲りあい、石と石のあいだの目地の幅の調整によって解決することになる。
まずはフロアの短辺同士、長辺同士がメジャーによって測定され、平行になっているかが確かめられる。次に延石にたいしてフロアの短辺が直角になっているかどうかが直尺と棒の結束によって測定される。最後に、フロア全体の天端の水平。三枚の板石に長い棒を渡し、その上にレベルを置いただけの結束が使用される。棒の下に隙間がないか、三枚の板石をまたいで水平がとれているかを計測する。建物や延石と平行になる線上では水平をとり、垂直になる線上では排水のために水勾配をとる。

フロア全体がひとつの長方形の塊として扱われていることがわかる。この現場で測定に使用されている中央の白い棒は別の現場でカーポートを解体した際の廃材ということだ。最も直線が出る廃材として重宝されている。

直尺と廃材の棒の組みあわせ。でこぼこしている板石の辺の平均を棒でとり、それに直尺をあわせる。直角のDIY的結束。
こうして再度の測定と微調整がおこなわれた。フロアの平行、直角、水平が、延石と板石のあいだの目地幅の調整、板石と板石の場所の譲りあい等々といった物相互の折衝によって実現されていく。しかしながら結果的に、総じて問題はなかった。そのことがいっそう問題を深刻なものにする。というのも、先に古川が指摘した板石の辺は、やはりまだ落ちているかのように見えるからだ。
先ほど落ち込んだ板石の辺について書いた際、作業者のパースペクティブから見た精確さがあることを指摘したし、この再度の調整のなかでも物体の構成が正しく見えることの重要性を強調しておいた。もちろん平行、直角、水平といった形式の水準に照らして正しくおさまっていることはもちろん重要だ。しかしながら、個々の板石よりもフロア全体がどう見えるかが重要だったように、いびつな物体が支配する現場でより重要なのは、最終的に物体の構成全体がおさまっているかのように見えることだ。
かのように見えること──沓脱石周辺の延段作業から少し離れて、この見えかたにたいする判断が明確に現れた事例を見てみよう。
延段の一方の端となる板石のフロアが沓脱石周辺で敷設されているとき、反対側の山門側でも石畳に続く延段のもう一方の端が敷かれていた。こちら側の四枚の板石は比較的あっさりと決まり、庭師たちはまた別の作業へと散っていった。ところが少し間を置いて、別の作業地点からふとこの板石の組みあわせを見た作業員が、先ほどはちゃんと据えられていると判断した板石の組みあわせが、いまは奇妙に屈折して見えることに気づく。竹島が言う。
「古川さん、見た目なんですけど、あそこ折れて見えるんですが、(あのままで)いいですか?」

屈折して見える板石の組みあわせのスケッチ

屈折して見える板石を再度測定し直す
「見た目」という言葉が示唆しているのは、測定のなかでは直線や平行や直角が正しく出ていたとしても、異なるパースペクティブにおいては、つまり見た目においては物体の見えかたが変形してしまう可能性である。
当たり前のことだが、いびつな物体の構成は視点のとりかたによって様相を変える。この個別の物体が持つ歪みを職人たちはクセと呼ぶ。たとえ直角や水平が測定されていても、石の小端や天端や辺のちょっとしたクセが、組みあわせによっては異様な見た目をつくりあげてしまう。もちろんこの四枚の板石は修正されることになる。
板石の組みあわせは完成していたのだから、作業地点付近での見た目はほぼ精確だったはずだ。にもかかわらず、離れた地点からの見た目の屈折にあわせて板石を修正するならば、作業地点付近からの見た目はわずかに狂わざるをえない。クセが複数の見た目間の統合を困難にしているのだ。
作業者たちは観察地点によって異なる複数の見た目のあいだの齟齬を結びつけながら、物と物とを折衝していく。しかし重要なのは、こうして物が相互に折衝されていくとき、この折衝は者と者の──つまりは複数の見た目のあいだの──折衝を媒介にしているということだ。
連載第5回で者の折衝は物の折衝を媒体にして可能になると言った。しかし物相互の折衝が前景化するとき、それは者相互の折衝を媒介にしておこなわれる。
しかしながらすぐに想定されるとおり、この調整はときに複数の物体の間および複数の見た目の間に解決困難な矛盾を生じさせる。この矛盾はどのように解決されるのだろうか?
偸む
庭に散在するさまざまな物はレベルやメジャーや直尺や水糸や廃材などのDIY的結束によって他のさまざまな物と関係づけられており、その関係は職人たちの頭に入っているか、赤色鉛筆などで物に転写されている。それゆえ大きな齟齬が突如表面化することは稀だ。とはいえ実際に物と物を突きあわせて関係づけるとき、物のきわめて個別的な特性──クセ──が前景化し、深刻な齟齬をもたらす場合がある。
沓脱石側の板石のフロアに戻ろう。このフロアは再度の測定の結果、ほぼ精確に据えられていることが確かめられたのだった。しかしながら、沓脱石付近からの見た目では、古川が指摘した奥の辺の左隅はいまだに落ちて見える。
辺が落ち込んだこの見た目を打ち消すために考えられる解決策は、現状の精確な状態を変更することだ。つまり板石の左側あるいは左奥端をやや高めに据えるか、板石の左側をわずかに奥に開くか。事実上の直線、直角、水平よりも、いくつかの主要なパースペクティブから見たときにその物が真っ直ぐに、あるいは直角に、あるいは水平に見えることをある程度優先しなければならない。

左側のスケッチは建物側を下にして板石のフロアを上から見たもの。右上の辺がやや曲がっており、「石のクセ」という走り書きがある。この図からわかるのは、右端(奥)の板石は辺が曲がっているだけではなく、他の二枚に比してやや大ぶりで、延石との目地や庭側の小端の線が揃わないという問題も抱えているようだ。右側のスケッチは沓脱石周辺から見たもの。「なんかおかしいな」という古川の台詞が書かれている。ここに三度も現れる「盗む」こそが本節のテーマである。
しかしこうした変更は作業者からの見た目の精確さを崩壊させてしまう。辺の落ち込みが気にならなくなる程度に板石の左側を高くすると、隣の板石とのあいだに傾きのずれが出てしまうし、板石の左奥隅を上げるともちろん右下隅が落ち込んでしまう。かといって板石の左側を奥に開くと延石と板石の直角が狂ってフロアの形が変形してしまうし、隣りあう石とのあいだの目地もおかしくなってしまう。
ようするに、隣りあう複数の物との関係に拘束されているこの板石は、各々のパースペクティブからの要求を満たすことができない。
沓脱石付近から見た奥の辺の傾き──古川からの見た目──を解決しようとすると、隣の板石とのずれやフロアの変形──作業者からの見た目──が目立ってしまう。かといって処置しなければ古川からの見た目は明らかにおかしい。
この矛盾をどう処理するべきなのだろうか?
「ぬすみましょうか」。
ぬすむ──一人の職人が不意に口にしたこの動詞は、おそらくぼくたちが普段口にする「人の物を奪う」という意味での「盗む」ではないだろう。この言葉は、むしろ庭師たちが小さな嘘をつく合言葉として機能する。
そう、いびつな物と物がせめぎあうこうした局面では、複数のパースペクティブからの見た目の要求をすべて実現させることはできない。いま庭師たちが行わなければならないのは、測定によって石を精確に据えることではなく、折りあいのつかない二つ以上の見た目をギリギリ満たす均衡、より率直に言えば、ギリギリ満たさない均衡をつくりだし、折衝することだ。これこそがいましがた口にされた「ぬすむ」という言葉の意味である。
関係する諸要素が、どれも正しい位置をとることはできないが、しかしそれぞれがそれなりに見えること。
嘘というのは言い過ぎかもしれない。そう言ったのは、「ぬすむ」ことは、ある意味ではどうやっても解決できない難所をごまかすことにも近いからだ。しかしそうやって折衝されていく物を見ていると、「ぬすむ」ことはたんなる嘘やごまかしではないことがわかる。少なくともそれだけのことではない。作庭現場で響くこの言葉にはもっと積極的な含みがある。
というのも、すべてを精確に調整するというよりは、すべてを微妙に狂わせるような調整こそが、結果として、矛盾しあったままの整合を可能にするからだ。
確たる根拠を欠いた現場にDIY的結束による関係の網を巡らせ、鳶職のように自らの寄って立つ足場をつくりながら準安定的な構造を仮設していくとき、当然そこにはいくつものずれが発生している。このずれの堆積がいくつかの点で集約的に表面化し、歪みや軋轢として前景化するだろう。
それは諸事物のあいだに張り巡らされた関係のずれであることもあれば、たったひとつの物それ自体のクセが、この関係におさまりきらないずれを生む場合もある。ともあれ、このずれは具体的には、物と物のあいだの矛盾、物のおさまらなさとして現れる。
こうした局面を調整する庭師の知恵こそが「ぬすむ」ことだ。
これは職人たちの口を介して伝えられてきた言葉であり、この言葉にどういった文字があてられるのかはわからない。たしかに一般的な意味での「他人のものをひそかに奪いとる」あるいは「他人の芸や作品、また考えや行いなどをひそかにまねて学ぶ」という意味での「盗」とは違っている。しかし「ぬすむ」のなかにも「人目を忍んでひそかに物事を行う」あるいは「やりくりして利用する」という意味があり、この場合の用法はこちらに近い。
「盗」との違いを截然と切り分けることはできないが、これはかつて「偸」という文字に託されていたと思われる意味であり、ここではこの庭師の知恵を仮に「偸む」と表記しておきたい[1]。
偸む──それは人目を忍んで、秘かにやりくりされるなにごとかである。しかしこの職人たちの秘密の技芸をあえて言葉にするならば、少なくとも二つ以上の事物の間で互いに両立不可能な関係が生じたとき、関連するものがそれぞれ理想的でない位置をとることによって全体をおさめることだ。これは基準もないまま相互参照的に編み上げられていく結束のなかに、どうしようもなく現れる歪み、矛盾、摩擦といったものを調整する技法の別名である。
しかしとりわけ興味深いのは、先ほど指摘したとおり、物と物の関係の折衝は者と者のパースペクティブ間の折衝として現れるということだ。フロアの板石の歪みも、作業者の位置によって気になる箇所が変わっていたのだった。争点となっていた板石の左隅の落ち込みは、作業を進めていた職人たちから見ると真っ直ぐに見えていた。しかしながら同時に、古川のいた沓脱石側から見ると曲がって見えていたのだ。
もちろん庭師たちは現在の作業のなかでどういった点に問題が生じやすいかを知っている。石を据えるあいだ、作業する場所は変わり続けるし、むしろ能動的に視点を変えながら判断をするよう注意を払ってもいるだろう。この意味で、熟練した職人とは他の職人より多くのパースペクティブを一人で担保し、調整できる者ということになるが、それでもなお、作業のある段階でどこかの視点に固着してしまい、あるパースペクティブを見落としてしまうということはままあることだ。
それゆえ、現場ではさまざまな場面で「二人でやりいよ」あるいは「三人でやった方がええで」という古川の声を聞くことになる。
「二人でやらなあかんで。その方がむしろ早いからね」。
庭では一人でできそうな作業でも複数人でおこなう場合がある。それはたんに重量のある物体を一人で動かし、体に不要な負担をかけないようにするだけのことではない。そうではなく、古川は互いのパースペクティブを交換せよと言っているのだ。

杭打ち作業はパースペクティブの交換を示すわかりやすい例だ。木杭を地面に垂直に打ち込む軽作業だが、掛矢──木製の大きなハンマーのような道具──で杭を打つ者は当人から見て左右の歪みには敏感に気づくことができるが前後の傾きを見落としやすい。それゆえ、二人目の作業者が杭を打つ者にたいしてほぼ直角の位置から杭を見る。二人目の作業者は当人から見た左右──杭を打つものから見ての前後──をチェックすることで、互いの見た目を交換して補いあう。二人目の作業者はまた鉄梃という金属製の長い棒状の道具で杭の前後左右の傾きを調整し、補助する役割がある。他にも竹を積み重ねて柵と呼ばれる土留めをつくる作業では、離れた位置に立って水平を見るためだけの第三者を配置する場合がある。作業に没頭する二人を包摂するより大きなパースペクティブを設定し、竹の柵が水平になっているか、風景にうまく馴染んでいるかをチェックする。
物の折衝は、作業に参加する者それぞれにとっての見た目をまたいで形成される。寄り集まって口に出される各々の意図はこの個々にとっての見た目を基準にして語られる。しかしたんに誰かにとっての見た目にあわせるなら、別の誰かにとっての見た目は崩壊してしまう。こうして物と物の関係の矛盾は作業者のパースペクティブ間の矛盾として表明され、極端な場合には係争状態に陥ってしまう。
偸むとは、これら異質な視点が束ねられている物体をめぐって、各々にとっての見た目上の要求を完全に満たさないまでも、決定的に間違っているわけでもない位置を探ることだ。
互いに異なるものを見ているがゆえに、しかしそれらがひとつの物体の構成に結びつけられているがゆえに、庭師たちは物体間の関係を偸むことでパースペクティブ間の関係をも偸む。個々のパースペクティブを担保する職人たちは、物の折衝を経た上で、このずれをずれのまま飲み込むしかない。
ここまで「結束」「折衝」「おさめる」等々の語彙で見てきた複数の物体を結びつける庭師たちの仕事は、偸むというこの技法に支えられてかろうじて成立していたということだ。たしかに庭師たちは、物と物の関係を折衝する言葉として「偸む」と言っている。しかし実際には、物と物の関係の折衝をとおして、職人たち自身のパースペクティブ間の対立を、親方と職人たちのあいだの矛盾を、庭師たちと施主との軋轢を折衝してもいるだろう。
このとき重要なのは、偸むことは二項以上による係争状態を、この係争状態とは関わりのない高次の基準や根拠をもとに調停し、終わらせることではないということだ。
偸むとき、まず物相互の軋轢は物相互の配置によって均衡づけられ、この行為の媒体となる作業者たちのパースペクティブもまた同一平面上で係争状態に結びつけられている。次にこの行為は係争状態を終わりにするというよりは、むしろ係争状態を継続させる。言い換えるなら、偸むことは物/者のあいだに係争状態それ自体の均衡をつくりあげる関係の技法である。
これはたんなる関係の技法だろうか?
偶然的に隣りあい、相互に矛盾や軋轢を抱える複数の物/者を係争状態のままなんとか並置するとき、この構成をギリギリ成立させているのは関係である以上に非関係ではないだろうか?
偸むとはおそらく、ディスコミュニケーションを確保することによってこそ最低限の物/者の共同性を縫い上げる非関係の技法でもあるのだ。

最終的な板石の状態。踏まれないよう棒が渡してあるので見えにくいが、奥の辺の左隅は幾分ましになったとはいえ、まだやや落ち込んで見える。偸むことによる係争状態それ自体の均衡。
捨てる
さて、三枚目の板石を据えるのに苦労する作業員たちを見て、古川が言葉をかける。
「この石相当クセあるよ。ちょっと傾斜(水勾配)とって、(延石との)直角だけ見といて。昔の石だから(規格化されていないので)そうしっかりはしてないよ」。
庭の各所に生じる歪みは偸むことによっていびつに縫い上げられていく。とはいえ、すべての歪みがこの係争状態のなかに縫合されうるわけではない。古川の言葉にあるように、事物の強烈な特性はときにクセとして捨てられる。しかし捨てるとは、本当に無用のゴミとして処分することではない。むしろ、捨てること、つまりは非関係によってこそ可能になる共存があり、この意味で捨てるのだ。
最後に、そのひとつの例として、延段山門側の四枚の板石に続く大きな割石をめぐるやりとりを紹介しよう。
先ほど触れたように、山門側の延段は石畳と連続性のある板石が四枚敷かれた。その続きに選択されたのが観音寺境内の片隅に何枚か置かれていた大きな割石だ。沓脱石用ではないかと思われる水平な天端が特徴的な厚みのある石がチェーンブロックで降ろされる。
しかし割石の天端は、おおむね水平だとはいえ、よく見ると強い起伏がある。ある程度平滑な板石に続けて据えてみると、板石に隣接する部分は高く、反対側はくぼんで見える。しかも悪いことに、くぼんでいる側の隅にコブのような極端な膨らみがあるのだ。

チェーンブロックで降ろされた割石。手前の茶色い部分は高く、レベルが指し示す黒ずんだ一帯はくぼんでいる。この写真の右上部分が大きくコブのように膨らみ、手前の茶色い部分よりも高くなっている。
作業員たちはこのぐにゃぐにゃした面を、どのように延段らしい「水平らしきもの」として組織すればいいか混乱する。歪んだ面にとっての水平とはなにか? それは起伏の平均値であるかのように思える。しかし起伏の平均値とはなにか?
段差ができてしまうので板石との接続面の高さを変えることはできない。だとすれば板石と接していない側の高さをどう調整するかが問題になる。職人たちは、まずはコブが目立たなくなるよう板石側の高い部分とコブの二箇所を結ぶラインがおおむね水平に近づくよう据えてみる。すると石の半分を占めるくぼみ部分がさらに落ち込むため、割石全体が斜めに落ちているように見えてしまう。では、コブを無視して板石側とくぼみとを水平にするとどうだろう。するとより高くなったコブがやけに目立ってしまうし、割石全体が登り坂のようにも見えてくる。コブのある隅だけをやや下げるなら横方向の水平が狂い、板石との接続面もおかしくなってしまう。
試行錯誤のなかでいたずらに時間が過ぎていく。様子を窺っていた古川が痺れを切らしてやってくる。
古川「そこ(コブ)は捨てなしゃあないで! そこだけ見てもあかんのや、全体を見な!」
杦岡「それが石のクセか……」
鷲田「そしたらちょっとぬすむくらいにしておきましょうか?」

レベルの奥に見える盛り上がりがここでコブと呼んでいる場所、つまり今回捨てられることになったクセだ。このコブを捨て、しかし天端の複雑な起伏を落ち着けながら「水平らしきもの」が探られる。
さまざまな歪みが結びつけられていく庭の作業のなかでも、すべての特性がうまく縫いあわされるわけではない。この割石のコブのように過剰なクセはあっさりと捨てられる。しかしクセは切断されて本当に庭の外部へと打ち捨てられるわけではない。このクセは、延段をかたちづくる板石や割石といった加工石が構成する平面から捨てられるだけだ。
クセをなんとしても加工石の平面に包摂しようとするのではなく、この加工石の平面ではあえて度外視することで、割石が板石に馴染むことになる。クセの過剰さを無理にでもつねに関係づけようとするのがよいわけではない。捨てることでこそ、非関係なものにしてしまうことでこそ、クセはこの割石の特異性として残ることが可能になり、加工石の平面とは無縁のままに隣りあい共存する。
割石という局所的な物の配置の試行錯誤から目を離し、庭全体に視点を移してみよう。この延段は大聖院の建物と庭の石組のあいだを縫うように走っている。この狭間に打たれたこの割石は、配置の時点で建物や板石の側に平面的な部分を、石組側にコブを向けて据えられていた。つまり偶然的ではあれ、この石のクセは当初から建物や板石という加工された領域から遠ざけられ、石組が乱立する自然石の領域に寄せられていたことになる。
庭全体の配置のなかでは、クセはたんに捨てられたのではなく同時に拾われてもいたということだ。この割石が加工石の領域から自然石の領域への橋渡しの位置にあると見るなら、この起伏の過剰さはまったく捨てられてなどいない。

板石の奥に据えられた割石。コブのある右側はその奥の自然石による石組と響きあい、平滑な左側は手前の板石から左奥へと続くことになる加工石や建築の平面と響きあうことになるだろう。
「全体を見な!」──古川の言葉は、古川の直接の意図とは関係なく二重の意味を持って響くことになる。つまり第一に、割石の全体を見て細部の起伏に囚われることなくこの石を据えなければならない。しかし第二に、庭全体を見て、この石の特性を庭の配置全体のなかにどう位置づけるかを見なければならない。
この割石はコブをほぼ度外視して据えられた。しかし鷲田が述べたとおり、わずかにコブ側が低くなるよう偸むことになる。この意味で「捨てる」とは、その言葉の強い響きとは裏腹に、非関係にもとづく共存の技法であることがわかる。クセを潰すことなくクセのままに際立たせること、クセの過剰さが一元的な包摂のなかで窒息してしまわないように、過剰な特性は捨てられる。しかしそのなかでもなお、なけなしの共同性をかたちづくるために、クセは偸まれる。
揺らぐ事物のあいだに仮設的な関係をつくり、相互に矛盾しあう物体間の関係を偸み、強烈なクセを捨てることで共存させる。複数の物体間や複数のパースペクティブ間のおさまらなさを形式の水準から一様に均して関係づけてしまうのではなく、ある意味ではバラバラでガタガタな非関係にもとづくこの係争状態それ自体の均衡をつくりあげる。庭づくりの実践とは、この物騒な共存──庭園とはときに平穏な楽園として語られてきたにもかかわらず──をそれなりに折衝し続けることであり、庭師の知恵こそがそれを可能にする。

三叉を担ぎ出す職人たち
庭師たちがまた庭の奥から三叉をかつぎ出してくる。もう何度目になるだろう。庭を横切っていく三叉はゆらゆらと揺れている。作業者たちも三叉もそれぞれの進路に特有の障害物をかわしながら揺さぶられている。しかしいまにも倒れそうなほど傾くとしてもなかなか倒れることはない。
三叉の運搬は結束された複合的な物/者に拘束されたコミュニケーションである。しかしここには同時に、苛烈なディスコミュニケーションもまたあるだろう。
左の職人が手前にあるサツキをかわすため右にずれたことでバランスは大きく右に崩れようとしている。奥の職人は二人を見るのではなく、バランスの核心である第四の行為者、つまり三叉の頂点とチェーンブロックを見ている。手前の職人は後ろの二人を見ることができない。しかし手に伝わる動きから危険な状態を察知して足を止め踏ん張っている。左の職人は崩れたバランスを戻すため、三叉の足を左に開きたいのだがサツキが邪魔で開くことができない。とすると、左の職人はいま、三叉を担いでいるというよりは左下に引き下げている。残りの二人には左の職人が押し下げる分の過剰な重量がかかっているだろう。
ああ、なんという非関係! しかも悪いことに左の職人はなおも右に移動しなければサツキをかわせそうにない!
おそらく職人たちは、倒れようとする三叉の不安定さと重量に、思い通りに動かすことのできないこの相互拘束的状況に、苛立っている。しかしこの構成は拘束されるすべての行為者にさらなる行為を要求し続けるだろう。
ああ、なんと非関係的な、しかし緊密に結束された共同性だろう!
この構造体は不安定に揺らぎながらも作業者たちの行為を理不尽にも結びつけ、最小限の物/者の共同性をかたちづくりながら、何度でも庭をよぎっていくのだ。
注
[1]「ぬすむ」の語義については次の辞典を参照した。また同書で「ぬすむ」にあたる五つの文字が紹介されているが、本論で検討した意味を持つのは「偸」に限られる。北原保雄他編『日本国語大辞典第二版 第十巻』小学館、二〇〇一年、六〇九頁。(同前、六〇九頁)。
(第10回・了)
次回の掲載は2022年12月19日(月)頃を予定しています。