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2023.08.26

『数の値打ち グローバル情報化時代に日本文学を読む』

ためし読み / ホイト・ロング, 秋草俊一郎

デジタル・ヒューマニティーズ×日本文学研究の成果から生まれた『数の値打ち グローバル情報化時代に日本文学を読む』(ホイト・ロング著)が発売となります。データ・サイエンスの影響をうけた北米発の〈デジタル・ヒューマニティーズ〉の手法をつまびらかにする入門書にして、文学研究に量的革命を巻きおこす挑戦の書です。今回のためし読みでは、著者が日本語版のために特別に書き下ろした「日本語版への序文」(秋草俊一郎訳)を公開いたします。

 

日本語版への序文

 

日本の外で日本文学について研究し、執筆することは、一度に二つのまったく異なる読者にむけて書くことだ。つまり、北米のアカデミックな文脈で活動する文学研究者と、日本に軸足を置く国文学者。あるいは少なくとも、私はずっとそんな風に感じてきた。十年ほど前、研究にコンピュータ的な手法を取りいれると、第二の分裂が起こった。そういった手法を用いる文学研究者と、そうでない文学研究者。読者が二種類から四種類になったのだ。当時、四つのなかで一番小さかったのが、日本で日本文学の研究にコンピュータを用いるグループのようだった。日本の研究仲間にこの手の研究をしている人間がだれかいないか訊ねても、大抵はぽかんとさせてしまうか、そうでなければ言語学の分野の研究者の名前を二、三挙げられるだけだった。多くは新しいデジタル手法に興味津々だったが、作家やテキストを(数百とは言わずとも)数十の単位で読むというアイデアは依然としてあまりになじみがないものだったのである。以来、状況は大きく変わった。そしていま、コンピュータ手法を用いた私の実験の集大成が訳され、日本の読者に届けられるのを目の当たりにして、ひどくうれしく思っている。

もちろん、大きく変わったのは北米のアカデミックな文脈もそうだ。本書にとりかかったころ、「遠読」やコンピュータ手法を文学研究に用いるのは適切かどうかをめぐって議論が白熱していた。一部の人間にとって、議論は方法論にとどまらず、実存すらかかるものになっていた。まるでコンピュータ手法がディシプリンをまるごと食べてしまい、あとには心ない、人間計算機しか残らないかのように受けとったのだ。そんな瞬間に産まれた『数の値打ち』は、量的手法が無前提に実証的なものであるとか、精読の不俱戴天の仇であるとか見なす脊髄反射的な拒絶反応への私のあらがいだった。私が目指したのは、文学研究の内部にしっかりと根ざした立場からコンピュータ手法に問いかけること──そう、そうした手法と文学をめぐるアイデアとのあいだの対話の歴史を取りもどすこと。今日における学術的読みの実践をいかに補いうるか、あるいはいかに揺るがしうるかを理解すること。将来、知の構造の進化と文化資料アーカイヴの新展開によって変容するディシプリンを思い描くこと。知の思潮が変わりつつあっても、私にとってこれらが文学研究者にとって重要かつ不可欠な課題であることに変わりはない。自分の陣営に引きあげてタコツボを掘りつづけているものもいるが、デジタル手法戦争の立てたほこりもあらかたおさまった。だが全体として──少なくとも私の視座からは──この分野は数字とデータがその将来になにがしかの役割を果たすという現実を受けいれたように感じられるのだ。ツールやデータへのアクセスが容易になれば、より多くの人がデジタル手法にとりくみ、各自の必要に応じて用いることができるようになる。若い世代の学生や研究者は、とりわけ新しいメディアやインターネット文化の研究において、あらたな問いの領域を切り開くうえで、デジタル手法の価値を認めている。そして昨今のAIの発展は、あらゆる形式(文章、図画、翻訳)における人間の創造力を鋳なおしてしまいかねず、人文学の分野でのデジタルリテラシーの習得をなおさら猶予のないものにした。

日本でも、文学研究という学問分野とデジタル手法との関わり方に同じような変化を感じる。このような手法を学び、試してみたいという研究者や学会の意欲は高まっている。新たな、より大きなデジタルコレクションが多くの人々に利用可能になったことも手伝って、さらなる関心が寄せられている。そして他分野と同様、昨今のテクノロジーの発展に生みだされた危機感が、アルゴリズム主導のメディアや機械学習に対する批判的リテラシーをいかに築きあげるかという難題をあらためて喫緊のものにした。よかれあしかれ人文学者はいたるところで、本書のタイトルにもある新しい「グローバル情報化時代」と、現代の知の構造へのその避けがたいインパクトに対処せねばならなくなった。本書が、日本で目下進行中のこうした取り組みにわずかでも貢献できればと願っている。自然言語処理や情報検索のためのツールが進歩するスピードを考えると、本書で用いられた手法はすでにやや時代遅れの感がある。しかし本書の根底にあるのは、特定の手法ではなく、どうやったら文学テキストを数字をつかって考えられるかという問いである。そのような考え方に必要な基礎概念だけでなく、文学研究における表象、エヴィデンス、パターン、細部と全体の関係といった長年の関心事にこうした概念がいかに関わるのか理解したいと望んでいるむきにも本書は価値があるだろう。本書を執筆する過程で私が学んだことがあるなら、どれだけテクノロジーが変わっても、それが文学研究というディシプリンに提起する認識上・理論上の問題はディシプリンそれ自体と同じくらい古いということだ。現在ちがいがあるとすれば、昨今のテクノロジーの普及によって、より多くの研究者がこうした問題に関心をはらいがちになったというだけかもしれない。

少なくとも本書が、コンピュータやデジタルが日本文学研究において果たす役割について、さらなる対話をうながす一助になることを願っている。コンピュータやデジタルは人文学という制度がむかえた危機への唯一の処方箋ではないが、それに応じるうえで重要な一端を担うことになろう。『数の値打ち』が日本における現在の対話になにがしかの寄与をすることになるのなら、すぐれた訳者たち──シュン、今井亮一、坪野圭介──に負うところが大きい。私のアイデアと言葉、そして数字を、ニュアンスをたがえずに訳してくれたことにはいくら感謝してもしきれない。まちがいがあれば、著者ひとりの責任である。

二〇二三年 五月

(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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数の値打ち グローバル情報化時代に日本文学を読む

ホイト・ロング=著 | 秋草俊一郎・今井亮一・坪野圭介=訳

発売日:2023年08月26日

A5判・上製 | 416頁| 本体:4,000円+税 | ISBN 978-4-8459-2130-0