徹底的に庭を見よ! 美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした新しいかたちの庭園論。京都福知山の観音寺にある大聖院庭園作庭工事のフィールドワークをもとにした「令和版・作庭記」、いよいよ佳境を迎える連載第11回です。
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前回、前々回、つまり連載第9、10回は、連載第4、5回に引き続き延段の敷設作業とそれをとりまく職人たちの仕事に注目してきた。今回からは再びこの大聖院庭園の骨格をつくる石組と植栽に注意を向け直そうと思う。
第二期石組の分析をおこなった連載第6、7、8回目は四月十六日の十九手目までで終わっていた。そこでは石相互のあいだに複雑な類縁関係や反復やリズムといった造形的関係が結ばれはじめ、この庭の構造線をつくる「流れ」にたいして斜めに交わる「斜交いの流れ」が発生したのだった。
庭とは住職がそう願ったようにこの庭に局限された閉じた造形的作品、つまりは「ありてあるもの」なのだろうか?
しかし古川は連載第8回末尾で、裏の山から庭を抜け、麓の平野を超えて向こうの山へと連なる巨大な地形的構造の現れとしてこの庭の石組の構想を語った。
庭とは古川がそう願うように庭の外部に根拠を持つ、「あってないもの」なのだろうか?
今回からはじまる数回の連載では、石組だけでなく、植栽や地形といった庭を成立させるさまざまな要素にも注意を払いながら、庭の内部と外部の果てしない折りたたみ作業をたどっていきたい。
透かし
庭の植栽に注意を払っておきたい。
そもそも大聖院庭園には、沓脱石周辺から見て正面にあたる東側と左手にあたる北側には低い土塀が展開しており、この二辺の土塀に沿って、庭をとり囲むように数多くの樹木が植栽されていた。
さて、植栽帯を細かく見ていくと北側の植栽、つまりは視点となる沓脱石から見て左手のタラヨウやモミジといった高木類はかなり大きく成長しており、重なりあう木立となって背後の景色を隠している。それにたいして、東側植栽、つまりは沓脱石から見て正面の植栽では、コウヤマキ、八重のツバキが二本、ゴヨウマツ、やや低いサルスベリやアセビなどが点々と間をあけて立っており、そのあいだから背後の山の斜面やモミジを主体とした植物群落、本堂へと続く階段などが見えている。

まだ石が運び混まれただけの最初期の庭の様子を沓脱石付近から撮影。正面に庭をとり囲む額縁としての東側植栽が見える。写真では背後の山との区別が困難だが、土塀に沿って植栽が並んでいる。手前には低くサツキツツジの大刈り込みがあり、奥には数種の樹木が点々と並ぶ
庭をとり囲む植栽は、一人の職人が呟いたとおり「額縁みたい」な機能を果たしている。初期状態の植栽と土塀はこの庭の内外を明確に区切り、この庭をひとつの閉じた作品として提示しようとするかのようだ。
この庭の植栽について、古川はどういった構想を持っていたのだろうか? 時間を遡り、着工当初の四月九日の言葉を引こう。
──植物はどうしていくつもりなんですか? ツバキとかちょっと間延びしてますしサツキも目立ちますね?
「サルスベリは抜いてどこかに持って行こうかと思ってるんです。奥の本堂と山が見渡せるようになるでしょう? コウヤマキは枝を抜いてね。すーっと奥に視線が抜ける。左のツバキは頭が高いでしょ。一段くらい下げたらいいんじゃないかと思って。サツキはもうちょっと切ろうかと思ってます」
この連載では庭に据えられる石組の造形的な関係に注目して作庭作業を記述してきた。この態度は、ある意味では庭をこの領域内に局限される閉じた作品として見ることだ。しかし連載第8回末尾で古川が指摘したとおり、この庭の石組は裏山から平野を超えて向こうの山までつながる地形的文脈に結びつけられていたのだった。植栽について語られたこの言葉からも、背後の斜面や山をはじめとして、庭の外部が庭のありようを深く規定していることが見てとれる。
古川の言葉は、このことをあらためて教えてくれる。
正面のサルスベリを移動させ、コウヤマキの枝を抜き、ツバキの頭を飛ばし、サツキを切る。これらの行為が意味することは、第一に庭内部の植栽の存在感を和らげるということであり、第二に背後の本堂と山、つまりは奥へと「視線が抜ける」ようにすることだ。
これまでの作庭プロセスはなにかを足すことで敷地内に閉じられた造形的構成をつくりあげる側面に重心があったが、ここではなにかを減らすことで可能になること、庭そのものの彫琢というよりは、むしろ庭の外部に目が向かうことで可能になることが語られている。
「あのツバキ、ちょっと透かしてもらえますか?」
石組作業と並行して、門に近い右手側のツバキの枝抜き作業がはじまる。一人の職人がするするっと木に登り、天端から順に枝を抜いていく。この樹木の剪定作業を、職人たちは「透かす」という動詞をそのまま名詞化して「透かし」と呼んでいる。
透かしは日曜日に家の庭木を切る人々がよくするように──ときに市井の庭師たちもそのような剪定をしているのだが──、たんに伸びた枝先を切り詰めることではない。切り詰めるだけなら「透かし」よりは「刈り込み」に近い。その方法では伸びた部分を切ることができたとしても懐の枝は増える一方だし、月日が経つにつれ木は鬱蒼としてくるだろう。
そうではなく、伸びた枝先を含むより大きな枝を懐から抜き、枝数も含めて枝葉の密度を減らしながらひとまわり小さくまとめ、それでいて残る枝先にはほとんど手を入れないのがこの技法の要点だ。
透かされた植物は鬱蒼とした枝葉の塊のような状態から、技法の名が示すとおり軽やかな半透明状のボリュームになる。枝葉をとおして向こう側を見透かせるようになるのだ。

門のすぐ左手にあるツバキ最上段と下段の一部が透かされた時点の状態。まだ手の入っていない左側のツバキや、冒頭で提示した初期状態の写真と見比べると「透かし」がなにをしているかがよくわかる

透かしが終わったツバキ。同じく庭園内の植栽である背後のコウヤマキや左下のサツキツツジと比べると透かしがなにをしようとしているかがわかる。その状態はむしろ背後の山で管理されることなく自由に枝葉を展開している右奥のモミジに近い。密度が落ちた半透明の枝葉をとおして背後を透かし見ることができる。ひとまわり小さくなっているが柔らかな枝先はほとんど切り詰めていない。盛りの花は剪定後すぐに枯れていくため透かしのタイミングで摘み、蕾を残す。ちなみにこのツバキは植え替え準備のため極端に強く透かされているが、透かしのイメージはつかむことができる
──ツバキを剪定されましたね?
「ええ。剪定されるとね、すーっと背後の山とか本堂とかが見えてきてね。後ろとつながっていくんですよ」
この言葉のとおり、剪定されたツバキはその枝葉をとおして背後の植物を覗かせる半透明のボリュームになり、これまで視線を遮る量塊でしかなかった植栽が、途端に背後の山に溶け込んでいく。視線は植物に遮られることなく奥へと抜け「後ろとつながっていく」。
こうして視線が抜けることで、庭の外部は内部へと織り込まれることになる。古川の庭園観にとって、この外部へ抜けていく、あるいは外部が内へと織り込まれる作用は庭を成り立たせる根拠とでも言うべき重い意味を持つ。「いや、これがあるから成立するというか」。庭の背景となる植物や地形に触れながら古川はそう言った。
庭は、あるいは少なくとも古川にとっての庭は、庭内部の造形的要素の構成だけで成立するものではないということだ。この庭は庭の「奥」や「後ろ」に強く依存している。「後ろとつながっていく」こと、見透せること。この調整をすることが透かしや庭づくりそのものの重要な課題なのだ。
庭を支える奥や後ろとは、透かし剪定にとっては背後に見える山やそこに展開する植物群落だ。しかし古川にとってこの庭の石組は、地形や岩盤、観音寺を抱く堂山や平野を越えた向こうの山によって規定されている。ようするに、広域的な地形的文脈もまたこの庭の奥や後ろにあたるということだ。この想定は後景を絵画的に切りとったり、古建築などの点景を引き込む伝統的な借景とはまったく異なっている。
あってないような庭の条件
連載6回から8回で詳細に検討したとおり、作業七日目となる四月十六日、十九手目までの段階で石組の骨格はほぼできあがった。石は各所で複雑な類似関係や反復によって相互に関係づけられ、中央主石の交替を境に南南西―北北東の軸上に連鎖する石の流れ──第一の流れ──にたいして、南東—北西の軸上に展開する石の流れ──斜交いの流れ──が発生し、同時に奥からジグザグとせり出してくる動勢がかたちづくられていった。
しかしなぜ石組に類縁関係や反復やリズムが、ようするにある種の秩序が要請されるのだろうか? 庭園内で石同士を結びつけている特定の形態と配置はたんに造形的な関係にもとづいて決定されているのだろうか?
ここまでの一連の分析は、基本的に据えられた石の形態や配置といった造形的特性に注目してきた。そこで暗黙のうちに想定されていたのは、庭とはひとつの閉じた造形的空間だということだ。しかしながら、連載第8回末尾で第一の流れの構想について語った古川は、流れの南西側は「本堂(大聖院)を超えて[…]裏の山まで」つながっており、北東側は「土塀を越えてずーっと下につながって」いるような構想を提示した。
「下手したら向こうの山までつながって」いるこの石の流れは、「山の岩盤の一部」が露呈したものとして想定されている。仮に層状に積層する岩盤がさまざまな侵食作用に耐えて偶然この庭のあちらこちらに突出しているとすれば、それらは直線的でありうるし、大聖院や土塀の限界を超えて山や麓までつながっていてもおかしくはない。
以前、名のある庭では石が立っていると住職が述べたとき、古川はそういった石組は「変なこと」をしているのだと返し、「地形が大事で、後ろが崖だったり立体的になっているといいんですけどね」と答えていた。「あってないような庭」という古川の理想に照らせば、庭に巨大な石を乱立させることは、それだけで「変なこと」であるかのように思われてしまう。しかしすでに指摘したとおり、古川は立つ石は変で伏す石はよい、あるいは大きい石は変で小さい石はよい、などという安直な判断を表明しているわけではない。
そうではなく、地下に眠る巨大な岩盤の露出として石組を組む以上、据えられた石の姿形や配置が可能になる地形的必然性がなければならない。判断の参照項としてつねに地形を暗示する古川の言葉の綾から想定できるのはこうした事態だ。
石組の支持体は地形であり、石組とは露出した岩盤である──連載第8回末尾で書いたこの観点からすれば、周囲に切り立つ崖のような地形的支えがあるならば、石が高く垂直に乱立することもまたありうる。たとえ無数の石が激しく奇妙な見た目をつくり出しているとしても、その状況が成立しうる地形的条件にとり囲まれている庭であれば、その庭は「あってないような庭」でありうる。
観音寺であれば南から北へと落ちる堂山の斜面と、東側の土塀の背後で一度谷に落ち再び立ち上がっている斜面がその条件となるだろう。透かし剪定によって庭の外部が見透せるようになることが重要だったように、石組にとってもその背後に山や地形や岩盤といった庭の外部が見透せることが不可欠であり。大聖院庭園の石組が土塀を越えて裏の山や向こうの山につながっているという構想はこの地形的必然性から来る。
古川にとっての庭とは、まさに「これがあるから成立する」のだ。
つまり、石組は造形的な意図だけで配置されているのではない。石の造形的特性は地形の造形的特性の名残りとして現れてくるはずのものだからだ。
大聖院庭園の石はたしかに造形的に互いに呼応し、類縁関係を持ち、反復しあっていた。しかし石組はむしろ、庭の内外に広がる地形的構造を反復する結果として相互に呼応し、類縁関係を持ち、反復しあっているのでなければならない。巨大な造形作用からくる地形の広域的構造が庭園内の石組相互の局所的構造を成立させている。
四月九日夕刻に古川が突如明らかにした地形の重要性──庭の石が裏の山から向こうの山までつながっている──について、石組に焦点をあてて語り直すとどうなるか、訊ねてみた。
「おおもとの地形のラインが感じられるとスケールが大きく見えるということだよね。つまり山脈とか岩盤とかがまずあって、それが陥没したり隆起したりして石がこうやって現れてくるわけでしょう? だから、そのもとの状態がどこかに痕跡として残る。そういうのを意識すると石組が統一されるってことだよね」
──古川さんが流れについて「水が曲がるのには理由があって、それは大きな石に突き当たるからだ」と仰ってましたが、それに似た話ですかね?[1]
「そうそう。実際、石は地下でつながっているわけだから。たとえば異質な変成岩がせり上がってきて、そこだけ侵食されずに残ったりすると、滝になったりするわけじゃない? そうすると石のリズムが当然生まれてくる。統一される」
石はもともとひとつの山や岩だった。その「地形のライン」を暗示することができれば、石組はたんに庭の表面に並べ置かれた造形的配置を超えた「スケール」を獲得する。それはもはや人為的な造形物を超えて周囲の山々や地下の岩盤の一部であるかのような連続性を纏うことになる。石はたしかにバラバラだが、この地形的構造の痕跡であるがゆえに必然的に類縁関係や反復を持ち、しかし地下でつながっているがゆえに、あるいはかつてつながっていたがゆえに統一されている。
庭の石組に見られる類縁関係や反復やリズムは、庭の内部に局限された造形的関係によって決まるのではなく、すーっと見透すことのできる「奥」や「後ろ」からやって来る。しかし、これはきわめて倒錯した想定ではないだろうか?
石組と地形を混ぜあわせる
そもそも石を据えるというとき、庭師たちがおこなうのはほとんどの場合、石の下部を土に埋めてしまうような操作である。石は庭の表面にたんに置かれるのではなく、地表にその一部を晒しているかのように埋められる。
石はその見た目の体積に比してあまりに重いのだから、せっかく庭に運び入れた石はできるだけ大きく見えるように使いたいというのが職人の本音だろう。もし大きく見せないのであれば、よほどの理由がない限りひとまわり小さい石を運んできた方が楽なのだから。だとすれば土に埋める部分をできるだけ少なくすることでこそ、職人の狙いは成就されるように思われる。
しかしながら実際の庭では必ずしもそうはなっていない。むしろ石を据えるというときにおこなわれているのは、輪郭が狭まっていく石の下部を多いときは三分の一から二分の一程度までをも土中に隠してしまう操作だ。それによって石を安定して見せるとともに、末広がりな輪郭がそのまま地下に延長されているかのように──つまりは巨大な岩の露頭であるかのように──見せるのだ。
庭で石を据えるとき、そこでは目に見える造形的達成だけではなく、見ることのできない地下が想定されている。あるいは造形的達成は部分的に地下からやってくる。ここから類推すれば、巨大な岩盤の露出として石組を想定することも理解しやすい。
庭の石組に見られる類縁関係や反復やリズムは、たしかに造形的構成を成立させるためのある種の秩序だろう。それは石を使った石相互の関係の構築であり、三尊石や虎の子渡しといった図像的な解釈の手前で石の据え方や配置を支えている。
しかしながら古川によれば、石組はそもそも地形や岩盤の痕跡であるがゆえに反復的な構造を持つ。この構造は造形的選択の外部である地形や岩盤のありさまに規定されている。石組がある種の斉一性を持ちながら、重複するわけではなくバラバラでもあるのは、岩盤の風化にたいする耐性が場所によって異なること、各部が同一の風化の影響を受けているわけではないことから生じる。
ひとつの力に貫かれながらも多様であるような構造、これを古川は石組のリズムと呼んだのだった。
だが、ここには倒錯がないだろうか?
古川によれば、岩盤にたいして侵食や風化の作用が加わることで、石は地上ではバラバラであるかのような状態を呈しているが、ひとつの岩盤から生じているために石にはリズムがあり統一されている。この「地形の力学」とでも言うべきものは、しかし、庭に据えられた石組にとっては縁のない力ではないだろうか?
古川が過去に観察してきた露頭や滝の成り立ちが念頭に置かれているとしても、庭の石と地下の岩盤とのあいだにつながりはない。地形や岩盤といった説明は石組の背後に仮構された物語に過ぎないだろう。
眼前の庭石は地形の力学とは無縁に、たんにこの庭の表面に散在しているだけではないか?
地下のつながりから庭石にリズムや統一が生まれると言った古川の言葉に続けて、そう切り返してみた。
──でも石組そのものは岩盤ほどは整然としておらず、たんに庭という空間に散らばっているわけですよね?
「自由だけど統一がある。その統一を出すというか、出せるかどうかだよね。意外と自然って統一されてるんだよ。自然はとりとめもなく茫洋としたものだと思われてるけど。だいたい地球で見てもゴンドワナ大陸が離れていって、地図で見たらちゃんとひっついてたことがわかるじゃない? 海岸線を見たら『ああ、なるほど』って、ちゃんと痕跡が残ってるわけだよね。日本が中国とかロシアのあたりから離れて来たとかびっくりするけど、地図を見たら、『ああ、そうか』って」
古川の返答は想定と違っていた。こちらの質問があまりにも婉曲的だったのだろう。
問いの意図はこういうものだった──「あなたの想定に反して石組と岩盤は事実上無関係であり、石はこの庭の表面に散らばっているだけなのではないですか?」
この問いに頷いてもらえたならこう続けるはずだった──「この庭の石の配置や形態はあなたの造形的選択の結果なのですから、その選択の基準や配置の規則を聞かせていただけませんか?」
ようするにぼくの質問の意図は、まず地形の力学と石組が無関係であることを確認し、次に古川自身の造形的判断について聞こうとするものだった。
しかし古川は、ぼくのあやふやな問いをこう補って解釈したかのように思える──「石組は岩盤に規定されているというほど整然としておらず、自在に展開しているように見えますが、なぜ、あるいはなにが統一されているというのですか?」と。
だから統一の理由は「自然」による地形の力学にこそあり、石はすべてこの力学の「痕跡」だからだと答えた。しかしこの返答をそのまま受けとるなら、庭師の造形的選択は地形の力学と一致することになってしまう。
いや、むしろ、この老庭師の言葉をもっと文字通りに受けとるべきかもしれない。先ほど古川がぼくの問いを真に受けずに答えたのではないかと想定したが、それはこちらの勝手な想定が崩れたからに過ぎない。そうではなく、文字通りに、古川がぼくの質問を真摯に受け止めた上で答えていたと想定すればどうか?
ぼくはなにを聞こうとしていたか?──「石は自由に据えることのできる造形的関係であって、あなたが想定するような「自然」の力学からは切れている」と言っているように思われる。
それにたいして古川はなんと答えているか?──「自由だけど統一がある」。石組が自由な造形的関係だという君の指摘はわかっている。しかしその上で地形の力学に結びついた「統一を……出せるかどうかが重要だ」と答えていることになる。続けてこの地形の力学を「自然」という言葉にパラフレーズした……。
地形の力学の痕跡として石組を組むこと──そう理解するとすれば、ぼくだけが、石組を自然化しようとする古川を見ていたことになる。ぼくだけが石組の自然化を批判し、庭を古川の造形的判断の集積に還元し、庭を閉じた作品として、「ありてあるもの」として理解しようとしていたのではないか?
しかし古川は、つねに石組を地形と混ぜあわせることについて語っていた。だからこそ「おおもとの地形のラインが感じられるとスケールが大きく見える」のであり「そういうのを意識すると石組が統一される」。
石組のリズムについて訊ねたときの応答を引こう。
「もともとは山脈みたいなものだったわけだよね。かつてはひとつの大きな石のかたまりだったわけだから。同じものだったんだからリズムがある。同じ風化作用を受けてきているわけだから。でもみな同じかというと微妙に違っている。場所によってちょっとずつ違った作用を受けるんだからね」
古川は「山脈」や「ひとつの大きな石のかたまり」から石組が生起したと言っているのではない。そうではなく、大聖院庭園をとり囲む堂山の量塊やそれを削った小川や谷について、この庭という場を支えている地形や岩盤の造形史について語っている。
石組とは過去の無名の庭師たちの布石や古川が過去に置いた石、あるいは既存植栽の形態や配置に触発され、そこに巻き込まれていくことだった。しかし今回、透かしや地形をめぐる古川の言葉から明らかになったのは、この庭という場をかたちづくる土地の形態もまた、石組当初から問題になっていた「こはん」や「他性」として庭の形態を拘束し、巻き込んでいくということだ。
庭の条件となっている地形や岩盤に触発され、その力学の痕跡として石組や石の配置をかたちづくること。古川にとって、石は地形と混ぜあわせることではじめて石組になるのだ。
注
[1]ここでの「流れ」は大聖院庭園に見られるような直線的に連なった石の配置のことではなく、水が流れることを想定した山間の細流のような配石のこと。遣り水と異なり必ずしも水は流れていない。非公開だが大聖院の中庭は東側約三分の二が古川の作庭であり、そこにはこの意味での流れがある。さて、庭に流れをつくる際、職人たちは河川の岩や岩盤の配置を参照する。河川の広域的な軌道は土地の高低差が決定しているとしても、局所的な軌道の変化は水流が岩盤に突き当たることで決定される。
(第11回・了)
次回はいよいよ連載の最終回を迎えます。
掲載は2023年1月23日(月)頃を予定しています。