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2024.10.18

第1回 中平卓馬と西澤諭志の権力=風景論[後編]

風景のスクリーン・プラクティス / 佐々木友輔

映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第1回は中平卓馬と西澤諭志という2人の写真家を対比し、大阪万博を蝶番として、現代における権力=風景の様相を考えます。

 

西澤諭志——エフェメラルな権力の発見

 

大阪・関西万博──フィルタ文化の建築とデジタルネイチャーの構築
2022年4月18日、大阪・関西万博のテーマ事業「いのちの輝きプロジェクト」の基本計画が発表された。メディアアーティスト・研究者・起業家の落合陽一がプロデュースを手がけるシグネチャーパビリオン「null²」では、コンセプトのひとつに「変形構造体建築による新しい風景の鏡[1]」が掲げられている。パビリオン建築の外側は、金属と樹脂を組み合わせて作られた「ミラー膜」という新素材で覆われており、ロボットアームが内側からその膜を押し出したり、引き寄せたり、ねじったりする[2]。それにより、ミラー膜に映し出された周囲の事物がぐにゃりと歪み、リアルタイムに変化する未知の風景を楽しむことができるのだという。

50年以上前、中平卓馬は風景というヴェールを実体化し、切り裂くために写真を撮り続けたが、ここではむしろ新素材のヴェールを発明し、実用化し、現実を覆う新たな風景を生み出すことが試みられている。「null²」のミラー膜は明らかに、InstagramやTikTokなどソーシャルメディアにおけるフィルタ文化の延長線上に位置している。万博が始まれば、この建築の周りで無数の写真や動画が撮られ、各種SNSに投稿されるだろう。そこでは、フィルタというヴェールをかけることは、権力にとって不都合な現実から目を逸らせるための手段として批判されるのではなく、ありきたりな現実に加工を施し、より魅力的な現実を創り出すための手段として肯定される。そもそも「ありのままの現実」を捉えることなど不可能なのだから──問いの立て方自体が間違っているのだから──何が現実で、何が虚構かを見極めようとすることも不毛な試みでしかない。ならば、人為的な意味づけや操作、演出のリスクを過度に恐れるよりも、使用可能な技術をどう活用・善用できるかを考えたほうがはるかに生産的ではないか。落合は「魔法の世紀」や「デジタルネイチャー」などの概念を提唱し、リアルとヴァーチャル、アナログとデジタル、自然物と人工物といったものの境界が曖昧になり、区別できなくなる未来について繰り返し語ってきた[3]。デジタル技術の発展により、情報に直接触れるような感覚がもたらされ、メディアの介在を意識せぬまま使用するような環境(非メディア・コンシャス[4])が実現しつつある。それはまさに「新しい自然」であり、誰もが避けて通れない前提条件のようなものだ。人間とメディアの対立関係ではなく、協力関係や共生関係を強調することによって、中平的な風景批判やメディア批判──「ありのままの現実」が権力に覆い隠されているといった疎外論的な批判──は無効化されるのである。

メタンガスが切り裂いた風景
そして2024年8月現在、大阪湾に位置する夢洲では、翌年に迫った大阪・関西万博の会場建設が急ピッチで進められている。夢洲は、1970年代後半に廃棄物の最終処分場とするために埋め立てと造成が開始された。日本社会の発展と生活を維持すべく、日々排出される大量の廃棄物を受け入れてきた人工島は、今度はその表面をアスファルトやコンクリートのヴェールで塗り固められ、国家や地方行政が思い描く、理想の未来像を反映した風景へと作り替えられようとしている。

こうした新たな風景のヴェールを切り裂いたのは、永山則夫のような殺人犯やテロリストが放った銃弾ではなく、はたまた中平卓馬のような芸術家や報道カメラマンが撮る写真でもなく、地中の廃棄物から出たメタンガスだった。2024年3月28日、万博会場の西側工区に建設中のトイレ棟で、溶接作業中の火花が配管ピット内に溜まっていたガスに引火し、爆発事故が発生。日本国際博覧会協会の発表では、幸いにも死傷者は出なかったというが、事故現場以外でも複数箇所でメタンガスが検知され、万博会期中の事故リスクを懸念する声が高まっている。
日本国際博覧会協会が公開した事故現場の写真を見ると、コンクリート床部分が大きく破損し、埋め込まれていた鉄筋が剥き出しになっている。周囲にはコンクリートの破片が散らばっている様子が確認でき、小規模ながら固い地面を抉り上げた爆発の威力を物語っている[5]

コンクリート床及び床点検口の破損個所
出典=「会場建設現場における事故への対応について」(公益社団法人2025年日本国際博覧会協会、2024年、https://www.expo2025.or.jp/news/news-20240522-04/)

私がこの写真に強く引きつけられたのは、それがまさに現在の風景を象徴しているように見えたからだ。一方では、そこには風景の残骸が記録されている。廃棄物の最終処分場を強引に埋め立ててできたという場所の来歴に起因するメタンガスが、その上に覆い被さろうとした風景を切り裂いて、権力が本来隠しておきたかったもの──建設途中の内部風景や事故のリスクなど──を生々しく露呈させたのだ。だが他方では、この写真には、廃墟写真を連想させるような静謐さもある。見てはいけないもの、あってはいけないものを見てしまったというショックやスキャンダラスな印象よりも、過去にも同じような場所を見たことがある、知っているという既視感が先に立つ。地方の荒れ果てた公道や、一向に復旧が進まない被災地の街並みなど、財政が逼迫し、インフラが維持できなくなったために半ば公然と見棄てられた土地の風景と、この事故現場写真とが、重なり合って見えるのだ。
要するに、現在の権力が作り出す風景は、そもそも完全な「隠蔽」を目指していない。都合の悪いものを覆い隠す努力は放棄して、見せたい部分を見せるためだけに資金を注ぎ込む。おそらく2025年の万博会場では、最新技術によって構築された近未来的で華やかな風景と、日本の衰退を痛感させられるような貧しく無様な風景が、あっけらかんと同居していることだろう。そして観客は、どちらの風景を見続けていたいか、どちらの「現実」で生きていきたいかと無言で問われ、選択を迫られる。

西澤諭志の風景論
デジタル技術が隅々まで浸透した環境の中で暮らし、意識的にも無意識的にもその恩恵を享受してきた人間の一人である私は、今更すべてのヴェールを切り裂いて、デジタル技術やメディアに媒介されない「ありのままの自然」あるいは「ありのままの現実」という虚構の起源に回帰したいとは思わない。だが、そうした「新しい自然」の維持管理を一部の技術者や権力者に丸投げして、非メディア・コンシャスな生活を満喫すれば良いとも思えない。落合陽一が語るように、デジタル技術やメディアとの共生関係を築く道を選ぶとしても、そこで常に従順な態度をとる必要はない。決められた道から外れてみたり、ジグザグ歩きをしてみたり、使い方が決められた物の別の使用法を生み出したりと、「新しい自然」の恵みを横領・密猟して「なんとかやっていく[6]」こともまた、抑圧的な制度や権力に抗いながら、同時にもらえるものはもらっておくという「共生」の技法の一つである。
だとすれば、日常生活に無意識のうちに浸透した権力を明るみに出そうとした中平卓馬や松田政男の風景論にも、いまだ現代的な意義は残されていると言えるだろう。私たちの生がいかなる権力や技術によって条件づけられているかを知らなければ、抵抗も逸脱もしようがないからだ。ただし先述したように、これから語られるべき新たな風景論は、現実と虚構、自然と人工、個人と国家といった二項対立的な枠組みに囚われず、現在の状況に即したかたちに更新されなければならない。そのような課題に向き合い、実践している写真家として、西澤諭志の名を挙げることができる。

西澤は1983年長野県生まれ。東北芸術工科大学情報デザイン学科の映像コースで学び、写真展示や映像作品の上映などの活動を続けている。当初は大学の敷地内や自宅の部屋、自分自身の持ち物など、身近にあるものをカメラの目を通して見つめ直し、複数のアプローチを駆使して──集める、並べる、文字に書き出す、力を加えるなど──その対象を分析し尽くすような作品を発表してきたが、7年ぶりとなる個展「[普通]ふれあい・復興・発揚」(TAPギャラリー、2018)では、撮影範囲を日本全国にまで拡大。またそのさらなる展開として、2022年には水戸芸術館の現代美術ギャラリー第9室で個展「クリテリオム98 西澤諭志」が開催された(企画は同館現代美術センター学芸員の後藤桜子)。
同展では、四方の壁面に計14点の額装された写真作品が設置されており、中には、一枚の用紙に複数の写真が並べてプリントされたものもある[7]。被写体は、長崎原爆資料館やエコパーク水俣(水俣広域公園)、東日本大震災・原子力災害伝承館や雲仙岳災害記念館など戦災・人災・自然災害に関するモニュメント(追悼施設)か、東京オリンピック・パラリンピック選手村、皇居前広場に建造された令和の大嘗宮だいじょうきゅうなど国策イベントや祭祀のための施設に大別できるが、どちらにも当てはまらない写真もある。例えば、東日本大震災による災害廃棄物や除染廃棄物処理のために設置され、2014年から2019年まで稼働していた福島県双葉郡富岡町の廃棄物処理施設は、災害に関係する施設ではあるがモニュメントとは性質が異なる。あるいは、東京23区内の公園に設置された掲示板(子どもが描いた手洗い・うがいの推奨ポスターが掲示されている)や木々に張り巡らされたバリケードテープも、やはりモニュメントや国策・祭祀施設とは言い難いが、「防災」や「健康」といったキーワードを介して、他の写真とゆるやかに結びついている。

「クリテリオム98 西澤諭志」の展示風景
撮影=西澤諭志

このように、西澤は展示した写真群に無数のリンクを張り巡らせ、意味のネットワークを形成し、それぞれの共通点や差異、関連性を読み取るように鑑賞者に働きかけている。とりわけ強調されるのは、廃棄物処理施設や大嘗宮の一時的で仮設的な外観、公園内の小さなテント、さらにはサッカー日本代表のユニフォームを着た坂本龍馬像や、雲仙岳災害記念館に展示された防護服、北方領土イメージキャラクター・エリカちゃんの顔はめパネルなどによって反復される「包む」「纏う」「覆い隠す」といったイメージだ。後藤桜子は同展のリーフレットに寄せた解説文で、モニュメントの一般的な機能について、戦災や災害の凄惨な体験を「無難さ」によって覆い隠し、現地の実情や当事者個人の体験、情念を不可視化することにあると述べている[8]。モニュメントという象徴的な建造物には、新たな風景を呈示する機能と、現実の経験を隠蔽する機能が同時に備わっているのだという問題意識は、権力が作り出した風景のヴェールが「ありのままの現実」を覆い隠し、見えなくしているのだという中平および松田の風景論と響き合うだろう。西澤は写真を撮ること、モンタージュすることを通じて、「わたしたちの生を取りまく力学[9]」を浮かび上がらせようとしているのだ。

エフェメラルな権力=風景──「美しい日本」から「がんばろう日本」へ
ただし西澤は、風景のヴェールを切り裂き、その向こうにあるはずの現実を可視化しようとするのではない。先述したように、現実と虚構の二項対立を設定した上での疎外論的な風景批判は、「ありのままの現実」を捉えることなど不可能だという諦念、人為的な操作や演出を駆使してでもよりマシな現実を創出する努力をするべきだというプラグマティックな主張の前に無化されてしまうだろう。そうした隘路から抜け出すべく、西澤が対象化(風景化)を試みるのはヴェールそのものであり、また、そのヴェールが実用されることによって生み出される新たな現実である。モニュメントや国策施設、祭祀施設といったものがいかなる目的や意図で設置され、いかなる機能を担い、結果、何をどの程度覆い隠したり、強調して見せたりしているのかを、写真の撮影と展示(配置)を通じて分析し尽くすことが肝要なのだ。
実のところ、個々のヴェールが隠蔽しているものの正体を探るだけなら、それほど難しい作業ではない。「クリテリオム98 西澤諭志」の会場では、出品作品のリストと、そこに映る主な施設や用途、来歴が手短に記されたハンドアウトが「資料」として設置されていた(文責は後藤桜子)。ハンドアウトの右下にはQRコードが付されており、資料作成のために参照したウェブサイトなどの出典を確認することもできる仕様だ。西澤と後藤は、覆い隠されたものを暴露的・暴力的に示すのではなく、調べようと思えば誰でも調べられる情報として粛々と提示することを選んだ(そんなことは芸術の仕事ではないと言わんばかりに)。写真の展覧会としてより重要なのは、やはり、それぞれの写真=風景が組み合わせられることによって浮かび上がる、権力の力学である。

西澤愉志《島原市平成町 島原復興アリーナ/雲仙岳災害記念館》(2019年)

あらためて同展に出品された写真を見ると、それぞれ異なる目的のために掛けられたヴェールが、共通してエフェメラルな物質性を備えていることに気づく。廃棄物処理施設や大嘗宮、あるいはユニフォームを着た龍馬像の仮設的な装いは、それが恒久的な設置に耐えるものではなく、一定期間を過ぎれば剥がし取られ、撤去される運命にあることを示唆している。皇居前広場のカラーコーン、公園の木々に貼られたバリケードテープも、外敵の侵入を防ぐ堅牢さはなく、ただ「これ以上進んではいけない」と警告を与えるのみである。そして何より、子どもが描いた啓発ポスターやゆるキャラ(エリカちゃん)が示すように、これらのヴェールはヴァルネラブルなもの──弱々しく傷つきやすいもの、他者からの攻撃を誘発させるもの──として自らを規定し、そのように振る舞う。何かを覆い隠しているのは悪意や疾しさのためではない、善意や慎ましさのためなのだ……と。
西澤が記録・収集した風景のヴェールは、子ども向けの親しみやすさや復興のための補修、宗教的な禁忌など、間テクスト的な意味のネットワークを無数に張り巡らせることで、一太刀では容易に切り裂き難い、したたかな強度を持っている。力強く壮観な風景を見せつけて己の威信を誇示するのではなく、エフェメラルでヴァルネラブルな外観を無防備に晒すことで同情や憐れみを誘い、権力批判の語気を弱めさせ、むしろこの難局を共に乗り越えよう、協力しよう、共生しようと呼びかける。なるほど、以前の展覧会で西澤が「普通」「ふれあい」「復興」「発揚」というキーワードを並べ、結びつけたのはこういう理由かと得心が行く。現在の私たちを取り囲む風景は、1970年代に「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンが再発見を呼びかけた「美しい日本」の風景というよりも、第二次世界大戦中の国威発揚言説や、東日本大震災など大災害からの復興を掲げる言説の系譜上にある、「がんばろう日本」の風景なのだ。


[1] 「2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)について」公益社団法人2025年日本国際博覧会協会、2023年7月時点、p.16、https://www.expo2025.or.jp/wp/wp-content/themes/expo2025orjp_2022/assets/pdf/overview/overview.pdf
[2] 奥山晃平「ぐにゃりと風景がゆがんで映る鏡面膜、落合陽一氏の万博パビリオンを設計者に聞く」日経クロステック、2024年5月7日、https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/02484/041200038/
[3] 「魔法の世紀」と「デジタルネイチャー」の概念については、落合の初単著『魔法の世紀』(PLANETS、2015年)および2冊目の単著『デジタルネイチャー——生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS、2018年)で詳しく説明されている。
[4] 落合陽一『魔法の世紀』前掲、p. 25
[5] 「会場建設現場における事故への対応について」公益社団法人2025年日本国際博覧会協会、2024年5月22日、https://www.expo2025.or.jp/news/news-20240522-04/
[6] 権力の網の目を掻い潜り「なんとかやっていく」ための技法については、ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、ちくま学芸文庫、2021年)を参照。
[7] 作品点数は展示された額の枚数でカウントした。
[8] 後藤桜子「生を取りまく力学を見る」『水戸芸術館クリテリオム98 西澤諭志』会場配布リーフレット、水戸芸術館現代美術センター、2022年、p. 2(表紙を1頁目とカウントする。)
[9] 同前、p. 2

*次回は11月8日(金)に公開予定です。


 

本連載にバナー写真を提供いただいている作家・かんのさゆりさんの参加する展覧会が、
東京都写真美術館で開催中です。ぜひ足をお運びください。

「現在地のまなざし 日本の新進作家 vol.21」
出品作家:大田黒衣美、かんのさゆり、千賀健史、金川晋吾、原田裕規
会期:2025年1月19日(日)まで
料金:一般 700円/学生 560円/中高生・65歳以上 350円
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4822.html

プロフィール
佐々木友輔ささき・ゆうすけ

1985年神戸生まれ。映像作家・企画者。鳥取大学地域学部准教授。映画・ドキュメンタリー制作を中心に、執筆や出版、視覚メディア研究、展覧会企画など領域を横断した活動を行う。主な長編映画に『コールヒストリー』(2019)、『映画愛の現在』三部作(2020)、『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』(2022)など。現在は、鳥取にかつてあった映画館やレンタルビデオ店の調査から日本映画史の再記述を試みる「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」(Clara、杵島和泉との共同企画)に力を入れている。https://note.com/sasakiyusuke

イラスト:品岡トトリ

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