第12回:石を片づけるときに起こること ──半弧の布石と見る者の身体 | かみのたね
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2023.02.20

第12回:石を片づけるときに起こること
──半弧の布石と見る者の身体

庭のかたちが生まれるとき / 山内朋樹

美学者であり庭師でもあるユニークなバックグラウンドを持つ気鋭の研究者・山内朋樹による、作庭現場のフィールドワークをもとにした新しいかたちの庭園論。ご愛顧いただいた本連載も、いよいよ今回で最終回を迎えます。第12回目は、京都福知山の観音寺にある大聖院庭園作庭工事のフィールドワークは終盤を迎え、第二期石組の後半部分を検討していきます。庭のかたちが生まれるとき、そこでは一体何が起きているのか? 

 大きな石も少なくなってきた作業八日目となる四月十七日、石組は唐突に終わりへと向かいはじめたかのようだった。今回検討するのは第二期石組後半部分となる二十手目から二八手目だが、なかでも注目したいのは、古川が残り少なくなってきた石の「処理」あるいは「片づけ」と呼んだ作業から立ち現れてきた「半弧の布石」である。まるで見る者の視点をとり囲むように配置されたこの布石の効果とはなにか? それが今回で終わりを迎える本連載で追跡する最後の謎だ。この布石の秘密に迫る前に、いま一度植栽と背後の山との関係について考えてみたい。

 

刈り込みと地形

 ここで大聖院庭園東側、沓脱石付近から見て正面の土塀沿いに展開しているサツキツツジの列植について見てみよう。
 ひとつひとつの株の丸みを残しながら刈り込まれたこの列植は、いまやひとまとまりの雲であるかのように庭をふちどっており、連載第3回でも指摘したとおり、その量塊りょうかいは右(南)に行くほど膨張して高く手前に迫り出し、左(北)に行くほど収束して低く奥に後退している。

石組の奥に見える右上がりの複数の楕円状の植物の連なりがサツキツツジの刈り込み。この写真は十七日の仕事が終わった時点のもの

 サツキの刈り込みは最初からこのかたちだったのだから、今となってはこの右上がりの形態が植栽当初に予定されていたかどうかはわからない。しかし土塀沿いに展開する既存石組とほぼ同じ位置に植栽されていること、そして現状、既存石組を完全に覆い隠してしまっていることから、これらのサツキはもともと既存石組の脇に低く小さく添えられていただろうことが想像される。
 「刈り込み」は同じ植栽剪定手法の「透かし」とは異なり、その年に新しく伸びて突出してきた枝葉を刈込かりこみばさみやヘッジトリマー──近年台頭した電動式あるいはエンジン式のバリカン──によって刈り戻すものだ。刈り込みは枝葉の密度調整や枝先の軽やかさには配慮せず、とにかく昨年刈り込んだ面まで枝葉を刈り戻す単純な行為である。
 しかし昨年の基準面まで刈り戻すとはいえ、数十年、数百年単位で樹木の大きさを一定に保つことは難しい。樹木は生長によって昨年刈り込んだ基準面そのものを押しひろげていくからだ。初期の構想を示す指示や写真が残っているのでない限り、刈り込まれた樹木は庭師たちでさえ気づかないくらいの速度で大きくなっていく。
 刈り込み後、樹木はたしかに昨年とほとんど・・・・同じ大きさになっている。昨年も一昨年とほとんど・・・・同じ大きさになっていただろう。しかし数十年前と比べるなら、おそらくは大きく違っている。職人たちはこの「ほとんど」を、つまりは異様な遅さを知覚することができない。
 サツキは知覚しえない遅さで膨張した──そうだとしても、南北の株の極端なスケールの落差は説明できない。経年的に管理されてきたのだから、この落差が生育条件の違いによって自然発生的につくられたと考えることもできない。
 では、サツキの形態を右手に向かうほど大きく、左手に向けて小さくなるようかたちづくった原因はなにか?
 この右上がりの傾斜は古川が手がけたものではない。おそらく大聖院庭園が作庭された江戸時代以降数百年にわたる管理のなかで、サツキが膨張していくのと同じく意図しないままに傾斜が蓄積したか、こうして蓄積した傾斜にある時点で肯定的な判断をおこなったか、あるいは意図的にかたちづくって維持してきたか、のどれかである。
 しかしこの三択は問題ではない。重要なのは、この左右不均衡な形態が過去の無数の職人たちに違和感をあたえなかったということだ。
 サツキの列植を背後の山とよく見比べてほしい。この左右不均衡な雲形の形態は、奇妙なことに──あまり・・・にも・・自然に・・・と言うべきかもしれない──庭の背景となっている山の斜面とほとんど同じかたちをしている。
 この不均衡なサツキの形態は、ツバキや石組と同じく「奥」や「後ろ」からやってきたのではないだろうか?
 左右不均衡なサツキの刈り込みは、大聖院庭園そのものを包摂するより大きな文脈、つまりは山から平野部へと降りていくこの巨大な地形的構造を反復している。あるいは周囲の地形の傾斜やそこに生い茂る樹木の枝葉がつくりだす量塊は、サツキの傾きをその地形的構造のなかに飲み込んでいる。
 この文脈があったからこそ、手前に発生した局所的なサツキの形態は肯定されえただろうし、ともすると気づかれることなくこの形態になりえた。つまり、「あってない」。
 石組と岩盤の関係について述べてきたとおり、石組の操作と地形の造形史の関係は切れている。これはサツキの刈り込みと堂山の木立も同じことだろう。それにもかかわらず、刈り込みと山の植物は形態的な類似による造形的短絡によってつながりを仮構してしまう。
 いや、類似が先行したのではない。連綿たる管理のなかで堂山の形態がサツキの形態を引き寄せ、とりいた。あるいはサツキの形態の変容が堂山の形態を引き寄せ、降ろしたのだ。
 形態はあらかじめ類似していたのではなく、似てしまう。この変形の効果こそが無縁なもの同士を引き寄せ、庭のスケールを転調させる。サツキの形態が巨大な山容を降ろすことで山はサツキの大刈り込みになる。山がサツキの刈り込みにとり憑くことでサツキの列植は山裾になる

「左のツバキは頭が高いでしょ。一段くらい下げたらいいんじゃないかと思って」

 サツキの形態は古川が選択したものではない。しかし古川もまたこの大きな地形的文脈を反復しようとする。石組についてこの老庭師が語ったように「おおもとの地形のラインが感じられるとスケールが大きく見える」のだった。
 透かしによって樹木の背後が見透せるようになることの効果も、石組が地形や岩盤を想定する理由もここにある。植栽が山の木立になり、山の木立が植栽になる。庭石が岩盤になり、岩盤が庭石になる。ようするに、庭は山裾になり、山は庭の延長になる。
 庭の内外は必ずしも現実的な因果関係をもっているわけではない。この意味で庭の内と外は切れている。しかしつながりは仮構される。このありふれた開かれと閉ざされの主題が作庭プロセスのなかでどのようにせめぎあっていくのか、作業八日目の石組──第三期石組──を見ながら詳しく追跡しよう。

 

半弧の布石

 作業八日目となる四月十七日、庭づくりは突如終盤しゅうばんに入ったように思われた。
 石組の骨格は前日の十九手目──斜交いの流れを北西方向に延長する四国石──まででほぼ組み上がっており、この日は骨格にかかわるいくつかの石と周縁部の調整的な石を据える作業、加えてすでに据えている石の決定、据え直し、微調整が進められた。
 前日七日目は南南西―北北東の第一の流れにたいして南東―北西の斜交いの流れが現れてきたのだったが、この日据えられた二十手目から二二手目はこの第二の斜交いの流れの軸線をより強化するものだった。
 まず敷地北西隅にそれほど大きくない二つの石が二十手目、二一手目として据えられた。これら二石は十八、十九手目の延長として考えるなら軸線はややずれているものの、流れに呼応し、強化する布石として見ることができる。というよりもむしろ、休憩中の鷲田が呟き、竹島が追認したように、これら二石は十六手目──斜交いの流れのきっかけになった石だが、その延長線上に石を持たなかった──への直接的な応答だと考えられる。

「あの石(十六手目)を据えた関係でこの石(二十、二一手目)を据えたのかな?」
「うん、そうやね」

二二手目まで。斜交いの流れを顕在化させながらも延長線上に石を持たなかった十六手目に呼応する二十、二一手目。同じく十三手目から十九手目の斜交いの流れの軸上に二二手目の鰐亀が打たれる

 次に十三手目の獅子石から十九手目の四国石にいたる流れの上に位置する右手奥の南東隅に二二手目──この石は住職によって鰐亀わにがめと呼ばれる──が据えられる。こうして斜交いの流れは二重の流れとして存在感を増し、第一の流れにほぼ同等の力で拮抗することになる。
 二十手目から二十二手目にかけての三つの石は、第一に二重になった斜交いの流れを強化しており、第二に南西角にあたる大聖院の玄関側──沓脱石右手側──から庭を見たとき、これまでなら北東隅へと収斂する第一の流れの単調な石の連続性だけが見えていたところに左右への布石のひろがりをあたえている。しかし興味深いのは第三に、中心的な視点である沓脱石から庭を見たとき、この三石が視点をとり囲むような配置をかたちづくりはじめているように思われることだ。
 第一、第二の点は直感的に理解できる。ここからは二三手目以降の布石を見ながら第三の点、つまり視点をとり囲む布石について考えてみたい。

 二三手目は鯨石ともともとひとつの岩だったかのように、鯨石の北東側、つまり左奥に隣接して置かれた。二四手目はその左やや手前寄り、二五手目はさらにやや左の手前側だ。この二三手目から二五手目までの三つの石はすべて鯨石と似た丸みを帯びた柔らかな形態が選択され、一群として据えられていることがわかる。
 次に斜交いの流れを補強する二六手目が据えられ、沓脱石からの視点でこの石と十六手目が重なったため──「向こうの石と重なってるからちょっと変化つけなあかんな。ちょっと右にやろうか」──、十六手目をわずかに右に移動。次いで南端の暗色で飛び石状の一群と石質を揃えた二七手目が第一の流れを延長するように据えられる。

二七手目まで。ここで注意したいのは、ピンク色で指示したように、新たに打たれた石が視点をとり囲む配置をとりつつあるということだ。実際現場での見た目では二三手目や二七手目は視線を受け止める印象はなく、たんに半弧状に分布しているだけであり、むしろ四手目小鯨石がこの布石を印象づける。左上隅では四、二四、二五手目、右上隅では二二手目鰐亀石が強く作用している。また二十、二一手目も半弧からズレてはいるが同心円状の布石として視線をとり囲む効果を持つ。ここでは平面図で説明しているものの、二つの流れや視点をとり囲む布石は現場のなかでとらえたものであり、古川も平面図で思考していない

 このうち二三手目は二七手目と対になっており、ともに第一の流れの軸を補強、延長するものだ。これは斜交いの流れが二十手目から二二手目、そして二六手目によって強化されたことを受けて打たれた石だろう。
 視点をとり囲む布石の点からは、とりわけ二四、二五手目に注目したい。これらの石は総じて沓脱石付近から見て概ね横方向の広がりを持ち、視線を受け止めるように置かれている。前回、職人たちは石をなるべく大きく見せようとする動機があると言ったが、これは特定の視点から石を最大限大きく見せようとすると必然的にとるかたちでもある。
 この特徴的な二石に四手目子鯨石、斜交いの流れを強化した右奥二二手目の鰐亀石、第一の流れを補強した二三、二七手目を加えると奇妙な半弧状の分布が現れる。もちろん二二、二三、二七手目は軸を延長することが第一だとしても、この日の一連の流れのなかで打たれた手であり、なかでも二二手目は二四、二五手目と同じく、中央視点を囲む形で置かれている。
 奇妙にも視点を半弧状にとり囲む布石。これを「半弧の布石」と呼ぶとして、この配置はいったいなんだろうか?
 この配置は庭の世界で伝統的に受け継がれている常套句的な配置ではない。しかしながら石組の造形分析のなかでこの半弧に類した布石を想定した例はある。ともに龍安寺石庭の配石を分析した大山平四郎の「扇形状配石」と木戸敏郎の「楕円」だ。
 大山は龍安寺石庭の「配石を平面図に表して見ると、五群の庭石が方丈の中央を要として扇形線上に配置されていることがわかる」と言い、扇の要を「視点」と言い換えている。木戸は「広縁を移動する範囲の二点を焦点とする楕円」の効果によって「自分が石組の中心にいる安らぎを覚える」と言う[1]
 面白いのは、両者は龍安寺石庭に同じ円弧状の布石を想定しながらも、能動的に見ることと受動的に包まれること、あるいは平面図的な理解と場に埋没した身体的な理解において解釈が分かれていることだ。
 ここでは龍安寺石庭の解釈には立ち入らない。しかし彼らの議論を受けて提案したいのは、これら類似しつつ相反する二つの解釈の根底に、解釈以前の節約原理と身体的制約があるのではないか、という仮説である。
 ようするに、この原理と制約から必然的に視点を中心とした半弧の同心円に沿って、視線を受け止める「半弧の布石」が立ち現れてくる。この配置こそが扇形状配石と楕円の前提になっているということだ。

 古川は石組作業に指示を出すとき、必ずいくつかの特定の場所に戻る。施主や来園者は庭のなかを歩き回るのだから視点を固定してしまうのはおかしいと思われるかもしれない。それでもなお特権的な視点がいくつか設定されるのは、施主や来園者が落ち着いて庭を眺めるだろう位置──庭に面する部屋や縁側の沓脱石付近、順路上はじめて庭に面する場所や最後に面する場所──はあらかじめ想定することができるし、かつ庭師たちはそれを想定していくつかの庭を眺める地点を設定するからだ。
 しかしその想定の背後には節約原理が働いている。全方位からの視点に対応するように移動しながら石の姿形に指示を出すのは、石の見た目が変わり続ける以上困難であり、判断も極端に複雑になる。それ以前に、つねに歩き続けるのは面倒であり疲れる。この身も蓋もない判断や移動にかんする労力の節約は施主も来園者もある程度共有するのだから、特定の視点が設定されるほうがむしろ好ましい。視点移動への対応はそれゆえ、いくつかの視点を事後的に結びつけることで達成されるだろう。
 庭のなかにひとたび特権的視点が設定されると身体的制約が庭の布石を拘束する。視線の動きは眼球、頭部、腰の旋回、あるいは立ち位置を中心とする体の旋回に規定されるのだから、布石には必然的に偏りが生じる。
 この制約下で巡らされる円弧状の視線にたいして、特別な理由がなければ石のボリュームを最大化しようとする作業にかんする労力の節約が働く。最小の労力で石をなるべく大きく見せようとするのだから、石は視点にたいして面積が最大化するように据えられる。それゆえ石は視線を受け止める方向で、かつ円弧に沿って現れてしまう。

沓脱石周辺から撮影した半弧の布石の一部。中央左のツツジの右が二四手目、その右が四手目小鯨石、その右奥が三手目鯨石とひとつの石であるかのように据えられた二三手目。ここでは二四手目が半弧の布石にあたるが、以前据えられていた小鯨石も同様の機能を果たしていることがわかる

同じく沓脱石周辺から撮影。中央奥が鰐亀と呼ばれる二二手目であり、視線を受け止める半弧の布石としての役割を果たしていることがわかる

 「石の質が違うでしょう? だからある意味では処理・・やね」──半弧上に現れた二四、二五手目の意図について訊ねたとき、古川はこう答えている。また、斜交いの流れを強化する二六手目を据えたときにも「これでだいたい大きいのは片づいた・・・・ね」と述べている。つまり、この日に打った石の多くは造形的骨格を形成するこれまでの石とは異なり、仕舞いに向かうための石だと言うことだ。
 交差する二つの流れをかたちづくってきたここまでの配置には半弧の布石は現れていなかった。しかし古川が石組を「処理」や「片づけ」として認識しはじめたこの日、半弧状の配置が突如として現れてきたことに注意しておきたい。つまり半弧の布石はそれ自体を狙ったのでない限り、意図が半ば緩むことで現れてくる。
 意識の外側で進行する事態に規定される半弧の布石は、見る者に差し迫ってくることも造形的な違和感をあたえることもなく、穏やかで、ある意味では凡庸でもあるような配置ではある。それゆえ構想が主導する場面では顕在化けんざいかしづらく、意識的に構想された石組の外側に、その間隙かんげきを埋めるようにして現れてしまう。
 平面図上で上空から配置を思考する設計的手法をとるのではなく、場に飲まれながら、自らのパースペクティブに身を投じて即興的に作業する庭師たちにとって、この布石は節約原理と身体的制約から現れてしまう無意識的布石なのではないだろうか?[2]

 大聖院庭園においては、半弧の布石は余った石が処理される過程で現れた副産物のひとつにすぎない。だからこそ、これらの石は庭の外部にひろがる地形や岩盤との関係を想定するこれまでの布石とは性質が異なっている。
 しかし来園者が庭を見るとき、この布石はきわめて重要な効果を発揮する。これらの石は庭の内部に定位する身体をとり囲むことで、見る者の視線を受け止めて庭園内に滞留させ、視線が庭の外へと容易に抜け出てしまうことを防いでいるのだ。
 半弧の布石は庭を無限定な外部とのつながりから切り離し、限定された造形空間として切り出す効果を持つ
 庭の内と外はつながっており、かつ、切れている。庭石とは岩盤の延長であり、ツバキやサツキは背後の山に連なる。しかしこれらは同時に、ただ庭園内に散らばっている石や植栽でしかなく、ようするに庭でしかありえない。
 庭の内外を折りたたみ続ける作庭作業のなかで、半弧の布石は特異な位置を占めている。それは境界を示す土塀のように外的要因によって庭を区切る額縁ではない。半弧の布石は庭の造形的構造そのものによって庭の内外を分かち、視線を内部に滞留させ、庭を庭として、ひとつの造形的まとまりとして切り出そうとする。

 

折りたたむ

 いまやかなりの石が据えられた。作業がはじまった頃には庭にうずたかく積まれていた石はいつの間にか残り少なくなっている。わずかに小さめの石がいくつか転がっているだけだ。
 終盤に入り閉じられはじめた石組は、しかしまだまとめられてしまうわけではなく、内外を折り畳み続ける。それこそが作庭作業の本質であるかのように。
 十七日最後に打たれた二八手目は南西隅十二手目の北隣になる。今回の作庭以前に古川たちが据えた二連の石や今回十二手目に据えた石が立つ区画だ。

二八手目。布石がほぼ完成した。第二期石組の終わり。この二八手目の下方(西)、建物を越えた場所に中庭の流れの上流がある。また後に出てくるツツジも緑色で図示しておく(サツキという文字は誤り)。ちなみにこの連載で使用してきたこの荒い平面図はこの段階で描いたもの。十九手目四国石の左下、北西隅の平石は立体的な景石ではなく、平らに据えられた園路の一部であるため触れていないが、斜交いの流れの延長として考えられる重要な石だ。またこの図に延段は描いていないが、実際は北西隅の平石から沓脱石をとおって十手目と十二手目の間を抜けて石畳まで園路ができつつある

 住職と古川のやりとりからすれば、半弧をかたちづくった石と同じく、この石もまた強い意味を持たない。庭に転がっていた余った石──二八手目になる石──を指差しながら住職が言う。

「あれはいらんの違います?」
「ええ。あれは出してもいいんですけどね、ここ(十二手目の北隣)にひとつあってもいい・・・・・・んですわ」

 使わずに庭から出してしまってもいいが、「あってもいい」。この石は流れからも外れており、半弧状の布石とも無縁だろう。どちらかというと既存の二連石にたいして新たな二連をずらしつつ反復させたようにも見える。

沓脱石方向から撮影。中央のスコップの上に見える突き出た石が二八手目。右奥に隣接する黒っぽい天端が平らな横長の石が十二手目。既存の二連はその奥の紫陽花の影に見え隠れしている。左側では同時に延段の作業が進んでおり、山門の手前には第一の流れを補強した二七手目が見える

 しかし実のところこれら四つの石は庭の内外を折り畳む庭づくりのなかで非常に重要な意味を持つ。先回りすることになるが、石組がほとんど完成した数日後の四月二三日、住職と職人たちが十二手目の石──上から見ると三角形をしている──について交わした会話は驚くべきものだった。

住職「古川さんがあの三角の石は裏の庭・・・に続い・・・てる・・んや言うてね」
竹島「古川さんがよくやる手法ですね。道挟んで石据えるとか」
杦岡「つながるもんね。ちょっとするだけでパッとひろがんねん。じゃああの三角の石は(中庭への)矢印なん?」
鷲田「区切らない・・・・・んですよね。四国(でつくった庭)でもやってましたねえ」。
杦岡「そう。一個置くだけで変わんねん」

 十二手目は裏の庭につながっている!
 十二手目や二八手目を含む南西隅の四つの石が延段をまたいで中央石組との連続性を示していることを見てとるのはたやすい。しかしこれらの石は大聖院の建物までも越えて中庭の石組に連なっているというのだ。
 古川はかつて大聖院中庭の東側三分の二の作庭を手がけている。中庭はちょうど南西隅の四つの石から建物を挟んで西側に位置しており、そこには大小の石を組んだ西へ向かう小さな流れ──この「流れ」は排水のための小川のような石組──がある。大聖院庭園南西隅の十二手目、あるいは二八手目を含む周辺の三つの石は、この中庭の流れに連なっている。

大聖院中庭(非公開)の流れ。大聖院庭園南西隅の二つの二連の石はこの流れとの連続性を意図している。ここまでの連載でひたすらに石組を分析してきた目には、とりわけ右側の犬走りに接する三つの黒っぽい石がどれも同じ角度で、つまりはひとつの地形的構造として据えられることで流れにリズムをつくりだしていることがわかるだろう

 古川はかつて第一の流れが庭を越えて堂山や裾野へと続く構想を語ったが、ここでもまったく同じことが語られている。古川は庭を物理的に切り離す土塀や建物、園路になっている石畳や延段によって石組を「区切らない」のだ。
 中庭に連なる十二手目を据えた二日目の午後、古川はこうも述べていたのだった。

「石が余ったら向こう側(山門と玄関を結ぶ石畳のさらに南側)もしようかと思ってるんですわ。まだわかんないけどね。それでバランスがとれますね」

 「処理」や「片づけ」のために打たれた半弧の布石は、石組の造形的構造の内部に視線を滞留させた。しかし同じく「あってもいい」という何気なさで打たれた石であるにもかかわらず、二八手目を含む四つの石は庭を再び外の文脈に結びつける。
 中庭へのつながりを示唆する二八手目を終えたこのタイミングで古川は石組から離れ、石組にとり組んでいた職人たちに新たな指示を出す。職人たちは密集した北側の額縁のような寄せ植えから数株のツツジを掘り起こしはじめる。
 重たい石とは対照的に軽々と運ばれてきたいくつかの小さなツツジが、古川の指示のもと、庭の敷地中央やや北東寄りに密植される。たった数株の小ぶりなツツジにはそれほど大きな視覚的効果はない。
 しかしこの移植が、額縁のようだった植栽と、植栽を寄せつけない造形的領域のようだった石組とを混ぜあわせる。この一手が石の群れと植物の密植の、つまりは造形作品と額縁の関係を解くかのように[3]

唐突に石組から離れた古川は、鯨石の右手前にツツジを数株密植した。奥のサツキの大刈り込みと響きあって額縁の印象を薄めている。その意味では、山にたいするサツキの大刈り込みと同じ関係を反復しているようにも見える

 この日、第二期石組は終わった。余った石の処理を終えたいま、ついに大聖院庭園の石組は完成したのだろうか?
 しかしこの庭の石組はいまだ、現在つくられつつある石組とサツキの足元に潜む過去の石組とに分裂したままだ。いまだ延段の敷設作業は続いているし、板石を加工するのみ石頭せっとうがぶつかりあう金属音は響き続けている。作庭工事が終わってしまったわけではない。それでも既存石組はほとんどなきものとして進んでいる。

 もちろん石組のきっかけとなったへそ石や、第一の流れを方向づけた北東の隅石は既存の石だった。しかしながら、この庭が今とはまた別の庭だった過去の時間、その痕跡としての石組は、意図してか意図せずにか、抑圧されたままだ。
 だとすれば、庭の内部と外部を果てしなく折りたたみ続ける古川の作庭作業のなかで、いまだ充分に折りたたまれていない外部とは、地形でも山でも、庭を見る者の身体でもなく、この庭の底を流れる異質な時間ではないだろうか?

第二期石組を終えた四月十七日夕刻の大聖院庭園。手前では延段の作業が進んでいることがわかる。サツキの刈り込みの下に既存石組があるのだが、見ることさえできない

 およそ一年にわたったこの連載もようやく終わりを迎える。もちろん完結というわけではない。延段をとりまく庭師たちの悪戦苦闘にも続きがあり、石組にも偶然的かつ本質的な飛躍が訪れる。というわけで、続きは書籍版の完成をまってほしい。
 無名の庭を無名の人物が分析し続けるこの連載は無謀な試みだったかもしれない。けれど、はじめから終わりまで観察してみると、ありふれた庭のなかにもこれほど面白いドラマが詰まっている! 実際にフィールドワークをしていたぼく自身も驚かされるばかりだった。
 ともあれ、このような謎の連載を読み続けてくださったみなさまに、少なくとも気にかけてくださったみなさまに感謝して稿を閉じたい。もちろん取材を許可してくれた住職や庭師のみなさんにも。
 ありがとうございました!

 

[1]大山平四郎『龍安寺石庭──七つの謎を解く』淡交社、一九九五年、三五頁。木戸敏郎『若き古代──日本文化再発見試論』春秋社、二〇〇六年、一三五頁。
[2]半弧の布石はさまざまな庭に現れるだけでなく、筆者が庭の初学者を対象に実施してきた石組ワークショップのなかでも繰り返し形成される配置でもある。
[3]鷲田「ツツジ入れたら和尚さんもそれっぽくなったって安心してられるようでした」。竹島「あれ(移植したツツジ)がつながりを出してるから」。鷲田「ああたしかに」。

  

この連載は今回が最終回です。
長い間ご愛読をありがとうございました。